社会

2025年9月18日 17:00

海外でサリン事件の“予行演習”も…オウムに対峙した捜査機関の苦悩 資料を独自入手

海外でサリン事件の“予行演習”も…オウムに対峙した捜査機関の苦悩 資料を独自入手
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オウム真理教による地下鉄サリン事件は未曾有の大惨事となった。しかしその2年前、オウムはオーストラリアで極秘にサリンの実験を行い、さらには「核武装化計画」まで進めていた。教祖・麻原彰晃の逮捕から30年が経ったいま、真相に迫る。

(テレビ朝日報道局 清田浩司) 

キーマンが語る“核兵器開発計画”

1993年夏、サリンの生成に成功したオウムでは、教祖・麻原彰晃(本名・松本智津夫)のもとに幹部らが集められサリンの大量生産について話し合われた。最高幹部・村井秀夫は麻原の指示を伝える。

「サリンを70トンほど作りましょう」

それは人類70億人を死に至らしめる量だ。

旧ソ連製の大型軍用ヘリコプターも購入し、サリンを空からばら撒く計画を立てていた。これに対し、のちに自衛隊のヘリも臨戦態勢を取るほどだった。

この1993年には、麻原から核兵器の調査の指示もあった。調査に携わったメンバーのなかに、オウム“武装化”のキーマンがいる。

元オウム幹部・野田成人氏。麻原の側近として仕え武装化の一端を任された人物だ。

元幹部の野田成人氏
オウム真理教元幹部の野田成人氏

東京大学理学部でノーベル賞を目指していた頭脳をかわれ、科学技術班(後の科学技術省)に所属し、村井のもとで動いていた。

地下鉄サリン事件以降、一時オウムの後継団体の代表を務めていた。しかし2009年「麻原を処刑せよ」と発言したことで除名になり、現在は教団と一線を画している。

「指示を受けたのは1993年の頭ぐらい。核兵器について調べるという話がありました。最初は調べているだけでしたが、本気で作ろうとしていましたね」

野田氏はそう語る。麻原は核兵器の開発まで計画していたというのだ。

「ウランの採れる土地がオーストラリアにあるから押さえるという話がありました。出家信者が10名近くと科学技術班の村井ら10名の計20名ぐらいで行きましたね。麻原ももちろん行きましたよ」

麻原は信者20人余りを引き連れオーストラリアへと渡り、ウランの採掘と核兵器の開発を試みたというのだ。10年前、野田氏のこの話を聞き、私もオーストラリアへと飛んだ。

ウラン採掘 費用は2000万円

オーストラリア西海岸に位置するパース。世界各地から観光客が訪れる風光明媚な街に降り立ち、オウムは核武装計画を進めた。

当時、オウムを捜査した元オーストラリア連邦警察長官ミック・パーマー氏に会うことができた。33年間、重大犯罪の捜査に関わってきた人物だ。

元オーストラリア連邦警察長官のミック・パーマー氏
元オーストラリア連邦警察長官のミック・パーマー氏
「彼らが税関で問題を起こしたと連絡がありました。その段階では彼らが何者なのか、私たちは全く知りませんでした」

麻原がオーストラリア入国のために書いたというビザの申請書を見ると、入国の目的は観光と書かれていた。しかしパーマー氏は言う。

「彼らが持ち込んだ大量の品には、普通でない物がありました。『ハンドソープ』とラベルのついた劇薬もあったのです」

さらに発電機などの機械類とおよそ2m四方、200キログラムもの小型掘削機を2台も持ち込もうとしていた。税関は薬品と掘削機を危険視して押収。危険物を持ち込んだ罪で約50万円(4800豪ドル)の罰金を科すが、麻原一行は入国を果たす。

麻原一行が向かったバンジャワンの町
麻原ら20人余りの一行が向かったオーストラリア・バンジャワン

麻原ら20人余りの一行は、小型飛行機2機をチャーターして、バンジャワンに向かう。パースから北東に700キロ、内陸部の小さな街だ。

私も小型機に乗り込み、彼らと同じルートでバンジャワンに向かった。そこは東京都ほどの広さの巨大な牧場だった。「ここは火星か?」と思わせるほど広大な大地は赤茶けていた。小さなコバエが無数に飛び交っているのが難儀だった。

