終戦から81年、先の戦争で両親を亡くし、戦争孤児となった子どもたちがいる。そうした人たちの証言をもとに描いた映画に込められた思いを取材した。
製作に至る監督の葛藤
戦争で家族も日常も奪われた、12歳の少女・琴子。焼け野原となった東京で生き延びるため、性別を隠し、“少年”として生きる道を選ぶ。
「ゆれる」「ディアドクター」などを手がけてきた、西川美和監督(52)。広島市出身の彼女が、長編映画として初めて、戦争と戦後を正面から描いたのが「わたしの知らない子どもたち」だ。
「なぜ今、戦争・戦後を描く映画を作ろうと思った?」
「被爆地出身の作り手だからといって、そういうものを期待されるのが非常に重たいなとか、違和感というか若干の抵抗感みたいなものも若いころは感じていて」
転機は、前作「すばらしき世界」。原案となった小説で、戦後の街を生きた、孤児たちの存在に出会ったことだった。
一方、戦争を知らない世代として、この題材を描くことへの迷いもあった。
タイトルにある「わたし」とは…。
「『わたしの知らない子どもたち』という、そのタイトルにはどういう思いを込められたのでしょうか」
「『わたし』というのが私自身の一人称で、まず自分がこの子たちのことを何も知らずにいたというストレートなタイトル。おそらく見てくれる人たちにとっての『わたし』になっていくのかなと今は思っています」
その「知らなかった子どもたち」をたどる手がかりは、決して多くなかった。
「一番声を大きくしていい子どもたちが一番知られない存在」
「孤児の体験がある人も、子どもの当時には言葉を残せてないんですよね、なかなか。ずいぶん後になって、本当に勇気を持って自分の体験を語ってくれた人がいたから、よく生きてくださったなとも思いましたし、そういう人が体験を残してくれたから、なんとかこういうものも作れて、若い人も感じてくれるきっかけになったのかなと」
当事者の証言を次世代へ
西川監督が映画づくりで話を聞いた1人が、吉田由美子さん(85)だ。3歳まで、両親と生後3カ月の妹と東京・墨田区で暮らしていた。
「これは父と母です。それでこれが、母の母、おばあちゃん。記憶の中に両親の顔も、もちろん妹も覚えていませんし、声も覚えていません。全く本当に無なんです」
当時の写真が5枚だけ残っているという。なかでも宝物だという写真は、両親と撮った物だ。そして、家族による写真は、七五三の時のものが最後となった。
1945年3月10日未明に行われた、アメリカ軍のB29型爆撃機による東京への大規模な無差別攻撃。被害は、死者約10万人。罹災(りさい)者は100万人以上に及んだ。
吉田さんは、空襲直前、疎開の準備のため一晩だけ母方の叔母に預けられていた。
両親と妹の遺骨は、今も見つかっていない。
空襲から逃げる中で、残っている記憶がある。「空の異様な明るさ」と「降り注ぐ火の粉」、そして「におい」だ。
両親が亡くなったことを知ったのは6歳。父方の伯母の家に「お手伝い」として引き取られたころだった。
伯母の家ではあいさつをしても返事はなく、家の手伝いを優先させられ、学校に遅刻することも度々あった。それでも、吉田さんは高校を卒業するまで、その家で過ごした。
現在吉田さんは、小学校などで自らの体験を通して「戦争の愚かさ」「平和の大切さ」を子どもたちに伝えている。
体験を、次の世代へ。吉田さんらの言葉に向き合った西川監督も、その思いを映画という形で、次世代へ託しつなごうとしている。
世界に届ける監督の想い
戦争によって運命を変えられた子どもたちを描いた映画「わたしの知らない子どもたち」。西川監督は、性別を隠し生きた女の子たちの存在に焦点を当てた。
「少年として生きることを選んだという。それもいろんな話を聞いて、その設定にされたんですか」
「同じ数だけの女の子がおそらく焼け出されたのに、彼女たちはどうしたのかなという思いもありまして。路上生活をするなかで身を守るために男の子か女の子か分からないような格好をしていたとか、女の子がいるっていう想定すらしなかったな。では自分がその時、その場所に放り出されたらと自分に置き換えるような気持ちで、女性で描いていってみよう」
そうして生まれた主人公・琴子。家族を失った琴子は、性別を隠したうえで、同じ境遇の孤児たちと出会い、生き抜いていく。
「今、世界各地で戦争が起きていて、戦争孤児が生まれるような状況になっている」
「企画の発案を始めたのは2020年ぐらいだったので、ウクライナが侵攻される前だった。子どものいる場所が爆撃されたりするなんてことは、ずいぶん昔の時代に終わったことだと、なんとなく思っていたら、そういうことが日常的に起きても『またやっちゃった』みたいな感覚にどんどんなっていくのが自分自身も怖いなと思っている」
映画は9月、トロント国際映画祭の「プラットフォーム部門」で、日本映画として初めてオープニング上映される。
「映画監督として、どんなふうに役割を考えておられますか」
「映画がやはりいいなと思うのは、字幕さえつけば、世界中で交換していけるカルチャーなので。自分の知らない国の戦争の話だとか歴史の話を映画によって“交換”して、その国の歴史や人の考え方を知っていくことができると思う。戦争で傷つけられるのは兵士もそうだけれど、子どもが傷ついてしまう。子どもを描く映画によって他の国の人とも対話できるとは思うので、そういった機会にもなってくれるといい」
いまだ変わらない世界現状
今も世界では多くの子どもたちが戦争に巻き込まれる現実に直面している。
ユニセフの報告によると、世界の子どもの約5人に1人にあたる約19%が紛争地域で暮らしていて、その割合は30年前のほぼ2倍に達しているという。
こうした地域における子どもの貧困が深刻で、約2人に1人にあたる50.2%が極度の貧困状態にあるといわれている。
また、孤児の支援をしている国際団体によると、戦争などを背景に、世界では毎日約5700人もの子どもたちが親を失い、孤児になっていると推計されているそうだ。
今回の映画で西川監督が取材した、戦争で孤児となった吉田さんは「過酷なお手伝い生活を強いられたなかでも、鮮魚店のおじさんやコロッケ店のおばさんなど、多くの街の人々の温かい言葉や優しさに助けられて生きてこられた。『人は助け合って生きるもの』であり、多くの人に支えられてまっすぐに生きてこられた現在の生活を、今は本当に幸せだと思っている」と感謝の言葉を語っていた。
大人の責任について
映画では、女性教師は軍国主義の教育を子どもたちにしていたが、終戦の時に両親を亡くした主人公の女の子を見捨ててしまう。
大人の責任について西川さんに伺うと、「子どもたちは軍国主義教育を親たち以上に信じ込んで熱狂した。ある種、すごく怖い存在だと思った。巻き込んでいった大人たちと、それに対して何も言えなかった大人たち。国のトップでなくても戦争の加担者だったと思う。普通の生活をしている私たちがいつの間にか空気にのまれて、そういう立場になるということは現実的だなと感じた」と話した。
(2026年8月17日放送分より)














