社会

モーニングショー

2026年8月14日 15:09

21歳の特攻隊員“最後の肉声”家族への切実な思い「みんなと一緒に」あす戦後81年

21歳の特攻隊員“最後の肉声”家族への切実な思い「みんなと一緒に」あす戦後81年
広告
4

 あす8月15日は「終戦の日」です。戦争中に日本軍が魚雷を操縦して敵の軍艦に体当たりする特攻隊・人間魚雷による攻撃を行いました。この攻撃で戦死した特攻隊員が出撃を前に、別れの言葉を録音していました。家族を思い、祖国を思い、21歳という若さで太平洋に散った特攻隊員の声です。

「回天」搭乗員“最後の肉声”

 太平洋戦争末期、21歳の青年が出撃を前に残した肉声です。

「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして長い間、育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんと恩返しをしなければならないんだ」
「昔は懐かしいよ。秋になればお月見だといって、あの崖下に『すすき』を取りにいったね。あそこで転んだのは誰だったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔は懐かしいなあ。こうやって、みんなと愉快にいつまでも暮らしたい」

 「みんなといつまでも暮らしたい」家族への切実な思いが語られています。

 声の主は塚本太郎さん。肉声は、次第に勇ましい言葉へ…。

肉声は、次第に勇ましい言葉へ…
肉声は、次第に勇ましい言葉へ…
「12月8日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生のすべてを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生20年、余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃攘(おんてきげきじょう)せよ。すべてを乗り越えて、ただ勝利へ。いくぞ、やるぞ。みんなさようなら。元気で征きます」

 彼が乗り込んだのは、人間魚雷「回天」。一度出撃すれば生きては帰れない特攻兵器でした。

 慶應大学で水球に打ち込んでいた塚本さん。

兄の塚本太郎さんは、慶應大学で水球に打ち込んでいた
兄の塚本太郎さんは、慶應大学で水球に打ち込んでいた
弟・悠策さん(91)
「すごい選手で、ゴールキーパーやっていましたけどね。水球の国代表だったんですから。兄貴を尊敬していましたね。面白い兄貴でね。便所のドアの上にスリッパを置いといて、僕が開けて頭落っこちてゲラゲラ笑ってたんですね」
広告

回天が「棺おけ」

帝国海軍が開発した1人乗りの人間魚雷
帝国海軍が開発した1人乗りの人間魚雷

 1942年6月、日本はハワイ諸島北西のミッドウェー海戦で敗北し、戦況が悪化。翌年10月、兵力不足を理由に学生たちも戦場へ送られることになりました。

 塚本さんは海軍に入隊。その後、志願したのが「回天」。天を回(めぐ)らし戦局を逆転する。帝国海軍が開発した1人乗りの人間魚雷。先端に大量の爆薬を積み、敵艦めがけて突っ込む特攻作戦です。

 上官から言われた言葉
上官から言われた言葉
元回天特攻隊員 岩井忠正さん(2017年 当時97)
「これが貴様たちの棺おけだ。これは(上官から)言われた。これが貴様たちの棺おけだと」

 回天の元特攻隊員・岩井さん。訓練中に病気が見つかり、出撃することはありませんでした。

全長15メートル、直径はおよそ1メートル「回天」の内部
全長15メートル、直径はおよそ1メートル「回天」の内部

 回天は全長15メートル、直径はおよそ1メートル。内部をのぞいてみると、中央にある操縦室は一人がやっと腰掛けられるほどの狭いスペースです。潜望鏡で敵艦の動きを確認し、魚雷を操縦。脱出装置はなく、出撃が意味するのは“死”です。

出撃が意味するのは“死”
出撃が意味するのは“死”
岩井さん
「ちょっと潜望鏡で見てね、敵がどっちの方向に何ノットで走っているか、すぐに分かるわけないじゃないですか。それで当てずっぽうでやらなきゃならないでしょ。こんなのね、命中したら奇跡だよ」

 瀬戸内海に浮かぶ山口県大津島。塚本さんを含めた400人以上が、この地で回天の訓練に励みました。

当時のまま残されている
当時のまま残されている

 島にあるトンネルを抜けると、前方には無機質な建物があります。これは当時のまま残されている回天訓練基地です。

訓練は、わずか2カ月
訓練は、わずか2カ月
回天記念館 岩崎達也さん
「皆さん(回天の特攻に)志願をされているので、こういったもの(回天)で自分は成果が上げられるんだと、厳しい訓練に取り組んでいたようです」
搭乗員9人の命と引き換えに…
搭乗員9人の命と引き換えに…

 わずか2カ月の訓練を経て1944年11月、回天は初めて大津島から出撃。搭乗員9人の命と引き換えに、ウルシー環礁に停泊していたアメリカ海軍の給油艦1隻を撃沈しました。

