「心中による虐待死」から「保護者の自殺を伴うこどもの虐待死」への変更や、「成人病」から「生活習慣病」への変更など、社会の価値観や認識の変化に伴い、これまでもさまざまな「言葉の言い換え」が行われてきた。
【映像】OL→会社員 自殺点→オウンゴール 時代とともに言い換えられた言葉たち
実態を正確に表すための配慮がある一方で、歴史ある言葉の喪失や過剰な自主規制を懸念する声も少なくない。『ABEMA Prime』では、変わりゆく時代の中で、言葉の言い換えの必要性や社会にもたらす効果について、専門家とともに考えた。
■「心中」の言い換えがもたらす効果…実態の正確な反映

言葉の言い換えが社会の認識をどう変えるのか。こども家庭庁の専門委員会は今年9月、「心中による虐待死」という表記を「保護者の自殺を伴うこどもの虐待死」へと変更した。「心中」という言葉では、子どもが殺されているという児童虐待の実態が伝わらないというのがその理由だ。
三省堂国語辞典の編集委員を務める飯間浩明氏は、この言い換えの提案について、「一家心中というと、みんなが心を合わせて自殺をしたということになってしまうが、そうではない。無理やり子どもたちを引き連れて親が自殺したのではないかと見方が変わった」と述べ、言葉を変えることで事態の本質が見えてくるとの認識を示した。
立命館大学准教授・富永京子氏も、「実態の正確な反映を言い換えによってできる。今まで誤解していたということ」と同調し、言い換えによって事態をより正確に捉えられるようになるとの見方を示した。
一方で、社会言語学者で慶應義塾大学教授の井上逸兵氏は、傷つく人が減ることは良い動きだと前置きしつつも、「心中という言葉には、曽根崎心中(近松門左衛門作の世話物浄瑠璃)などの劇的な歴史がある。その言葉の歴史を全部取り除くというのは、言葉をダメにしてしまう面はあると思う」と、言葉の歴史的側面が消去されることへの懸念を示した。
これまでも時代に応じて、「看護婦」が「看護師」に、「痴呆」が「認知症」になど、差別や偏見の軽減、性別に中立な表現、実態をより正確に示すことなどを目的に、さまざまな呼称が変更されてきた。
井上氏は、こうした変化について、「看護婦から看護師に変えたのは国家資格レベルで決まってものだと思うし、痴呆から認知症へ変えるのも厚生労働省がイメージを変えるという戦略だったと思う。行政や政治的な力がリードする変化もあれば、なんとなく一般から起こってくる変化もある」と説明した。
富永氏は、新しい言葉が生まれることで社会にもたらされる効果に言及し、「例えばDVやヤングケアラーという言葉ができることによって、それは各世帯の個人間の人間関係の問題ではなく、家族という関係がはらみうる社会的な課題なんだということが分かる。個人の問題にとどまっていたものが、社会の問題だと開くような要素がある」と、問題発見における言葉の役割を指摘した。
また、議論の中では「成人病」から「生活習慣病」への変更についても触れられた。飯間氏は「成人病と言うと、大人だからこの病気になるのは仕方ないと思ってしまうが、生活習慣によって病気を避けられるというところがある」と変更の意義を解説した。
しかし、この言い換えには別の側面も存在する。「生活習慣病」という名称になったことで、病気になった人が「自分はそんなに悪い生活をしていたのか」と自己責任のように感じてしまう負のイメージを植え付ける可能性も指摘された。飯間氏はこの点について、「言葉は常に変わるので、また変えようというのもある。世の中と共にどんどん変わっていっていいのではないか」と述べ、一度定着した「生活習慣病」という言葉が今後また新たに変わる可能性があることにも言及した。
■人を傷つけない配慮とエンターテインメント現場での葛藤

配慮による言葉の言い換えは、日常会話やエンターテインメントの現場にも影響を与えている。
ぺこぱ・松陰寺太勇は、自身の妻の呼び方を例に挙げ、「自分の妻のことを妻と言ってよかったのか、嫁と言ってはいけないのか考える。僕と妻の間では成立していることでも、オープンな場で言うと『まだあんな呼び方をしている』と言われることを考えながら喋らなければならない。もどかしさはある」と、発言のたびに周囲の目を気にせざるを得ない現状を吐露した。
さらにお笑いの現場についても、「一昔前だったらよかったことが、『これを笑うとそういう(差別をしている人のような)目で見られちゃうからよくないのかな』という空気も感じる。誰も傷つけないとなると、言葉にキレはなくなる」と吐露した。
また、配偶者の呼び方について、コラムニスト・河崎環氏は、「公の場で言うのと、プライベートな空間で言うのは全然違うものだ。芸人さんが配偶者を嫁と呼んでいても全然悪いと思わないし、私自身もSNSで旦那と呼んだり、自分のことを嫁と呼んだりする。言葉は自分が責任を持って、その空間にどう響くか、文脈も全部込めて発するものだ」と主張した。
飯間氏もこれに同調し、「この言葉でよかったかと考えるのではなく、自分で判断して『自分としては使いたい』『あえてここではこう言おう』と、自分の責任で一つ一つ決めていく方がやりやすいのではないか」と見解を示した。
多様性の時代において、より多くの人に配慮した言葉選びが求められる一方で、それがもたらす弊害についても議論が及んだ。
井上氏は、誰も傷つけない方向へと進む現状について、「傷つく人が減るというのは基本的にいい動きだが、アメリカのお笑いなどと比較すると、言葉を貧弱にしている可能性があるというのは心配だ」と、人を傷つけない表現を重視するあまり、言葉の豊かさが損なわれる可能性に懸念を示した。
学習院大学非常勤講師・塚越健司氏は、エンターテインメントにおける言葉の制約について、「誰も傷つけないお笑いと言いつつ、分かった上で傷つけることを言ったら笑いが起きるように、落差で笑える。新しい段階に行くと、また違う落差が生まれていて、この言語ゲームがずっと続いていく。時代によってルールが変わりながらぐるぐる回っていく」と分析した。
(『ABEMA Prime』より)