「復興なんて描けなかった」店主の絶望を変えたのは
「絶望しかないんだよ。何もないんだ。復興なんて描けないし何も考えられない。こんな自分に取材しても話すことなんて何もない」
電話口で、紙浩之さん(54)はそう言って嗚咽を漏らした。
輪島市に取材に行く直前、彼のSNSでの投稿をみつけて取材を申し込んだ私と、初めて電話で話したときのことだった。投稿は「そろそろ幕引きだ」という出だしで始まり、感謝の言葉で締めくくられていた。電話口でそのことについて聞いた私に「絶望しかない」「復興なんて見えない」と繰り返した。「復興に向けた話を聞きたいなら、ほかを当たってくれ」とも言った。
能登半島地震に関する取材をしていた私は、「千年もの歴史があるこの町が、どんな場所だったのかを知りたい。どんなことでもいいからお話を聞かせてほしい」というメッセージを残していた。
朝市のことなら。
自分の店のことなら。
少しずつやり取りを重ねていき、輪島市で会うことになった。
2月上旬、みぞれ交じりの雨が降りしきる冷たい朝だった。
大きな火災に見舞われた朝市通りを含む周辺エリアは、いたるところに関係者以外の立ち入りを制限する黄色いテープが張られていた。「俺の店を撮影するなら大丈夫だ」と言って、紙さんは私たちを規制線内にある店があった場所まで案内してくれた。
朝市通りを進んでいくと、すすのにおいが鼻を突いた。足元にはがれきやガラス片が散乱したまま、曲がった電柱からは金属の棒が飛び出ていた。一緒に歩いたカメラマンの靴底には、歩いてしばらくすると、くぎが刺さっていた。震災から1カ月以上経ったとは思えなかった。
「ここだけ毛色が違うやろ。こんなに変わるんかなってくらい(景色が)変わった」
紙さんは「これでもだいぶ、捜索の人が来て片付けてくれたほうだ」と続けた。
約360メートルの通りを西へ進みつづけると、紙さんが12年にわたり切り盛りしていた食堂「朝市さかば」の場所についた。焼け焦げた鉄くずとひしゃげたトタン屋根が落ち、どこが入口なのかもわからなかった。
「ここに閉じ込められたんよ」
少しずつ、当時の様子を話し始めた。
あの日、多くの店は正月休みだった。紙さんはお昼を求める観光客のために、昼前からお店を開けていた。家族連れを含む10組の客に昼食を提供して一度閉店し、掃除を終えて店内で一服していたときだった。激しい揺れに襲われた。
座っていた体が宙に浮いた。
揺れが収まり、店から出ようとするが、ドアが開かない。地震による地盤の隆起でドア枠ごと曲がってしまったようだった。店内にある消火器を使ってガラスを割ろうとしたが、強化ガラスでできていたらしく、「内側から思い切り消火器をぶつけても開かなかった」
携帯電話をみると、一瞬だけ電波がつながった。朝市で商売をする友人に電話をかけて「道具をもって助けに来てくれ」と話したが、あいにく市内にいなかった。電話を切ると、電波が通じなくなった。
「このままここで夜を明かして助けを待つか」。この時、火災が起きるとは夢にも思わなかった。
10分ほどすると、見回りに来た年配の男性が通りがかった。作業服を着ていて、知り合いではなかった。紙さんが店内で消火器をぶつける音を聞いて駆けつけてくれたようだった。「後ろに物置がある!そこに道具があるんだ」
男性が物置から取り出したのはスコップ。二人で内側と外側から何とかドアガラスを枠から外し、紙さんは店から出ることができた。きちんと礼を言う間もなく、作業着姿の男性は去っていったという。
スマホを見ると、午後4時40分だった。最大震度7を記録した揺れから30分が経っていた。
その時、初めて地震後の外を見た。見慣れた風景は一変していた。津波警報は聞こえなかったという。
朝市通りから徒歩10分ほど離れた場所にある自宅に一人でいる高齢の父親のことが頭をよぎり、自宅に急いだ。
「倒壊した建物に人が挟まっていて、町内の人が助けとった」
地盤が隆起したことで、そこら中の道に段差ができていた。視界に入る約半数の家屋は、1階部分が崩れ、屋根が落ちていた。知っている家もたくさんあった。「誰かおるか」と声をかけたが、返ってこなかった。
