8月9日は、長崎原爆の日であるとともに、ソ連軍が満州に侵攻した日でもある。ソ連軍の満州侵攻は、数多くの中国残留孤児を生んだ。
2026年4月、ある映画賞の贈呈式での、イラン出身の俳優サヘル・ローズさんの発言。「私はイラン・イラク戦争のときに戦争孤児になった。私には生みの親はいないし、本当の名前も本当の誕生日も知らない」「私は特別な人間では一切ない。私のような子どもたちがそのまま大人になって現代社会のなかで生きていて、イランに限らず、あらゆる国で存在している」。
戦争孤児の当事者であるサヘルさんは“親を失った子どもに武器ではなく教育を”との想いから世界各地で学校建設などを支援している。『BS朝日 日曜スクープ』はサヘルさんに中国残留孤児の取材をお願いした。
1)満州開拓の夢と現実…ソ連軍侵攻で迫られた“選択”
日本の関東軍が主導して1932年、今の中国東北部に建国した満洲国。日本政府は国策として満蒙開拓団への募集を始めた。満洲への入植者は年々増加。終戦直前には27万人の農業移民が海を渡っていたとされる。現地に行った人たちが見たものは…。
「開拓というのは“土地を切り開く”ということだが、行ってみると実際にはそこには家も土地も畑もあった。元々ここに住んでいた中国人の畑や家を非常に安い値段で買い上げて、かなり強引に追い出すということが多々あり、“開拓”と言いながら、実際にはそうでない部分も多分にあった」
元々住んでいた中国の農民を後から来た開拓団が追い出す形となったことで恨みを買うことも多かったという。そして、開拓団が満洲で手に入れた豊かな暮らしは、1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破り、満州へ侵攻して崩壊する。
開拓民を守るはずの関東軍はその場にいなかった。数カ月前、南側の地域を守るべき作戦地域として移動していたのだ。開拓団はなすすべもなく南へ逃れるしかなかった。サヘル・ローズさんは取材中「ひどいという言葉が軽すぎるぐらい。自分たちの国民ですよね」と言葉を詰まらせた。
「襲い掛かってきたのは、強力なソ連軍だけではなく、住んでいた場所を追い出されて、実は日頃から日本人のことを恨んでいた現地の人々も」
「昼間は敵に見つかってしまうので、昼間は山の中や背の高いトウモロコシや畑の中に隠れて、夜になって逃げる。家族みんなで開拓団に行っているので、小さな子どもが泣くことがある。そうすると、非常に残酷なことだが、『敵に見つかるから殺せ』と言われる。中には仕方なく手にかけた方、そんなことはできないからと、山の中にそっと置いてきた方。あるいは、日頃から仲良くしていた中国人の家庭に預けてきた方もいた。様々な混乱の中で、結果として現地に置き去りにされてしまった子供たち、 残留孤児、残留婦人という方々が沢山出た」
2)戦後の中国で残留孤児は…養母「普通の人は悪くない」
日本へ逃げ延びることができなかった中国残留孤児は、現在わかっているだけでも2818人。生後10カ月で実の両親と生き別れた池田澄江さん(81)は、子どものいなかった養父母に大切に育てられた中国残留孤児の一人だ。
「小学校に入って1年生の時、学校の先生に連れられて映画を見に行った。映画に出てきた日本軍人が兜を被って馬に乗ってすごく悪いことをした。隣や後ろの同級生みんな『打倒日本』と言っていて、私の頭も叩いてきた。ツバも飛んできて、椅子の下に潜り込んでずっと泣いていた」
「なぜ私は悪い人の子どもなのかと悲しくなり泣いていたら、養母が『普通の日本人は悪くない』と言ってくれた」
日本人の子だとして、いじめにあった池田さん。転機を迎えたのは1972年の日中国交正常化だ。
「日中国交正常化の新聞記事を、天井に貼って毎日見る。寝るときも見る。日中が友好になれば、今度は親探しができる。その嬉しさは本当に言葉では表せないほどだった。新聞を毎日見るだけで涙が出た」
池田さんは肉親捜しの様子が日本で報じられ、「自分の娘では」と名乗り出てくれた人が現れた。1981年、子ども3人を連れて自費で帰国。しかし、血液鑑定により、名乗り出てくれた人との親子関係は否定されてしまう。そこから13年の月日が流れたある日、中国で預けられた妹を探しているという女性と、孤児の調査を行う施設の喫茶室で偶然出会った。そして、女性の話す、妹が預けられた土地や、預けた相手の名前などが自分の記憶と一致していることが次々と判明。その後のDNA鑑定で、その女性との血縁関係が認められた。
「DNA鑑定を受けたところ、血縁関係があるのは 99.999%間違いないと。姉妹であると。結果が出たときは頭の中は真っ白で、でも光が見えた。本当にうれしかった。やっと人生がわかった」
3)帰国後も生活に追われて…今なお苦しむ中国残留孤児「言葉の壁」
