東日本大震災からまもなく15年。
地震、津波、原発事故という三重の災害に見舞われた福島では、いまだに地元に帰ることのできない人がいる一方、帰ることができても、以前とは程遠い暮らしを強いられる人もいます。
“人が住めない故郷”の現実
いまも避難を強いられている今野義人さん(81)。
原発事故で放出された大量の放射性物質が、ふるさとの浪江町・赤宇木地区に降り注ぎました。そこは、いま今も帰還困難区域に指定され、除染がされないまま、人が住めない地区です。
先月末、久しぶりに浪江町に帰りました。
「もう荒れ放題に荒れちゃった。自分が手をかけていないから」
4代にわたり、この地で農業を営んできた今野さん。住んでいた母屋は、江戸から明治に変わるころ、建てられたものです。
自宅は、変わり果てた姿に。
「足下からひどいことになっている。(Q.これは地震による被害)地震ではないの。みんな動物がやっちゃったの。食べ物を探しに動物が入った。悔しいけど、どうしようもない」
悲願を阻む壁
それでも、帰りたいと願いますが、そこに立ちはだかる大きな壁があります。
「早く除染して下さいって、頼んでいたんだけども」
いまだ進まない除染。赤宇木地区の住民など約650人は、国と東京電力を相手取り、除染による原状回復などを求め、15年経ったいまも裁判を続けています。
「『自分の家に帰ってきたな』という気持ちになる。どうしても愛着が残っている。だから、いま一度、何とかここで生活を始めたいなと」
念願の帰還も…不安と孤独
同じ帰還困難区域でも、除染され、帰れるようになった場所があります。
福島第一原発が立地する双葉町。
中心部のエリアは、先に除染され、4年前に住民の帰還が始まりました。その一角に、真っ先に手を挙げ、戻って来た住民が暮らしています。
一人暮らしの細沢靖さん(81)。双葉町で生まれ、20代から金属加工会社を営んできました。
この地ならではの暮らしに、不安を抱える部分もあります。
「糖尿病の薬は4種類」「(震災前は)厚生病院があった。総合病院だから何でもあった。いまは、なくなっちゃった」
思い描いていた“ふるさと”の暮らしとは、かけ離れた生活が続いています。
「(以前は)全部あった。魚屋さんも、スーパーも、総菜屋さんもあった。いろいろあったけど、(住民が)みんないなくなったから、ダメなんだね」
「同級生も誰も戻ってこない」
店がなくなるということは、そこに暮らすはずの人も、戻ってこないということです。
「人に会わないな。ほとんど会ってないよ」
震災前、約7000人の住民がいた双葉町。工事関係者の姿は多く見かけますが、現時点で帰ってきた住民は、93人にとどまります。
「同級生だって誰も戻ってこない。会ったことない、ここに来てから」
調査では、『双葉町に戻らない』と答えた住民が半数を超えています。すでに避難先で自宅を購入したことや、自宅を解体してしまったというのが、主な理由です。
帰りたかったふるさと。ただ、会いたかった人は戻ってきません。
「やっぱり地元だという、うれしさで帰ってきた。双葉に行けば、いろんな友だちも帰ってくるだろうと思っていた。帰ってきたら誰も来ない。(暮らすのは)難しい。車、運転できなくなるでしょ、体だって弱ってくる。(地元に帰りたいと)みんな思っているよ。避難している人も思っているけど、ままならないんだ」
学び舎を襲った津波の脅威
津波や原発事故は、それまで当たり前のように響いていた子どもたちの声も、地域から奪ってしまいました。かつての記憶を残しながら、津波の脅威を伝える震災遺構があります。
目の前に広がるのは、真っ暗な海。15年前、この海から高さ15メートルを超える津波が押し寄せ、街をのみ込みました。いまもこの一帯は災害危険区域に指定され、いまも人が住むことはできません。その海から300メートルほど離れた場所に、請戸小学校があります。ここにも津波が押し寄せました。校舎が津波にのまれたのは、地震から50分後の午後3時37分。時計も、その時間で止まっています。請戸小学校にいた子どもたちと教師ら95人は、地震が起きた数分後に、近くの山へと逃げました。津波が襲ってくる前に、無事、全員が避難することができたのです。
『久々に請戸小学校に立ち入る機会があった。そこには、あの時と同じ姿で、私を出迎えてくれる教室があった。震災前の私たちの記憶と、震災後の記憶、両方を深く刻み、そしてそれらをつなぎとめてくれる唯一の存在なのだと強く感じた。どうかこれからも、浪江を、請戸を、そして私たちを見守っていてほしい。そう願わずにはいられない』
(Q.請戸小学校に入って見て、心からどんなことを感じましたか)
「感じたのは、本当に恐ろしさです。実際に、自分がそこに立って、津波の高さを見上げて、壊されてしまった大きな建物を見て、その脅威を肌で感じました。私は、震災当時、中学1年生でしたので、津波の恐ろしさというのは、映像でしか知りませんでした。きょう、生々しく肌で実感した恐ろしさと、映像で見て感じた恐ろしさというのは、全く別のものだなというのも思いました。震災から15年が経って、リアルタイムでは、この当時を知らない子どもも増えてきているなかで、こういった場所が残されている。その意味の大きさを強く感じました」

















