国宝の本堂をもつ鑁阿寺(ばんなじ)。その始まりには普通のお寺とは少し違う物語があります。かつての武士の館が、なぜ祈りの寺になったのか。そこには悲しい過去がありました。
足利の氏寺 寺にして日本の名城
東京駅から約80キロ。栃木県足利市にある真言宗大日派の本山「鑁阿寺」は、足利将軍家の氏寺として知られています。周囲を、堀や土塁が取り囲む城のような造りをしています。その背景をたどると、鎌倉幕府や室町幕府につながる数々の歴史が見えてきます。堀や土塁に囲まれ、一般的な寺とは異なる造りになっているのはなぜなのでしょうか。その理由を鑁阿寺の山越忍隆住職に聞きました。
「お寺なのに、どうしてお堀に囲まれているのか、すごく不思議だなと思いました」
「中世の武家屋敷の跡なんですよ。平城といって、武家屋敷の典型的な跡でございます。敵に攻められるのを防ぐためお堀があります」
「武家屋敷がお寺に変わったってことですか?」
「変わったわけですね」
「すごいですね」
鑁阿寺が創建されたのは鎌倉時代の1197年です。後に室町幕府の将軍家へとつながる足利家2代目の足利義兼が、武家屋敷を寺に変えたことが始まりでした。鑁阿寺には、鎌倉時代から残るものが他にもあるといいます。
「(門の柱の)中に何かありますよね」
「中に金剛力士像という阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)をまつっています。この仏像は仏師運慶(うんけい)さんが作ったといわれています」
「あの運慶さんが? じゃあかなり貴重な作品なんですね」
風になびく衣装のしわや折り返しなど、鎌倉時代の仏像に見られるダイナミックで写実的な力強さが、今もよく残っています。
足利氏邸宅を寺院に
当時の守りの設備が原形をとどめていることから、鑁阿寺は「日本100名城」に選ばれています。さらに、境内には国宝に指定されている建物もあります。
「こちらが本堂になります」
「立派ですね。これもすごく古い建物ですよね?」
「これは、今から10年ほど前に国宝に指定された本堂になります」
「これも国宝なんですか!」
「足利義兼公が自分の邸宅がここにありましたけど、出家してお坊さんになります。そして、高野山から帰ってきて小型の高野山を理想に作ったのがこの鑁阿寺」
「お寺の名前が鑁阿寺?」
「義兼が高野山に入って修行します。お寺からいただいた法名が『鑁阿(ばんな)』。そのことで義兼公が建てたお寺ということで鑁阿寺となりました」
国宝の本堂には、足利氏の守り本尊として大日如来坐像がまつられています。
義兼出家の裏に悲しい伝承
鑁阿寺を創建した足利義兼は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と深い関係がありました。義兼の母は熱田神宮の大宮司の娘で、その姉の子が頼朝です。つまり、義兼と頼朝はいとこ同士でした。そのつながりもあり、義兼はいち早く頼朝の挙兵に従い、平家追討や奥州合戦などで活躍します。
さらに、義兼の妻は北条時政の娘で、頼朝の妻・政子の妹にあたる時子です。義兼と頼朝は義理の兄弟でもあり、義兼はまさに将軍・頼朝に仕える御家人中の御家人でした。
歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」には、頼朝が義兼を厚く信頼していたことを示す逸話が残されています。鶴岡八幡宮の行事「放生会」に頼朝が出席しなかった際、義兼を参拝の代理として向かわせたという内容です。公的な儀式の代理を任せるほど、義兼は絶大な信頼を得ていました。
そんな義兼は頼朝のもとを離れ、出家を決意します。その背景には、夫婦を巡る悲しい話がありました。
「こちらはどういう場所なんですか?」
「こちらは(義兼の妻)時子さんをまつっている場所になります」
伝承によると、義兼が戦から帰った時、妻の時子のおなかは大きくなっていました。
「奥様の北条時子さんが不貞を犯したと責められまして。義兼が戦から帰ってくる前に不貞を犯した、妊娠したんだと疑われまして」