 初の実戦投入で日本側は「絶大な戦果」と過大に評価。その後も、多くの若者たちが出撃していきました。

 そして1945年1月、塚本さんは潜水艦に回天と共に乗り込み、大津島を出発。ウルシー環礁に向かい、その後帰還することはありませんでした。

広告

録音機に「声の遺書」

 今年91歳を迎えた弟・悠策さん。戦死した塚本さんの一回り下です。

塚本さんが突然帰省した際に撮影されたもの
塚本さんが突然帰省した際に撮影されたもの
悠策さん
「懐かしいですね。これが最後、兄貴が別れにきて、皆集まれというか」

 出撃2カ月前の1944年11月、塚本さんが突然帰省した際に撮影されたものです。兄に寄り添って満面の笑みで写る当時9歳の悠策さん。

「僕だけこうやって、のんきで周り知らずで笑っていますけどね。他の人から見たら(兄が)別れに来たってのは分かっているわけですからね。今思うと、もっと(兄への)配慮が利かなかった。後でお赤飯が食べられるとか、きょうは何が食べられる。人が集まるからうれしいとかね」

 実はこの時、兄・太郎さんには回天での出撃命令が下されていました。知らなかったのは、弟の悠策さんだけでした。

兄・太郎さんには回天での出撃命令が下されていたが…
兄・太郎さんには回天での出撃命令が下されていたが…
「別れに帰ってきたっていうのは言わないけど。言えないでしょ、機密事項だから。この時ね(平手で)殴られたんですよ、何の意味もないのに。抱き合うところだったんだろうけど、日本式だから殴って伝えたんですよね。よくあの年(21歳)でね、孤独に耐えられたと思いますね」

 帰省中、兄の太郎さんは父が経営する広告会社のスタジオで、当時としては珍しい録音機に向かいました。「声の遺書」を残すためです。

「母親が(何かを)聞いているのは分かっていた」
「母親が(何かを)聞いているのは分かっていた」
「(戦後の)いつだったかなぁ。母親が(何かを)聞いているのは分かっていたんですけどね。母親がね、ほろほろ涙を流しているのを覚えていますよ」
「声の遺書」を記録したレコード
「声の遺書」を記録したレコード

 その母が亡くなり、遺品整理をしている時に出てきたのが、このレコードです。原盤は壊れてしまいましたが、悠策さんが録音し、手元に残していました。

塚本太郎さんの肉声
「父よ、母よ、弟よ、妹よ。さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。みんなさようなら。元気で征きます」
 「死ぬの分かって出ていくっていう」
「死ぬの分かって出ていくっていう」
悠策さん
「『元気で征きます』ってのは『100%(力を)出して(戦地に)いきますよ』ってことで、『いきたくない』とかね、そんなことはみじんも思いませんと。切迫感を抱えながら、家族と国も考えているわけだから、こんな重荷はないですよ」
「(Q.『もっともっと一緒にみんなと楽しく暮らしたいんだ』と聞いた時、どう思ったか?)あれは本音っていうか、全部言葉通りです。だから聞いた時はね、ああ兄らしいなと思ったんですよ。もう真面目です。ユーモアはあったけどね。(録音で)意味付けてるってことは今、一瞬一刻でも大事にしたかった。世界で一番悲惨なのが、特攻隊じゃないですか。死ぬの分かって出ていくっていう」
広告

ほとんどが失敗…回天作戦

 毎年お盆には、必ず兄の墓前で手を合わせる悠策さん。

お盆には、必ず兄の墓前で手を合わせる
お盆には、必ず兄の墓前で手を合わせる
「(Q.太郎さんに、どういったお言葉をかけましたか?)あとは、しっかりやってますっていうことですね」
「(Q.太郎さんは、生きたかったですかね?)それは、生きたかったです。どんな行動を見ても、生きたいっていうのは見えたですね。まあ、最後に帰ってきた時もそうだし、残りたかったんじゃないかな」
回天搭乗員の戦死者は106人…多くが20歳前後の若者
回天搭乗員の戦死者は106人…多くが20歳前後の若者

 祖国を思い、海に散っていった兄・太郎さん。回天作戦は終戦まで続けられましたが、そのほとんどが失敗に終わり、回天によって撃沈したと確認されている敵艦はわずか3隻。回天搭乗員の戦死者は106人に上ります。その多くが20歳前後の若者でした。

 あす8月15日は、終戦から81年を迎えます。

「戦争っていうのはね、家族制度から何から全部破壊しちゃうんですよね、人間関係。それはアメリカにしろ日本にしろ同じだと思いますよ。だから、戦争はしたくないってなりますよね」

(2026年8月14日放送分より)

広告