先月、沖縄の久米島に戦争の犠牲者を悼む慰霊碑が立てられました。そこには沖縄戦が終了した80年前の6月23日、さらには「終戦の日」とされる8月15日の後に殺された人たちの名前も刻まれています。終わったはずの戦争でなぜ犠牲者が出たのか。そして慰霊碑の建立までになぜ80年の時を要したのか。戦争がもたらした究極の悲劇の実相に迫りました。
最後の1人まで…“終戦後”の戦争
旧盆を迎えた沖縄。太鼓の音が響き渡り、亡くなった人への祈りを込めたエイサー祭りが各地で行われました。今年は沖縄戦から80年の節目。終戦後も続いた戦いの中で家族や友人を失った人たちの心は、今も癒えることはありません。
「自分の国の兵隊が久米島の人を殺した。殺されたんだよ、日本人に。今でも憎さがある」
県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦。指揮を執った牛島満司令官が自決し、戦闘が終結したのは6月23日とされています。しかし、この日終わったのはあくまで“組織的な”戦闘。ゲリラ的な戦いは各地で続いていました。
沖縄本島から西へ100キロの場所に位置する久米島もその1つ。当時、約1万4000人が生活していました。そこにアメリカ軍が上陸してきたのは6月26日のことです。
当時6歳だった、上江洲由美子さん(86)。その時のことを鮮明に覚えています。
「ずっと銃剣を持って、うちの小屋の前に来て休憩した。その時に弟が出ていって『兵隊さんだ』と言うから、私も一緒に見て。初めて米軍、外国人というのを見た」
上陸したアメリカ軍は住民には友好的でした。農作業中の人たちと会話をしている様子を収めた写真も残されています。しかし、こうした状況に神経をとがらせたのが島に残った日本軍でした。島の軍事情報を提供したり、アメリカ軍のスパイとなったりしているのではないかと疑ったからです。
日本軍が住民に出した通達には。
「敵が宣傳『ビラ』撒布の場合、妄に之を拾得する者は、敵側『スパイ』と見做し、銃殺す」
この時、島にいた日本軍は約30人。北部にある山の中に身を潜めていました。
「(日本軍は)山の方に立てこもって、米軍から攻撃されるのを恐れて、住民を山から降ろさずに。山から降りると米軍と接触するから『スパイ容疑でやるよ』という脅しをかけて、できるだけ住民を自宅に帰さないようにしていた」
何が彼らをそうさせたのか。大きな要因が、沖縄戦を指揮した牛島司令官が自決する直前に出した最終命令です。
「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」
つまり、生き残った兵士に投降することを許さず、最後の1人になるまでアメリカと戦い続けろと命じていたのです。そして、悲劇が始まりました。
“終戦後”日本軍が住民殺害
玉音放送が流れた、8月15日。いよいよこれで戦争は終わったかに思われました。しかし、指揮系統が崩壊していた沖縄の日本軍。戦いが終わることはありませんでした。その中で、久米島の住民たちは、ある光景を目にします。
「黒い煙と炎が燃え上がるのが、ずっと遠くの方に見えた。あれは何だろうか今どきと思ったのがありますけれども。後で知ったら、殺害された小屋もろとも燃やされた煙と炎だった」
手をかけたのは日本軍でした。住民をスパイとみなすたび連れ出して、家族とともに殺害していました。殺された中には、赤ちゃんや幼い子どもも含まれていました。組織的な戦闘が終結した6月23日以降、犠牲となった住民は合わせて20人に上ります。
島の日本軍が、アメリカ軍に軍刀を渡し、投降したのは9月7日になってからでした。その後、日本人が日本人を殺めたことについては、不都合な事実として多くの人が長い間、固く口を閉ざします。住民の中には、日本軍に密告をしていた人もいて、この話に触れること自体がタブーとされました。
「今でも関係者の人たちにとっては、この話はもうやめてくれと。(話を)させないよ」
しかし、島には先月、犠牲者を悼む慰霊碑が新たに設置されました。中心となって動いたのは、戦後生まれの人たちです。
「密告した人とか、逆に被害者となった方がいて、色々複雑な気持ちがあって(慰霊碑に)反対や賛成、色々その中でありました。事実は事実として後世に残したいという思いで製作に取り掛かりました」
事実は事実として。改めて問われる終戦80年です。