戦争で兵士が負った心の傷。終戦から80年が経ち、旧日本兵が苦しんだ、PTSD=心的外傷後ストレス障害の実態調査が行われています。
勇敢な兵士の面影が消えた父
「おじいちゃんピースしてくれ!早くしてくれよ。早くピースしてくれ!早く!」
祖父に呼び掛ける孫…しかし、祖父の黒井慶次郎さん(当時75)はにこりともせず、ただ一点を見つめるのみ。
「これが父親ですね。21歳の時の父親」
慶次郎さんは満州事変の翌年の1932年、召集令状が届き20歳で入隊。中国での戦闘に2年間加わった。
その後、太平洋戦争が始まる1941年に再び召集され、中国戦線に投入された。当時、慶次郎さんが記していた日記には…。
「荒れ狂う北満の寒風のなか、砲煙弾雨の中を物ともせず堂々と進む我が戦車の偉容」
使命感が表れた勇ましい言葉が並んでいた。
「父親は当時にしてはすごく出世して、二等兵、一等兵、上等兵、兵長、伍長、陸軍軍曹までなっていて、召集された兵士としてはほぼ登り詰めたんじゃないかと思います。だから優秀な兵士だった」
しかし、戦地から戻った慶次郎さんには、優しい父親・勇敢な兵士といった面影はなかった。
定職に就かず、家にこもりがちになった父。家族が話しかけても返事もしない父を煩わしいとさえ思うようになってしまったという。
旧日本兵が苦しんだPTSD
慶次郎さんは1990年、77歳で亡くなった。悲しみはなかったという黒井さんだが、ある出来事が父への思いを一変させた。
1965年からベトナム戦争に本格的に参戦したアメリカでは戦地から帰還した兵士たちの多くが、精神障害を発症した。
その後の研究でアメリカ精神医学会が、PTSD=心的外傷後ストレス障害という病気の実態を発表した。
自分の父親もPTSDだったのでは…そう考えた時、黒井さんの胸に込み上げてきたのは、後悔の念だった。
日本兵のPTSDが知られなかった理由
黒井さんは自宅の一角に資料館を作り、日本兵のPTSDについて語り合う集いを開催しながら、この問題を広める活動を続けている。
戦時中からの日本兵を診察したカルテにも、PTSDと思われる症状が記されていた。
幻聴が聞こえ、悪夢に悩まされる。感情が乏しくなり、人との交流を避けるような症状もあった。しかし、日本兵のPTSDは戦後、長い間知られることがなかった。
その理由について、長年この問題を研究している上智大学の中村江里准教授はこう話す。
これは、1939年発行の新聞記事。そこには「大戦名物の砲弾病 皇軍には皆無」。日本兵に心を病んでいる兵士は一人もいないのだと、記されていた。
戦争により壊れてしまった家族が、自分以外にもいる。黒井さんは仲間を募り、国に対し、戦争によるPTSDの調査と公開を呼び掛けてきた。
国による初の実態調査
そしてついに先月、戦後、国が調査した資料が公開された。兵士たちがPTSDにより苦しんでいた歴史を国が認めた一つの転換点だ。
「この方はもういないわけですよね。今、この問題はないのかというと決してそうではなくて。子どもたちに連鎖して。子どもたちが殴ったり蹴ったりされたり、面前DVを受けて心壊した我々の仲間は大勢いるわけだから」
「本当に人生をPTSDで棒に振ったんだから、我々の父親のような、祖父のような兵士を生まない。つまり戦争をしない、なんとしても日本の世論になるように声を仲間と一緒に出し続けていきたい」
兵士以外にも 深刻な問題
慶次郎さんのように、戦争が終わっても心の傷を抱えたまま人生が大きく変わってしまった兵士が少なくないということなんですが、こうしたPTSDに関する問題は、終戦から80年が経ってもまだまだ課題が残されているようです。
太平洋戦争でPTSDを患った人の調査対象について厚労省は、戦争が原因で精神疾患を発症し、政府が「戦傷病者」と認定した旧日本兵などに限られるとしています。
黒井慶次郎さんは当時、精神疾患などの診断を受けていないため、今回の厚労省の調査対象には当たらないといいます。
また厚労省は、戦争でPTSDを患った人は旧日本兵だけでなく、その家族や空襲にあった人、被爆者など民間人も多岐に渡るという認識を示しながらも、調査の対象にはしない方針です。
その理由について、PTSDの調査を行う学芸員が所属する「しょうけい館」が「戦傷病者」を対象にした施設のためだとしています。
旧日本兵のPTSDの実態などを研究している上智大学の中村准教授は、兵士以外の問題も深刻だと指摘しています。
(「大下容子ワイド!スクランブル」2025年8月12日放送分より)