1980年代から90年代にかけ、多くの残留孤児が肉親との再会を果たしたが、40年以上たった今でも孤児たちの苦悩は続く。先月、池田澄江さんが厚労大臣に手渡した要望書には「深刻な言葉の壁」の問題が記されていた。
5歳ごろ親と生き別れ、残留孤児となった南島姫勢子(みなみしま・きせこ)さん(86)は今年3月、長年連れ添った夫を亡くし今はアパートに一人暮らし。
およそ43年前、実の母親と再会を果たしたが、実母は戦後、父とは別の男性と再婚して新しい家庭を持っており、ともに暮らすことは叶わなかった。5年後、南島さんは夫や子ども、養母を連れて日本へ帰国。中国では夫婦ともに教師をしていた南島さん。帰国後はビル清掃の仕事、夫はふすま工場で働き、生計をたてていた。
「日本語を覚えられない。練習しなければ忘れてしまうけれど、帰宅すると中国語で話し、日本語は練習できなかった。家事が多く、養母の世話もしながら、早起きして仕事に行かなければならなかったから」
言葉の壁に苦しみ、日々の生活にも追われてきた南島さん。サヘル・ローズさんの「どうして養母を日本に連れてきたのですか」との問いに、南島さんから出てきたのは、育ててくれた養母への感謝の想いだった。
「養母を中国に残してくるなんてできなかった。5歳のときに命を救い、そこから長年私を育て、小学校から師範学校まで長い間、勉強させてくれた。知識と教養を授けてくれた養母に感謝し、とても尊敬もしている」
4)世界で続く戦争…そして戦争孤児 私たちにできることは
ウクライナ、ガザ、イラン…。世界では今も戦闘が続き、子どもたちが犠牲になり続けている。同じ苦しみをこれ以上繰り返さないために、私たちにできることは…。
一般市民が常に犠牲になっていく中、私たち一個人に何ができるか。広島でも、長崎でも、戦争で被害を受けた当事者の方々が、同じことが起きないようにと、懸命に声を出してくれている。私もその一人だ。でも、私たちの声は、なぜか届かない。なぜかというと、例えばいま、日本の中で生活をしていると電気があって当たり前で、そんな日常があることに私たちは自然と慣れていく。でも、戦争が始まったら、もう日常は存在しない。もしここで戦争が始まったら、花火は爆撃の音にしか聞こえてこなくなる。いま、8月に花火を見て「美しい」という感情を抱くことができるのは、どれほど奇跡的なことなのか。
平和は、私たち一人ひとりの意識から生まれてくる。だから、私たち一人ひとりにできることは、「考えること」「忘れないこと」。そして、戦争を「どこか遠くのこと」と思わないこと。戦争が始まったらリセットボタンはなく、日常を過ごすことができなくなる。私は経験者として、難民キャンプや難民居留地の中で教育の現場を守っていきたい。教育で知性を与え、子どもたちの手を、武器を持ったり報復を行うためのものにさせない。生き抜いた子たちにどうやって明るい未来を作り出すかは、残された私たちにできるアクション。訴え続けていきたい。
戦争が終わったときに、日本は国家として満州を放棄した。そこには、開拓に入った方々、普通の市民である日本人が沢山いた。この人たちは、「捨て去られた」というのが正しい表現だ。そして、戦後のある時期から、経済成長、発展、あるいは豊かな生活に国民の目が向いていった。戦後日本という国家、政府も国民も、戦争の時の、国としての“恥”の部分にきちんと向き合わなかった。発展・繁栄する日本に目を向かせていこうという意図があった。戦争がもたらした、日々の生活を不快にするような現実から目をそらすことを選んだ、我々自身の問題もあった。
国際政治あるいは国際経済、様々な戦争についての報道は、得てして大国の指導者同士のパワーのぶつかり合いや外交の交渉の駆け引きに集中しがちだ。でも、戦争が起きた時に、そこで暮らしている人々がどれだけ悲惨な生活になるのか、どれだけ自分たちの築いてきた生活や家族が壊されるのかということを、1回1回、衝突が起きる度に、じっくり考えないといけない。国家間の戦争や内戦の戦禍に個々人が苦しんでいるという問題が今、この瞬間起きているのだという「共感力」が強く問われている。
(「BS朝日 日曜スクープ」 2026年8月9日放送より)
■放送内容は動画でもご覧いただけます。
<出演者プロフィール>
サヘル・ローズ(俳優/タレント。7歳までイランの孤児院で暮らし、8歳で養母と来日。難民・孤児の支援活動を行う。2020年に米人権活動家賞受賞。2025年には児童養護施設で育った8人の若者たちの多様な姿を描いた初監督作品『花束』が公開)
杉田弘毅(ジャーナリスト。21年度「日本記者クラブ賞」。明治大学特任教授。共同通信でワシントン支局長、論説委員長などを歴任。著書に「国際報道を問い直す-ウクライナ紛争とメディアの使命」(ちくま書房)など)