出迎えてくれたのは、牧場主のニール・ホワイト氏。オウムから2400万円でこの牧場を買った人物だ。オウムがここにいた痕跡は確かにあるという。その痕跡までは車で20分ほどかかる。

牧場主のニール・ホワイト氏
オウムから2400万円で牧場を買った、牧場主のニール・ホワイト氏
「確かだいたい直径3m、深さ1m位の大きな穴がここにあって、土の山はあそこにあったと思うよ」

ハンドルを切りながらニール氏が話しかける。取材を進める中でオウムは掘削機などをオーストラリアで新たに調達したことが判明した。

その総額は2000万円。そこまでの執念で巨大な穴を掘り上げていたのだ。

オーストラリアの牧場で見つかった、オウム信者らが堀った穴
オーストラリアの牧場で見つかった、オウム信者らが堀った穴

ニール氏によると、この辺りには質のいいウランを求め、世界各国の企業が調査に来るという。決して闇雲にではなく、ウラン採掘を本気で試みていたと聞き、空恐ろしい気がした。

さらにオウムは、牧場の中に研究所を作っていたという。ニール氏に案内してもらい、その場所に向かうと、入り口にはペンキで「DANGER」と書かれていた。研究所とはいえ、工事現場の飯場のような平屋建てだ。

「DANGER」と書かれた看板
「DANGER」と書かれた看板

オウムに取り込まれた“バブル世代”

当時の痕跡はほとんどなかったが、ニール氏が見せてくれた1995年の映像では扉に看板が掲げられていた。

その名は「豊田研究所」。

実は、この「豊田」も事件に深く関わっている人物の名前だ。科学技術班の豊田亨である。東京大学大学院で物理学を学び、後に地下鉄サリン事件の実行犯となった。

なぜ東大でもエリート中のエリートの物理学を専攻しながら、豊田はカルトに吸い込まれてしまったのか。残されている教団ビデオで豊田はこのように発言していた。

豊田亨元死刑囚
オウム真理教元幹部の豊田亨元死刑囚
「物理学を学びながらも唯物論的(物質主義)な物の見方で全てが分かるのだろうかという疑問を持っていました。これに対する完全な回答がオウム真理教の教義にあったわけです」

豊田は私と同学年で、いわゆる“バブル世代”。入信、出家したのは、バブル景気に日本中が浮かれていた1980年代後半から1990年代初頭だ。金さえあればいいのか?などと当時の風潮に反発した“真面目な学生”たちが、精神世界の充実を求めオウムに取り込まれてしまったと私は思う。

「調べたらいま出家信者で一番多いのは1967(昭和42)年生まれです」

十数年前、オウムの後継団体アレフを取材中に、幹部からそう聞いたこともある。

つまり多くの“バブル世代”がオウムに取り込まれてしまったのだ。

現地で判明したサリン事件の“予行演習”

そしてオウムのさらなる恐ろしい計画を知ることになる。

「この西オーストラリアで、彼らはサリンを製造し、実験をしたのです」

そう断言したのは、州警察でテロ対策に関わっていたデビット・パーキンソン氏だ。

記者らに説明するデビット・パーキンソン氏
記者らに説明するデビット・パーキンソン氏

当時の映像を見ると重装備で捜索する捜査官たちの姿があった。焼け跡から重要な証拠物を拾いあげている。デビッド氏が証言する。

「彼らは去る前に大きな穴を掘りすべての証拠を隠しました。そしてガラスの破片さえも高熱で燃やしつくしたのです」

そして、現場から発見されたのは大量の羊の死骸だった。死んだ羊からサンプルを取り、分析すると驚くべき結果が出たという。

「羊の毛からサリンが使われたという証拠が出た。羊たちはサリンによって死んだのです。彼らは可動式の柵で狭い地下鉄のような空間を作り、羊たちを隙間なくつめこみました。そしてサリンを撒いたのです」
現場に残された大量の羊の死骸
当時、現場に残されていた大量の羊の死骸

サリン散布の実験が日本から8000キロ離れた西オーストラリアで行われていていたという驚愕の証言。この翌年には松本サリン事件が起きている。つまりオウムは動物を使いこの地で予行演習を行っていたのだ。

