2001年9月1日、東京・新宿区歌舞伎町のビルで火災が発生した。
ビル内にいた44人が死亡し、歌舞伎町の繁華街を襲った大惨事となった。火災は午前1時ごろに発生。3階と4階にいた飲食店の客や従業員らが逃げ遅れ、多くの犠牲者を出した。放火の可能性が高いとされるが、いまだ何も分かっていない。
「何かあるぞ」深夜の救急指令と現場への到着
その日、何があったのか。25年が経った2026年8月にインタビューに応じた当時の消防隊員の記憶は今も鮮明だった。
2001年9月1日午前1時前、新宿1部特別救助隊2番員(当時)の川越貴史氏は、新宿消防署の事務室で無線を聴きながら書類仕事をしていた。その時、救急指令が流れた。
「ちょうど2分ぐらい前に『ビルから飛び降り』という救急指令が流れて、その時には『ちょっと嫌な予感がするな』というような認識で無線を聞いていました」(川越氏)
午前1時1分、新宿1部特別救助隊機関員(当時)の平井太氏も無線に身を構えた。今度は同じ住所から「出火」との報告だった。
「やはり同じような場所なので『これは何かあるぞ』という感覚は全員が持っておりました」(平井氏)
新宿消防署特別救助隊6人が飛び出した。途中、指令センターから「逃げ遅れ、多数……」との追い打ちの情報が入る。それでも川越氏は無線を半信半疑で聞いていた。
午前1時5分ごろ、現場に到着。ハンドルを握っていたのは機関員の平井氏。指揮本部の命令で、あえてビルの直近を避け、100メートルほど手前のコマ劇場の前に車を停めた。金曜日の深夜で人通りも多かった。
「『本当にこの先で火災が発生しているのかな』というような感覚でした」(川越氏)
溶鉱炉のような階段と「俺のことも助けてくれ」現場の惨状
だが、この時すでにビルの中では逃げ道がふさがれていた。隊員たちが2階の階段に差し掛かったとき、最初の違和感がくる。階段にはコインロッカーやカラーボックス、ゴミ袋が積み上げられ、階段の体は成していなかった。
「何で階段にこんなものがあるんだろうなと、思いながら活動しているので」(川越氏)
階段の幅はおよそ70センチで、人が通れる隙間は30センチあるかないか。川越氏たちはロッカーにぶつかりながら、隙間を縫って上がった。その置き物が激しく燃えていた。階段は溶鉱炉のような状態で防火衣を通しても熱を感じ、隊員たちに水をかけないと熱で倒れてしまうほどだった。2階から3階に上がり切るのに15分かかった。
午前1時25分ごろ3階へ進入。たどり着いたのは3階の麻雀ゲーム店だった。同じく救助にあたっていた新宿1部特別救助隊3番員(当時)の新谷昭洋氏は、通路部分に3、4人倒れていることを確認した。指揮本部から「何人いるんだ?」と無線が入る。奥を見に行った平井氏はそこで足を止めた。
「初めて見る光景だったので『新谷、来い』と。要救助者を助けるというよりも『新谷、俺のことも助けてくれよ』と。そういう気持ちで新谷係長を呼んだ覚えがあります」(平井氏)
助ける側が助けを求める、壮絶な現場だった。新谷氏はその声に従い奥を確認した。厨房部分に10人近くが山積みになっていた。人1人がやっと通れるほどの排煙窓のほうを向いていた。新谷氏は目を疑った。
「こんな現場があるのかと、率直に思いました」(新谷氏)
川越氏は25年経った今もその光景を鮮明に覚えていた。
「厨房の地面、床に這いつくばって息を吸おうとしている様子だとか、排煙用の窓から逃げようとした様子のまま亡くなっているというような感じで。今にも動きそうな状態で、皆さん亡くなっている」(川越氏)
しかし隊員たちは亡くなっているとは思っておらず、一刻も早く助けようとモチベーションを高めた。1人目の被害者を川越氏は呼吸器をはずし、背負って階段を下りた。しかしそれ以降は、声をかけても返事はなかった。
「やっているうちに全く反応がないということで、絶望感というかですね。だんだん気力、体力の面でやられてしまったなと」(川越氏)
限界を迎えた隊員たち…静まり返った4階で鳴り続ける携帯電話
特殊な機材は使えない。階段は狭く、ビルへの進入路は1本だけ。隊員たちの手で運び出すしかなかった。午前4時ごろ、一旦地上へ。3階にいた17人全員を運び出し、川越氏は地上に降りた。これで終わったと思った。しかし隊長の顔を見た瞬間、まだ終わっていなかったことを悟った。
