不思議な旅をしてきた肖像画があります。
出撃前の特攻隊員を描いた油絵です。モデルは、勝又勝雄さんという22歳の青年です。
この肖像画は戦後、おそらく何人かの人の手を介して、鹿児島市の骨董店にひっそりと置かれていました。解体業者から仕入れた店主も、それが売れるとは期待していないほどでした。
あてもない旅が大きく動いたのは2002年のことでした。
切ない恋心で結ばれた「縁」
東京からやって来た客が肖像画を買っていきました。初めての客です。聞けば、肖像画に描かれた青年と縁があるといいます。あまりの偶然に、店主は鳥肌が立ったそうです。
その「縁」とは、切ない恋心で結ばれたものでした。
買われた肖像画はある女性のもとに届きました。
彼女は若い頃、勝又勝雄さんに想いを寄せていました。戦後に別の男性と結ばれましたが、夫のことを気遣いつつ、特攻で死に別れた勝又さんのことを忘れてはいませんでした。
「残りの三十年はおばちゃんにあげるよ」
女性が亡くなった後、肖像画はホタル館富屋食堂(現在は資料館)に寄贈されました。
最後にたどり着いたこの場所にも「縁」があります。
勝又勝雄さんは訓練生時代から、この食堂の顔馴染みでした。
食堂の女将――鳥濱トメさんを母のように慕っていましたが、しばらく顔を見せない時期が続きました。久々に現れたとき、彼はこう告げます。
涙を見せるトメさんに、彼は明るく振る舞いました。
そして最後の別れ際に、勝又さんは彼女に言いました。
この言葉は戦後も語り継がれ、特攻隊を題材にした小説や映画でよく使われています。
不思議な肖像画に描かれた勝又さんは、どんな人物だったのでしょうか。
取材で見えて来たのは、戦争に翻弄されながらも懸命に生きた、心優しき青年の人生でした。
目を向け続けた『海の向こう』
勝又勝雄さんは千葉県出身。地元には桜の名所があります。
父は獣医でした。教育熱心な家庭で、近所で「優秀な子」と評判だったそうです。父の仕事も手伝いながら、得意な英語で身を立てようとしていました。
最初に選んだ進学先は、青山学院の専門部文学部英語師範科でした。青学は当時から、英語教育に定評がありました。
日本とアメリカとの関係は悪化の一途をたどります。英語は敵性語とも呼ばれました。17歳の少年にも、就職先が激減することが見えて来ました。
そこで彼は受験をし直して、早稲田大学の専門部法律科に進みました。
そんな夢も、打ち砕かれます。
戦争が始まり、勝又さんたちの卒業年は繰り上げられ、徴兵されました。日本は「学徒動員」の道を進みます。前途多望な学生たちが戦場に駆り出されました。
取材をして驚いたことがあります。
彼は早稲田の卒業式を終え、3カ月後には軍に入ることが決まっていたのですが、その間、背広を着て会社勤めをしていました。勤め先は、貿易会社でした。海の向こうに目を向けて仕事をする夢は捨てていなかったのです。
1945年5月4日 知覧から出撃
勝又さんは陸軍に入りました。彼は試験に合格して、パイロットの道を歩みます。
特別操縦見習士官といいます。訓練を終えると少尉になれます。同期には、当時のエリート学生がたくさんいました。パイロット不足に陥っていた軍が求めていた人材です。
彼は故郷にいる甥たちに手紙でこう伝えています。
ペンを操縦桿に持ち代え、大空を駆けるのにやり甲斐を感じたのでしょう。
そうして歩んだ道の先で、ついに最悪の事態が訪れます。
日本が特攻作戦を始めたのです。
命じられた者は爆弾を積んで、敵艦に体当たり突入します。生きて帰ることはありません。若者が次々と特攻隊に編成されました。
勝又さんが所属した第78振武隊が編成されたのは、1945年3月。22歳の誕生日の2日後です。部隊の別名は奇しくも「桜花隊」でした。
勝又さんをモデルに絵が描かれたのは、特攻隊員として知覧に戻ってきた頃のこととみられます。
鳥濱トメさんに別れを告げた後も、彼の部隊は出撃していませんでした。沖縄周辺の天候が悪く、待機を命じられていたのです。
当時の記録を発見して分かったのですが、待機は6日間に及びました。死出の旅を待ちながら、松林で鬱蒼とした兵舎で過ごしたとみられます。
尾翼に「勝又」と書かれた愛機は、九七式戦闘機。すでに時代遅れとなっていて、故障も多い機体です。最新機を回す余裕は軍にはありませんでした。
知覧を飛び立ったのは1945年5月4日。
鳥濱トメさんは89歳で亡くなるまで「残りの人生をあげる」と言い残した勝又さんに感謝をしていたそうです。手を振って去っていった後ろ姿を忘れることはありませんでした。
その別れから80年近く。額縁に収まって、勝又さんは帰ってきました。
トメさんの遺影を飾る仏壇の脇にいま、勝又さんの肖像画は置かれています。
