社会

2025年8月23日 18:05

帰ってきた特攻隊員 戦争に翻弄された知られざる人生

2025年8月23日 18:05

帰ってきた特攻隊員 戦争に翻弄された知られざる人生
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 不思議な旅をしてきた肖像画があります。

 出撃前の特攻隊員を描いた油絵です。モデルは、勝又勝雄さんという22歳の青年です。
 この肖像画は戦後、おそらく何人かの人の手を介して、鹿児島市の骨董店にひっそりと置かれていました。解体業者から仕入れた店主も、それが売れるとは期待していないほどでした。

 あてもない旅が大きく動いたのは2002年のことでした。

【動画】「ずっと確かめたかった」特攻隊員の肖像画に秘められた悲恋

切ない恋心で結ばれた「縁」

 東京からやって来た客が肖像画を買っていきました。初めての客です。聞けば、肖像画に描かれた青年と縁があるといいます。あまりの偶然に、店主は鳥肌が立ったそうです。

 その「縁」とは、切ない恋心で結ばれたものでした。
 買われた肖像画はある女性のもとに届きました。
 彼女は若い頃、勝又勝雄さんに想いを寄せていました。戦後に別の男性と結ばれましたが、夫のことを気遣いつつ、特攻で死に別れた勝又さんのことを忘れてはいませんでした。

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「残りの三十年はおばちゃんにあげるよ」

 女性が亡くなった後、肖像画はホタル館富屋食堂(現在は資料館)に寄贈されました。

 最後にたどり着いたこの場所にも「縁」があります。
 勝又勝雄さんは訓練生時代から、この食堂の顔馴染みでした。

 食堂の女将――鳥濱トメさんを母のように慕っていましたが、しばらく顔を見せない時期が続きました。久々に現れたとき、彼はこう告げます。

「おばちゃん、今度は短いよ。すぐお別れだ。何しろ特攻だからね」

 涙を見せるトメさんに、彼は明るく振る舞いました。
 そして最後の別れ際に、勝又さんは彼女に言いました。

「人生五十年て言うけれど、俺なんかその半分にもならない二十年であの世に行っちゃうんだから。だから残りの三十年はおばちゃんにあげるよ。その分長生きしてくれよ」

 この言葉は戦後も語り継がれ、特攻隊を題材にした小説や映画でよく使われています。

勝又勝雄さん 戦時中の写真
勝又勝雄さん 戦時中の写真(1/3)

 不思議な肖像画に描かれた勝又さんは、どんな人物だったのでしょうか。
 取材で見えて来たのは、戦争に翻弄されながらも懸命に生きた、心優しき青年の人生でした。

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目を向け続けた『海の向こう』

 勝又勝雄さんは千葉県出身。地元には桜の名所があります。

 父は獣医でした。教育熱心な家庭で、近所で「優秀な子」と評判だったそうです。父の仕事も手伝いながら、得意な英語で身を立てようとしていました。
 最初に選んだ進学先は、青山学院の専門部文学部英語師範科でした。青学は当時から、英語教育に定評がありました。

 日本とアメリカとの関係は悪化の一途をたどります。英語は敵性語とも呼ばれました。17歳の少年にも、就職先が激減することが見えて来ました。

 そこで彼は受験をし直して、早稲田大学の専門部法律科に進みました。

「弁護士になりたい」

 そんな夢も、打ち砕かれます。
 戦争が始まり、勝又さんたちの卒業年は繰り上げられ、徴兵されました。日本は「学徒動員」の道を進みます。前途多望な学生たちが戦場に駆り出されました。

勝又勝雄さん 戦時中の写真
勝又勝雄さん 戦時中の写真(2/3)

 取材をして驚いたことがあります。
 彼は早稲田の卒業式を終え、3カ月後には軍に入ることが決まっていたのですが、その間、背広を着て会社勤めをしていました。勤め先は、貿易会社でした。海の向こうに目を向けて仕事をする夢は捨てていなかったのです。

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1945年5月4日 知覧から出撃

 勝又さんは陸軍に入りました。彼は試験に合格して、パイロットの道を歩みます。
 特別操縦見習士官といいます。訓練を終えると少尉になれます。同期には、当時のエリート学生がたくさんいました。パイロット不足に陥っていた軍が求めていた人材です。

 彼は故郷にいる甥たちに手紙でこう伝えています。

『勝雄おじちゃんは戦斗機乗りに成って本当にうれしかった』

 ペンを操縦桿に持ち代え、大空を駆けるのにやり甲斐を感じたのでしょう。
 そうして歩んだ道の先で、ついに最悪の事態が訪れます。

 日本が特攻作戦を始めたのです。
 命じられた者は爆弾を積んで、敵艦に体当たり突入します。生きて帰ることはありません。若者が次々と特攻隊に編成されました。

 勝又さんが所属した第78振武隊が編成されたのは、1945年3月。22歳の誕生日の2日後です。部隊の別名は奇しくも「桜花隊」でした。

勝又勝雄さん 戦時中の写真
勝又勝雄さん 戦時中の写真(3/3)

 勝又さんをモデルに絵が描かれたのは、特攻隊員として知覧に戻ってきた頃のこととみられます。

 鳥濱トメさんに別れを告げた後も、彼の部隊は出撃していませんでした。沖縄周辺の天候が悪く、待機を命じられていたのです。
 当時の記録を発見して分かったのですが、待機は6日間に及びました。死出の旅を待ちながら、松林で鬱蒼とした兵舎で過ごしたとみられます。

 尾翼に「勝又」と書かれた愛機は、九七式戦闘機。すでに時代遅れとなっていて、故障も多い機体です。最新機を回す余裕は軍にはありませんでした。

 知覧を飛び立ったのは1945年5月4日。
 鳥濱トメさんは89歳で亡くなるまで「残りの人生をあげる」と言い残した勝又さんに感謝をしていたそうです。手を振って去っていった後ろ姿を忘れることはありませんでした。

 その別れから80年近く。額縁に収まって、勝又さんは帰ってきました。
 トメさんの遺影を飾る仏壇の脇にいま、勝又さんの肖像画は置かれています。

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