社会

ABEMA TIMES

2025年12月7日 14:30

徳川慶喜の末裔はなぜ「家じまい」を決めたのか 5000〜6000点の膨大な資料 5代目当主・山岸美喜さんが語る「家の歴史を日本の歴史にする作業」とは

徳川慶喜の末裔はなぜ「家じまい」を決めたのか 5000〜6000点の膨大な資料 5代目当主・山岸美喜さんが語る「家の歴史を日本の歴史にする作業」とは
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 江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の家系、徳川慶喜家5代当主の山岸美喜さんが、叔父である4代当主の遺言に従い、「絶家」(家系の歴史を閉じること)を決断した。山岸さんがXで「心引き締めて、徳川慶喜家の絶家・墓じまいを進めたいと思います」と投稿すると、ネットでは「絶家?なぜ?」「なんとかお家の存続は叶いませんか」という声も寄せられた。

【映像】徳川家・皇族由来の品々

 「ABEMA Prime」に出演した山岸さんは、絶家を決断するに至った経緯を説明。徳川家や親族であった皇族の品や史料が膨大にあり、その管理をする苦労、また周囲を説得するまでの道のり、家の歴史や文化財を次世代に託す「家の歴史を日本の歴史にする作業」について、思いを語った。

■先代の叔父から祭祀継承者に

徳川慶喜

 山岸さんは、徳川慶喜家4代当主であった叔父の遺言により、5代当主に指名された。親族に男子がいるにもかかわらず、叔父は「全てを私に」という遺言を残したという。自身が指名された理由については、「叔父の介護を長くしていて、そこで信頼を得られたのかもしれない。『この人だったら任せられる、徳川家の最後をちゃんとしてもらえる』という気持ちで遺言を書いたのだと思う」と語った。

 家を閉じる「絶家」の決定そのものは叔父がしていたが、既に病に伏していた叔父が何もできない状況だった。山岸さんに対しては、実兄から「自分が継ぐ」と言われることもあったが、それは叔父の意志に反するとして、譲ることはしなかった。また山岸さんが嫁いだことで“徳川姓”でなくなっていたこと、女性であることから「(家を)閉じやすい」という判断もあったようだ。

 叔父の遺言を守り「家を閉じる」ことを決意したが、その道のりは困難を極めた。最も苦労したのは親族の合意を得ることで、この作業に8年もの歳月を要した。徳川慶喜家の継承者が女性であることは「前代未聞のこと」であり、親族からの反発や、中には「父から裁判を起こされそうになった」という軋轢もあったという。「他の人にしたら(家を)続けてしまいそうな勢いだったので、叔父の遺言を守りたい一心だった」という強い意志を持っていたが、周囲からは「徳川になりたいのではないか」と誤解を受けたり、妬みや嫉みいった感情的な反発もあった。ようやく絶家することを公にできた今、「やっとスタートラインに立った」と述べた。

■膨大な資料「ポジティブな意味で公に返す」

徳川家・皇族由来の品々

 絶家を決断し、推進する背景にあるのは、叔父の遺言と徳川家の歴史を守るという明確な目的だ。山岸さんはこれを「家の歴史を日本の歴史にする作業」と呼んでいる。最も重要視しているのは、史料を「パブリックにする」こと。「博物館に寄贈してこれから研究を進めていただき、とてもポジティブな意味できちんと公に返す」ことだと補足した。

 今、山岸さんは徳川慶喜の愛用したカメラや文書など5000〜6000点を管理している。膨大な数の、徳川家や親族であった皇族の品や史料を、個人で管理していくには限界がある。また東京にある広大な敷地の徳川慶喜の墓は、一体が塀に囲まれ、門もついている。塀を修理するだけでも「3000万円はかかってもおかしくない」ほどで、墓を掃除するだけで1日2万歩も歩いたというエピソードまであるほどだ。

 博物館などではなく、家で史料を持っていることにも「そこに物語がある」と重要性を感じている。資料だけではただのモノになってしまうが、家の人しか知らない写真一枚の裏にある情報、つまり「どこでどんな風景で、どんな時に撮っていたという話」などを伝えるために、寄贈の際には「必ず全ての史料に立ち会って、一緒に見てお渡しをする」ことを心掛けている。

 今回の決断に対して、近畿大学情報学研究所所長・夏野剛氏は「すごくいいことだと思っている」と称賛。個人ではもう整理しきれない膨大な史料は「どんどん公共が管理していく方がいいと思う」と、絶家による文化財の公開を支持した。自民党・東京第8選挙区支部長の門ひろこ氏も、絶家や墓じまいという言葉そのものに「ネガティブな感じが出てしまう」と前置きしつつも、「大切なそのご先祖様の文化財を、きちんと日本のために使ってもらおうという、すごく前向きな働きかけだ」と、そのポジティブな意義を評価していた。 (『ABEMA Prime』より)

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