この時点でオーストラリア警察当局と効果的な連携がとれていたら…との思いも湧いた。

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幻となった「大崎警察署サリン事件」

ところで、大崎警察署もテロの対象としてオウムから狙われていたのはあまり知られていない話だ。

大崎署には、1995年2月に起きた目黒公証役場事務長・假谷清志さん監禁致死事件の特別捜査本部が置かれていた。

一連のオウム事件で、95年3月22日の教団施設への一斉捜索以降、いわゆる“ガサ状”(捜索令状)や逮捕状を請求していたのは、大崎署の刑事防犯課長だった佐久間正法氏だった。

当時、大崎署で捜査の現場指揮にあたり、のちに警視庁捜査1課長となった佐久間正法氏(提供 朝日新聞社)
当時、大崎署で捜査の現場指揮にあたり、のちに警視庁捜査1課長となった佐久間正法氏(提供 朝日新聞社)

佐久間氏は5か月間で540本ものガサ状をとり、麻原ら38人の逮捕状もとった。サティアンなどを捜索する際に、捜査員がガサ状に書かれている令状裁判官の名前と並んで請求者として書かれている「大崎警察署・佐久間正法」の名前が読み上げられたため、オウムの中ですっかり有名人になってしまった。

オウムは「諸悪の根源は佐久間にあり」と逆恨みし、佐久間氏の家族がジャージを着た丸刈りのオウム信者らしき男に追いかけ回されたり、ナンバーのついていない白い車に付け回されたりと何度となく身の危険を感じた。

その佐久間氏から聞いた話が「大崎署サリン事件」である。

大崎警察署(提供 朝日新聞社)
大崎警察署(提供 朝日新聞社)

実は「3月20日に地下鉄にサリンをまくと同時に、大崎署にも女装した男の信者がブラジャーの中にサリンを隠して1階の女子トイレにまく」という計画があったという。

地下鉄サリン事件の1週間ほど前、オウムから逃れてきた30代くらいの男性が大崎署に駆け込んで来た。受付から連絡があり佐久間氏が応対すると、こう警告したのだ。

「オウムを甘く見たら大変なことになりますよ」
「警察署はもっと厳重に警備しないとみなさん危険です!」

事態を重く見た大崎署は、署長命令で出入り口にバリケードを設置したうえ、金属探知機を導入し、所持品検査も始め厳重警備を敷いたのだ。その結果「大崎署サリン事件」は幻となった。

これは教団諜報省トップだった井上嘉浩の取り調べで後日分かったことだという。この脱会信者の警告がなければ大崎署でも甚大な人的被害が出ていた可能性があった。

元幹部の井上嘉浩元死刑囚(提供 朝日新聞社)
オウム真理教元幹部の井上嘉浩元死刑囚(提供 朝日新聞社)
「今考えてもゾっとするよ。30年前のあの時、厳重警備を敷かなかったら今頃、オレもここにはいなかったよな」

佐久間氏も、遠くに眼をやりながら述懐した。

「天文学的な逮捕・捜索令状」

「清田さん、お手すきの時に事務所までお越し願いませんか、渡したいものがあるので」

“ヤメ検弁護士”から携帯に電話があったのは数年前のことである。東京地検特捜部にも在籍した元検察幹部だ。都内にある事務所に向かうと二十数枚ほどの資料を渡された。

「資料整理していたら出てきたものでね。私が持っていても仕方ないので清田さん、好きなようにしてください」

最初は何のことやら話がつかめなかったが「テロ事件捜査の観点から振り返るオウム事件捜査」という表題を見て吸い込まれていった。地下鉄サリン事件から11年後、検察幹部を集めた捜査報告会で配られたレジュメで、マル秘の印が押されたページもあった。

検察庁内の会議室に数十人が集まり、オウム事件の捜査指揮をした検察幹部らの報告を2時間ほど皆、真剣に聞いていたという。

元検察幹部から入手した「テロ事件捜査の観点から振り返るオウム事件捜査」という表題の内部資料
元検察幹部から入手した「テロ事件捜査の観点から振り返るオウム事件捜査」という表題の内部資料