「そこから戻ってきた隊長の顔は、非常に悲壮感が漂っていまして。4階にもいるんだと。4階にも20名以上いるんだという時に、4階まで上がる体力もちょっとなかった。正直ちょっと信じられなかったです。隊長の表情を見て察して、着衣を整え直して上に行った」(川越氏)
午前5時ごろ4階へ。体力も限界に達していた。
「最初の段階では、フロアに皆さん倒れていましたけど、その倒れている中に混じって自分も腰を下ろして一息ついたというのが現状で。そういうことに躊躇もせずに休んでしまったというのは、自分自身覚えています」(川越氏)
4階はキャバクラだった。カラオケの防音のために、窓などはふさがれていた。ソファーの周り、そしてトイレに男女合わせて27人。死因は一酸化炭素中毒だった。ケロイド状のやけどがない人も多かった。新谷氏の目には、今にも起き上がりそうな、きれいな顔に映った。静まり返った店内で鳴り続けていた音を川越氏の耳は今も覚えている。
「所々で携帯電話が鳴っていまして。時が止まったような感じなんですけども、ついさっきまで皆さん生きていたという様子が非常にリアルに覚えています」(川越氏)
午前6時44分、鎮火。82の部隊と職員340人による、5時間半におよぶ救出活動は終わった。そして44人が亡くなった。
なぜ44人は逃げ遅れたのか?明らかになった避難経路の不備
なぜ44人は逃げ遅れたのか。当時、消防庁の総合研究所に勤務し、この火災の再現実験も行った日本防火技術者協会の関澤愛理事長に話を聞いた。
関澤氏は「2つ目の避難経路がありさえすれば、ほとんどの人が助かっていた」と指摘。まず3階は通りに面した事務所に1つ、店舗奥の厨房に2つ、換気窓がある。この窓から飛び降りたスタッフ3人は、負傷はしたものの命は助かった。
さらに「客たちは、窓の位置すら知らなかったのではないか」と言及。扉を開けた瞬間に黒い煙が入ってきたため、消火器で消せる暇もなかった。
「中にいた人は、もう奥の方にしか逃げる選択肢はないし、頭にも浮かばない。煙に向かっていくってことは、あり得ないじゃないですか。奥には何か窓とか逃げる道があるかなという期待を込めて奥に入ったけども、そこに何もなかったという絶望に襲われながら亡くなっていた」(関澤氏)
現場に入った川越氏も、2階から3階に行く階段には階段を隠すようなパネルがぶら下がっており、あえて階段と分からないような状態だったと証言し、「階段の存在自体を知らなかったのでは」と見る。さらに、火災報知設備もベルが鳴らないよう切られており、防火扉も一切動かなかったという。
4階はさらに条件が悪かった。カラオケの防音のため、換気窓は壁でふさがれていた。階段側の更衣室に非常用の出入口はあったが、階下からの炎で近づけない。この火災で、ビルの中からの通報は全部で5件。1本目から5本目の通報まで約12分あったことが確認されている。
関澤氏は「避難経路が確保されていれば、12分間あれば相当の数の人が助かる。まず希望が持てるじゃないですか。我慢してれば逃げられる」と、避難経路が2か所あれば44人は死なずに済んだ火災だったと指摘した。
残された「出火原因」の謎…未解決リストに載らないことへの違和感
そしてもう1つ残された謎は、なぜ火は出たのか。出火場所は3階のエレベーターホール付近とされた。現場検証の結果、放火の可能性があるとされたが、25年経った今も犯人の特定には至っていない。
火災当時、警視庁捜査一課の特殊犯罪対策管理官で、現在は世田谷一家殺人事件など数多くの未解決事件の遺族を支援する、殺人事件被害者遺族の会「宙の会」特別参与の土田猛氏は違和感を感じていた。
土田氏は「警視庁の未解決事件リスト、そこに歌舞伎町44人の放火殺人容疑がリストの中に入っていない。それから警視庁のそういう重要事件の公開捜査リスト、これにも入ってない」と指摘。
44人が死んだ火災は、放火の疑いが高いとされながらも、公開捜査の対象にすらなっていない。土田氏は「本当に警察が放火の疑いということならば、しかも44人という被害者の命を考えれば、やはりこれはもう放火殺人事件としてリストに載せる。それから事件日に合わせた、何らかの警察としてのメッセージを発信する。これは継続していただきたい」と訴えた。
(『ABEMA的ニュースショー』より)