少し歩くと、家族が倒壊した家屋の下敷きになったという人から「なんとかしてくれ」と言われた。向かいの家も倒壊していた。助けようにも道具がないと何もできない。紙さんは自宅にもどり、父親が無事に避難したことを確認すると、懐中電灯やのこぎり、スコップなどを持ち出し、元来た道を戻った。
崩れ落ちた瓦をよけ、スコップでがれきを取り除き、柱などの木材をのこぎりで切った。
「周りでは、動ける人は誰かしらみんな助けとった。あそこに救助が要る人がいる、ほな、おれ行くよ、っていうふうに」。気づくと、服には木くずやがれきの破片がささり、擦り傷ができてところどころ出血していた。
助け出せたと思い出せる人は3人。
「俺ぐらいの歳の人で動ける人は助けとったと思うよ。やっぱ・・・知っとるもん。昔から」
それでも、屋根が完全に覆いかぶさってしまい「見捨てることしかできなかった」人もいたという。
紺色の傘の下で、そう話す紙さんの表情はよく見えなかった。
「1年のうち、休みは10日ほどだったかな」
紙さんが、まちづくりと観光開発を手がける民間企業「まちづくり輪島」に入社したのは2012年。それまで港湾工事など土木や建設業などに携わっていた経験を生かして、生まれ育った輪島を盛り上げたい、と思っていたことがきっかけだ。当時、輪島市は住民・事業者・地権者が主体的に街を一体化して運営する「タウンマネジメント」に取り組んでおり、「朝市さかば」もその一環で作られた。
それまで飲食店経営の経験はなかったが、紙さんは、客が朝市で買った食材を持ち込めば格安で調理する、といった朝市エリアでは初となる手法を取り入れて話題を呼び、北陸新幹線開通の追い風もあり、5年で黒字化にこぎつけた。
「朝市さかば」が完全民営化されることになった2017年、400万円の借金をして店を買い取り、以来、店主として切り盛りしてきた。
「働きもんやったからね。1日10時間くらい働いとったよ。借金返さないといけんけえ。ははははは」
地震、そしてその後に続く大規模な火災は、そんな日常を一瞬で奪った。
「(震災の)次の日来たとき、店のトタン屋根がそのまま落ちとった」
「ここにシンクがあった。屋根が全部落ちとるもんで、トタン屋根が。こうやって探して。包丁が刺さっていたのを覚えている。それだけや。俺の思い出って」
焼け跡から持ち出せたのは、三本の包丁だけだった。
「あまりにもひどすぎて何も考えられんかった。本当に1週間、10日、なんもせんまま過ぎた。逆に笑えるくらい」
インタビュー中、紙さんはそう言っては大声で笑った。
「道が凸凹で何が起こったんじゃと思ったよ。その1カ月前に(映画)『ゴジラ
−1.0(マイナスワン)』を見とったし、ゴジラの襲撃かと思った」。大声で笑い、そして遠くを見つめて急に黙る。その間が、聞き手としては一番つらかった。それでも、聞きたいことがあった。最初の電話口でずっと「絶望しかない」と言っていたのが気にかかっていたからだ。
今後、どうしていかれるんですか。
意外な答えが返ってきた。
「何とかしたいと思うようになってね」
「朝市さかば」でアルバイトをしてくれていた高校生たちのことを思い出すようになったのだという。
「(朝市さかばを始めた)最初は、輪島の魚の宣伝になれば良いと思ってやっていたけど、アルバイトの子どもを雇うようになって、その子らの将来を考えるようになってね」
「10年後、20年後って、たぶん人口が減って仕事もロボットがやってくれて、働くところがなくなるでしょう。そうなると、個人事業主になって自分で商売できるのが良い、となるんじゃないかと思って」
朝市は、これからの少子化の日本で若者がビジネスを始めるのにとてもいいスキルアップの場所だということを、紙さんはアルバイトの子どもたちに教えていたと言う。
「間口一間、ひと月借りると5000円か1万円やねんけど、その経費と仕入れの経費があれば、商売を始めるには手っ取り早い。会社員になって起業するといのは厳しいかもしらんけど、朝市なら屋台一つでできる。仕入れして自分が頑張ったら頑張っただけ自分の給料になる。こんな場所があったら助かると思うよ、おれ」
朝市のような、露店でやってみようっていう場所を子どもたちのチャンスの場として残してやりたい。
「そう思わん?」
たばこを手に、またがはははと笑った。今度は私の目をみていた。
(取材:今村優莉 撮影:井上祐介・石井大資)