東京・日野市、多摩丘陵の自然の中にある「京王百草園」は、2万6000平方メートルの広さを誇る庭園です。豊かな緑に囲まれた園内では、今は鮮やかに色づいた紅葉が楽しめます。
荒井理咲子アナウンサーは、落ち葉のじゅうたんの上で…。
「ふかふかですよ。見てください。かわいいですね。これだけ本当に黄色いじゅうたん。今しか見られない光景です!」
京王百草園には、四季折々の花や草花が1月から12月まで咲き、50種以上が訪れる人を迎えています。百草園管理センターの清水真二さんが、今の注目ポイントを紹介してくれました。
「当園には四季折々の花・草花がありまして、50種以上ですかね。今の見頃としましてはモミジやイチョウ、その他にはサザンカ」
園内では、今が見頃の「万両」と「千両」も見られます。
「えっ、これ違う実なのですか?」
「そうですね。見分け方としましては、葉っぱの上に実がついているのが千両。下に付いているのが万両」
「よく見てみると、本当に実のつき方が違いますね」
「そうですね」
「きゃしゃな実がかわいいですね。一足早くお正月を感じます。千両も万両も見えるように」
同じような赤い実でも、千両はセンリョウ科、万両はサクラソウ科で全く違う植物です。
「ちょっと縁起が良い感じがしますね」
「本当ですよね」
縁起の良い風景を額縁越しに切り取ります。
額縁を手にした荒井アナウンサーは続いて、庭園で一番高い場所にある見晴台を目指すと、山道のような坂と階段が続きます。
「かなり山道の感じがしますが」
「山の上にありますので、大体、園内は坂と階段が多いです」
途中の池では…。
「ちょっと待ってくださいカモがいます、かわいい。安心できる場所なんでしょうね」
階段を登り切り、標高140メートルの見晴台に着くと、紅葉した木々の間から新宿の高層ビル群や東京スカイツリーが望めます。荒井アナウンサーは、持参した額縁を構えて、最高の絶景を探します。
「ここはもう間違いなく良いスポットだと思うので、お願いします。どうしましょう、やっぱり見渡せるっていうのが伝わるといいと思うので」
「あまり左だと木が映ってしまうので、もう少し…」
「ここだと手前の紅葉も入りそうですね。いいですね。はい」
紅葉と都会の景色が一度に収まる“絶景”を切り取りました。
幻の大寺「真慈悲寺」と松平信康 百草園に眠る千年史とは
京王百草園の歴史をたどると、始まりは平安時代末期。源頼朝が整備したとされる幻の寺「真慈悲寺」が、この百草園と周辺にあったと考えられています。「吾妻鏡」には、頼朝が住職を任命し、お堂や塔、門などの伽藍を整えたと記されています。当時の規模は、浅草・浅草寺に匹敵する大きさだったと伝わっています。
1192年、後白河法皇の四十九日の仏事では、鶴岡八幡宮や箱根神社、慈光寺など有力寺院と並び、真慈悲寺からも三人の僧侶が参加しました。しかし、鎌倉幕府滅亡を境に真慈悲寺の記録は途絶え、長く実在が分からない幻の寺となってしまいます。
転機となったのは1989年。百草園の外トイレの工事中に「蓮華唐草文軒平瓦」という大量の中世瓦が出土し、真慈悲寺が実在したと考えられる有力な証拠になりました。
真慈悲寺の廃寺から約370年後、この地には再び寺が建てられます。領主の小林正利が「松連寺」を建立し、その後いったん廃寺になりますが、小田原城主・大久保忠増の妻である寿昌院慈岳元長尼が、この地に再び松連寺を再建しました。再建の目的は、徳川家康の長男・松平信康を追悼するためだったと伝えられています。
松平信康は、織田信長と家康から一文字ずつ取って名付けられた、将来を有望視された武将でした。ところが、当時信長と敵対していた武田勝頼との内通を疑われ、1579年に切腹した悲劇の人です。寿昌院慈岳元長尼の夫である大久保一族は、信康切腹に関わったとされます。彼女は一族の懺悔のため、この松連寺で信康を弔い続けました。
その松連寺の名残を今に伝えるのが、百草園のシンボルともいえる梅の木「寿昌梅」です。
「こちらの木なんですけども、寿昌院という方が植えられた寿昌梅という梅の木になります」
「その当時に植えられたものですか?」
「そうですね。樹齢約300年以上と言われています」
「これだけ太い梅の木を見るのが初めてで驚いています。後ろに伸びている幹がツイストして、ひねられながら成長している部分にも長い歴史を感じますね」
寿昌梅は、2月ごろにきれいな花を咲かせ、毎年行われる梅祭りで訪れる人を楽しませています。
江戸時代になると、ここは梅の名所として知られるようになり、どんな人でも楽しめる場でした。
「元々お寺がルーツということですが、どんな方でも楽しめる場だったんですか?」
「そうですね。ここは江戸時代から梅の名所として知られておりまして、江戸時代の『江戸名所図絵』というものにも描かれていました」
江戸の名所を描いた地誌「江戸名所図絵」にも百草園は登場し、名称は当時の「松連寺」とされています。絵に描かれた長い階段には、現在の庭園入り口から続く階段の面影が残っています。
若山牧水の失恋歌と梅ゼリー 文人に愛された“梅つくし”の庭園
時代を代表する文豪や歌人にも、百草園は愛されました。
明治時代には「不如帰」がベストセラーになった作家・徳冨蘆花が通い、戦前に活躍した歌人・若山牧水もよく訪れていたといいます。
「若山牧水がここをこよなく愛していて、足しげく通っていたということで、恋人とも来たらしいんですけども、失恋した際に失恋の歌もここで詠んだと言われております」
大学時代、牧水が大恋愛した相手・小枝子は、二人の子どもがいた人妻でした。別れて傷心の牧水は百草園を訪れ、小枝子との思い出を歌にし、歌集「独り歌へる」をまとめたとされています。
園内には、牧水とのかかわりを記念した歌碑も建てられています。
庭園を散策した後、荒井アナウンサーが最後に向かったのは、昔懐かしい茅葺き屋根の「松連庵」です。ここでは、百草園の梅で作ったゼリーを、縁側に座っていただきます。
「いただきます」
「どうでしょうか?」
「程よく甘酸っぱくて食感もプルプルで、古くからの梅の名所で食べられる百草園の梅ゼリーの梅つくしで幸せな気持ちになりました」
と、歴史ある庭で味わう“梅つくし”に舌鼓を打ちます。
百草園に隣接する百草八幡には、幻の真慈悲寺の文字が刻まれた仏像があり、さらに源頼朝の祖先の武勇伝にも触れられるとされています。紅葉や梅、実り豊かな植物を楽しみながら、平安の寺院、戦国の悲劇の武将、明治の文人たちの足跡までたどれるのが、京王百草園の大きな魅力になっています。
