冒頭から検察の“苦悩”が透けて見えてくる。書かれていたのは、次の文章だ。

「刑訴法の目的を超える発想で刑訴法による捜査。正確には、刑訴法によるしかなかった戦争類似の国家的作用」

オウムは国家との対決姿勢を鮮明にし“戦争”を標榜したが、検察内部でも同じような実感があったのだろう。そして、以下の記述も驚きを禁じ得ない。

・警察庁の指揮による全都道府県警察と地方検察庁の3分の2が関与
・独立国家類似の共同体組織による軍事的犯罪集団性と、全貌を把握・解明しきれない犯罪の山
・天文学的な逮捕・捜索令状(逮捕者の実数456人、適用した罪名74)
「天文学的な逮捕・捜索令状」などと書かれた検察の内部資料
「天文学的な逮捕・捜索令状」などと書かれた検察の内部資料

全国で456人もの逮捕者が出た凶悪事件など、後にも先にもオウム事件しかないであろう。検察の捜査体制も当初の7人から、全国の高検から応援をもらい85人態勢になったともある。オウム信者の場合、一筋縄ではいかない輩が多く、黙秘や否認を続けるケースも多かった。

「第二次オウム真理教関係者に対する一連の被疑事件捜査本部」と記された組織図を見ると、地検ナンバー2の次席検事が本部長となり、副本部長に刑事部長、取り調べの最前線となる「身柄班」に担当検事の名前が記されている。所属を見ると「刑事部」、「公安部」の他に「特捜部」の検事の名前も多くみられる。

「政界汚職事件などを手掛け、検察の“花形”とも言われる特捜検事たちが、ここまで駆り出されるのは異例中の異例だ」

元検察幹部はそう振り返る。

「何度捜索しても次々に」資料に滲む苦悩

もちろん、特捜部だけでなく地検の刑事部、公安部もフル稼働していた。刑事部は主に殺人事件、公安部は銃器関係、特捜部は後に死刑となる重要な被疑者の取り調べを担当したという。 

確かに特捜検事が担当していた被疑者を見ると、新実智光、中川智正、井上嘉浩、遠藤誠一ら、坂本弁護士一家殺害事件や松本・地下鉄両サリン事件に関わった重要幹部たちだ。

特に新実は黙秘を続け、取り調べは難航を極めたが、ある特捜検事が時間をかけて自白させ、調書を作成することができた。

幹部だった新実智光元死刑囚(提供 朝日新聞社)
オウム真理教元幹部の新実智光元死刑囚(提供 朝日新聞社)

まさに前代未聞の組織的犯罪に、検察も全庁をあげてオウムと対峙していたのだ。レジュメの行間には検察がオウムに翻弄されていた様子が滲んでいる。

「1か月間に発布を受けた捜索令状は5千通を超え押収した証拠物を保管する場所がなくなる」
「何度捜索しても次々に証拠物が出てくる不思議」
「血の滲む物(ブツ)読み作業開始」

レジュメの最後には「50人を超える信者の不審死を始め種々の事件事故について不明部分が多い」とある。一連のオウム事件では立件されただけでも29人もの犠牲者がいる。

その他にも教団内で不審死を遂げたり、いつの間にか行方不明になったりした信者が数十人はいると、私も脱会信者から聞いたことがある。オウム事件の全容はいまだ解明されていないナゾがあるのだ。

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「ちゃんと対応していれば」

「確かに捜査機関のみなさんは血の滲むような捜査とか仕事をなさったのは分かりますけど、こちらは命を奪われているわけですから…」

こう訴えるのは地下鉄サリン事件で命を落とした霞ヶ関駅助役・高橋一正さんの妻・シズヱさんだ。先の検察内部文書に目を通しての第一声だった。

高橋シズヱさん
高橋シズヱさん
「自分たちがいかに一生懸命やったかという手柄話ではなくて、まず『こういう失敗があった』と言うべきじゃないのですか?表現を見ると文章の端々でだいぶズレているなと思いますよね」

そしてシズヱさんは強く訴えた。

「やはりその時点、その時点でちゃんと対応していれば防げたはずです。ちゃんと対応していれば、地下鉄サリン事件が起きてから日本の警察・検察総動員して『大変だ、大変だ』って、そんなことにはならなかったじゃないかと強く思います。今回の問題点を教訓にして、後手後手にならず小さな種のうちから気を付けて犯罪の芽をつぶしていって欲しいですね」