しかし、それは義兼の誤解でした。後に妊娠ではなかったことが分かったのです。
「なんでおなかが大きくなったんですか?」
「本堂と不動堂の間に古井戸がありますけど、あちらの水を飲んでおなかの中にヒルが入ったと。ヒルが入って、だんだんおなかが膨張して、大きくなったんだけども、不貞を犯したと間違えた理由で責められて自害をしてしまった。おなかを割ってみたら、ヒルがいっぱい出てきたと」
「義兼は無実だった時子さんを疑ってしまったわけですね。そこで悲劇が起きてしまった」
「(時子さんを)供養するためにこの蛭子堂ができたというわけですね。その前の年には自分のお子さんを2人亡くしていますから、子どもと妻を弔うために出家しようと高野山に入ったと聞いています」
この悲劇などをきっかけに出家した義兼は、権力争いから離れました。その結果、足利氏は鎌倉幕府による御家人の粛清を免れ、力を維持できたといいます。義兼は「亡き妻への懺悔」と「一族の繁栄」のため、妻の死から3年後に生き入定し、生きたまま修業に入ったとされています。
時代を超えて守られた聖地
1338年、足利氏8代目の足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、歴代の足利将軍は鑁阿寺を特別に扱いました。
「室町時代は、ここはどうやって守られていたんですか?」
「室町時代は、足利家の手厚い保護を受けましたし、戦があっても乱暴狼藉をしてはいけませんよという掟の看板が出ました」
「その命令は誰が出したんですか?」
「それは足利尊氏公が出したと思われます」
さらに、3代目将軍の足利義満は、京都や鎌倉の重要な禅寺を格付けする「五山十刹(ござんじっさつ)」という制度を整えました。鑁阿寺に非常に高い格式と特権を与え、幕府直轄の特別な寺院として厚く保護したといいます。
「応仁の乱の後って足利家が力を失っていくじゃないですか。その後はどうなっていったんですか?」
「没落しても足利家は日本全国至る所に所領がありましたし、家臣も多かったということで、守られたと聞いています」
「没落してしまった後も全国中の足利氏が、力を合わせて守ってきたと」
秀吉と家康も保護
鑁阿寺には、室町時代の歴代将軍がまつられています。室町幕府の滅亡後は、領地を周囲の戦国大名に奪われるなどして衰退をたどりましたが、豊臣秀吉によって再び一大聖地へと返り咲きます。
「幕府が終わった後、織田信長が出てきてその後、豊臣秀吉が出てきますね。豊臣秀吉がこの足利家を守ってくれた。60石という石高をつけてくれて朱印状を出してくれた。食料の安全を図ってくれたってことですよね」
元々庶民の出身だった秀吉は、天下を治めるうえで、自身の正統性を広く示す必要があると考えました。そこで足利家に代わって鑁阿寺を手厚く保護し、敬意を払うことで、自らの度量と正統性を誇示したのです。
「中世以降は、足利家の建てたお寺だから、乱暴狼藉をしてはいけませんよと禁止令が出て掲示したということで戦の被害には遭わなかったと聞いています」
秀吉の死後、天下を統一して江戸幕府を開いた徳川家康も、鑁阿寺を手厚く保護したといいます。足利将軍家と同じく、家康の「鑁阿寺を大切にする」という方針は、江戸幕府の歴代将軍にもしっかり受け継がれました。江戸時代中期には、幕府から最高ランクの特権が与えられたといいます。
「『御白書院独礼(おんしろしょいんどくれい)』というものがありまして、将軍家の所へ行くのに普通のお坊さんや大名は一定の距離を置いて会うわけですけども、直接、将軍家にお会いできるという特例がございました。当時の話だと、鑁阿寺の住職と樺崎寺(かばさきでら)の別当僧正と、それから鶴岡八幡宮の大宮寺、この3人は将軍家に直接いろいろな話をしていました」
「かなり高い地位ってことですよね」
「そうですね、それはもう」
「なんでそんなことが可能になったんですか?」
「やっぱり源氏を守りたいという一心で、特別な格式があったんでしょうね」
こうした偉人たちの思いにより、鑁阿寺は創建当時の様子を奇跡的に現在まで残すことができました。
(2026年7月21日放送分より)











