東日本大震災から15年。宮城県南三陸町には、最大23メートルを超える津波が押し寄せました。行方不明者を含め、犠牲者は831人。町民の半分以上が住む家を失いました。
“震災の象徴”とも呼ばれている旧防災対策庁舎。津波の猛威を後世に伝えるため、15年前の姿のまま震災遺構として残されています。
津波被害の“象徴”15年の変化
「こちらの旧防災対策庁舎では、15年の年月が確実に流れています。3階建ての建物。発災当時は、町の防災対策本部でした。2階には、防災無線の通信室がありました。ここで職員の遠藤未希さん(当時24)は、津波が来る直前まで、住民に避難を呼びかけ続け、犠牲になりました。
そうした悲劇を繰り返すまいと、町では、この一帯に大量の土砂、盛り土をして、大規模なかさ上げ工事を行いました。その高さがどれくらいのものなのか、実際にのぼってみます。
実は、この庁舎を遺構として、残すかは議論がありました。『この建物を見ると当時を思い出し、つらい』『あまりにも悲しすぎる』と、反対する声もありました。しかし、町は、遺構として残すことを決めました。何より、この建物こそが、歴史の証人であること、そして、これを残すこと自体が、将来を担う子どもたちの命を守ることにつながると信じたからです。
旧防災庁舎がある場所は15年前の土地。その上には、防災庁舎を見守るようにいまの南三陸がある。観光名所ともなっている『さんさん商店街』、飲食店やお土産屋など28軒が軒を連ねています。町の人たちの憩いの場にもなっているんです」
探し続ける人たちの15年
東日本大震災による行方不明者は、いまだ2519人に上ります。いまも変わらぬ思いで、大切な人を探し続ける人たちがいます。
今月8日、にぎわう祭り会場の一角に、震災の行方不明者を探す相談所が開かれていました。
訪れた1人の女性。父とおばが、津波で行方不明のままだといいます。
「どうしても心が落ち着かなくて。手がかりになるものがあればいいかなと」
犠牲者を“帰るべき場所”へ
『宮城県警身元不明・行方不明者捜査班』。震災の犠牲になった身元不明遺体の捜査をし、帰るべき場所を探し続けています。
「身元の特定が難しくなっているのが現状。そういった現状のなかで、必ず身元の特定ができると実感することができたような事案だった」
彼らがそう感じたケースが、去年、ありました。
津波で行方不明になっていた山根捺星(なつせ)さん(当時6)が、14年半ぶりに、家族のもとに帰ったのです。
下あごの骨が見つかったことから、動き出した捜査。捜査班は、年齢やDNAの鑑定などを行い、身元を突き止めました。
あれから5カ月。家族は、いま、どう受け止めているのでしょう。
「帰ってきたので安心。うれしい。一言で言えば、うれしい」
捺星さんの母 千弓さん(49)
「寂しさがちょっとだけだけど、緩んだような。もうずっと一緒にいれるなという安堵の気持ちが出ている」
海に潜り妻を探す15年
15年、帰らない家族を自ら捜し続ける人もいます。
氷点下の朝、宮城県女川町の沖合4キロに浮かぶ船。高松康雄さん(69)が向かうのは、水深35メートルの海底です。
視界2メートルほどの海中で、高松さんが探しているのは、行方が分からないままの妻の手がかりです。
港のすぐそばで、銀行に勤めていた妻の祐子さん(当時47)。
津波は、彼女が逃げた建物の屋上まで達したといいます。
いつも通り、妻を勤務先まで送った朝。それが最後になるとは思いませんでした。
震災の翌月、その勤務先で見つかったのは、いつも2人をつないでいた携帯電話です。
「これも、よく見つかったなと思って、あの状況で。見つかったのも奇跡的だなと思うし、一通だけ、私に届いたやつがあって」
『大丈夫?帰りたい』祐子さんから届いた最後のメール。時刻は15時21分、津波が女川の港を越え始めたころです。
その4分後、『津波、凄い』。彼女は、もう一通のメールを送ろうとしていましたが、夫には届きませんでした。
一緒に暮らした家に、妻を連れて帰りたいー。高松さんは、震災から3年が経った57歳のとき、潜水士の資格を取得し、自ら海の中を探し始めました。
「(Q.がれきの中を捜索するときに、いてほしいと思うのか、変わり果てた姿を見るのが怖い気持ちがあるのか)自分の妻を、自分で見つけてしまったとしたら、現実を突きつけられることになるので、ちょっと怖い気もするし、やっぱり連れて帰りたいという気持ちも大きいし、ちょっと複雑というか。(Q.奥様は47歳のままで、康雄さんは、いま69歳。だんだん差が開いていく)俺が、そのうち向こうに行ったら、何て言われるかなとか。『年、とったね』とか言われるんじゃないかとか。『私のために危ないことはやめて』と言ってるんじゃないか」

