オウムに抗議する住人を排除した警察

実はもう一人「地下鉄サリン事件は防げた」と常々、訴えてきた人物がいる。オウムが山梨県上九一色村に侵出して以降、いち早くその“異常性”に気づき、村民として教団と対峙してきた竹内精一氏だ。今年で御年97歳だが、矍鑠(かくしゃく)として記憶力も素晴らしい。

竹内精一さん(提供 朝日新聞社)
資料を開く竹内精一さん(提供 朝日新聞社)

竹内氏によるとオウムが上九一色村の土地を始めて取得したのは1989年8月、村も住民も分からなかったという。1990年5月には、建築確認がおりたことが分かり住民たちは激怒する。翌6月に「富士ケ嶺オウム真理教対策委員会」を発足させ、竹内氏は代表委員の一人となる。村民らは県の土木事務所や保健所に立ち入り検査を要請するも、当局は法的措置に慎重な構えだった。

オウムは上九一色村に次々に土地を確保し、転入する信者も増えていく。竹内氏によると村民より信者の方が多くなる勢いだったという。

1991年2月、代表委員が塀の下から潜り込み、地下室と思われる写真を撮り、「建築確認申請と違うのでオウム施設に立ち入り調査をしてほしい」と都留土木事務所に要請する。オウムは建築申請していない地下室を作り始めていたのだ。

オウム対策委が教団に工事中止を申し入れるが、その8日後、オウムは生コン車を建築現場に入れようと実力行使に出る竹内氏を先頭に住民ら200人が道路の辻々で座り込みをして対抗する。すると信じられない事態となる。

オウムから通報を受けた警察の機動隊が出動し、住民たちの方を排除したのだ。

住民らは「警察はどちらの味方なんだ!」と強く抗議するも、警察は代表委員の一人に「明日もやったら逮捕する」と通告したという。当時の地元警察は、まだオウムの“正体”を知らなかったのだろうか?この地下室こそ殺害された信者の遺体焼却の場ともなり、その後幹部7人がここに隠れ逮捕された曰くつきの場所でもあったのだ。

取材に答える竹内精一さん
取材に答える竹内精一さん
「オウム抗議の座り込みして警察に排除されるなんて…これだけは住民もショックでしたね。それからはみんな警察をあまり信用しなくなったんだよ。保健所に検査をお願いしても『オウムから入っちゃ困りますと言われたから入らなかった』とか、本当に行政、警察は1995年まで何もしなかった。我々のいう事を聞いていれば、松本サリン事件は分からないけど、地下鉄サリン事件は防げたはずだ…と、一貫して私は言っているんです」

「30年経っても涙が乾くことはない」

我々メディアはよく「事件の風化を防ぐ」などという言葉を使いがちだ。もちろん、言っていることは間違っていない。しかし、遺族・高橋シズヱさんは常々「風化」という言葉に嫌悪感を示す。今年3月に行われた「30年の集い」でもこう訴えている。

「風化、風化とよく言われます。私にも面と向かって言われますが『だから何?』と反発したくなります。人々の記憶は薄れるでしょう。でも私たち被害者と被害者の代理人である弁護団は現在もオウム真理教の後継団体と闘っている最中です。『風化といわれていますが、どう思いますか?』と、風化の原因がいかにも私たち被害者にあるかのような言われ方をするのは心外です。私たち被害者は、サリンの後遺症の苦しみと闘いながら、そして被害者の代理人である弁護団も風化を防ぐために、できる限りのことを尽くしているのです」
会見する高橋シズヱさん
会見する高橋シズヱさん

遺族・被害者の心の傷や痛みは決して癒えることはない。約10億円にも上るオウム後継団体の被害者側への賠償問題も未解決のままだ。

この事件が過去のものではなく、現在進行形であることを、遺族・高橋シズヱさんの言葉を引き最後に訴えたい。

「坂本堤弁護士は『人を不幸にする自由はない』とおっしゃったそうですが、オウム真理教に関わった人はみんな不幸になりました。オウムに入ってしまった信者の家族も、事件の被害者も、30年経っても涙が乾くことはないのです」

※週刊新潮5月15日号に掲載された記事を再構成しました。

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