離れない、わたしの居場所だから

「遠島商店」4代目の遠島孝子さん=2024年2月9日、石川県輪島市

待ち合わせた「永井豪記念館」の前で、遠島孝子さん(62)は赤いジャケット姿でポツンと立っていた。表情は暗く、焼け跡で落ち合ったことを申し訳なく思った。

「今までここは、すごく賑わっていたんです。仲間もみんな並んでおったし、お客さんもいた。今、店も何もない。誰もいなくて。こんなとこに一人でおるのは嫌や」

メディアのインタビューに一人で応じるのは好きではないという。「人と話すのが苦手で…」とうつむきがちに言った。

「遠島商店」の4代目として、37年間、朝市通りで露店を出し続けてきた。主に海産物を扱い、輪島の海女さんが取った海藻やアワビ、サザエを加工して販売していた。

「鮮魚を売るオレンジ色のテントの方が朝市ではよく目立つんですけど、直射日光が商品にあたるとダメなので、私たちは白(色のテント)なんです」と説明してくれた。

遠島商店で一番の人気商品は「蒸しアワビ」だった。

「輪島で取れたアワビは人気で、ハワイから団体さんが『アワビ買いツアー』に来てくれるんですよ。ほんとやったら、4月くらいに旅行がてらハワイの方がおいでになるんですけど…」と寂しそうに振り返った。

加工した海産物を売る遠島孝子さん=2020年2月、北陸朝日放送

朝市で露店を始めたころは、お客さんと接するのが苦痛だったという。「お客さんとしゃべることもできなかった。大変なところに来たなあ、と(結婚を)半分後悔したくらい」

それまで、朝市に来たことはほとんどなかった。結婚し、先代の義母を手伝い始めたのがきっかけだが、商売をするのも初めてで、どうやって売っていいか分からず「ぼーっとして、お義母さんの売る姿を横のほうでじっと見ていた」

「朝市通り」で露店を出していた場所で話す遠島孝子さん=2024年2月9日

独り立ちするようになり、見よう見まねで覚えた商売をなんとか続けていた。

「『おいしかったよー、また買いに来たよ』と言ってもらえる時が一番嬉しい」。自分の味付けを気に入って来てくれる人が少しずつ増え、自信がついていった。「みんな、よその店でもそう言うんですよ。それでも、私の味を喜んで来てくださる方がいるのでとてもうれしいんです」

地元の人にとっては“台所”でもある朝市ならではの喜びもある。
「子どもさんがちっちゃな時から私のお店に来て、大きな成人になるんです。『わあ、お兄ちゃん大きくなったね』とかって言って」

それに・・・。
「私、すぐおまけするの。言われなくてもオマケつけちゃう」。目じりが下がる。

気づけば、朝市が好きになり、人と話をするのも苦でなくなったという。

遠島さんにとって朝市は「居場所」となっていった。多少の悪天候でほかの店が休んでいたときでも出店していたほどだ。「休みをとって会いに来てくれる人がいるのに、私が休みだったら、残念がられるでしょう」

「朝市通り」に出店する遠島孝子さん(右端)

あの日、津波から逃げようと駆け込んだ3階建てのビルから、そんな自分の居場所を飲み込んでいく炎を見ていた。

元日は、3人の娘たちが集まっていた。揺れに襲われたのは、わが子に手料理を準備しようとガスに火をつけたときだった。自宅は海のすぐ近く。「お母さん、津波くる!逃げよう!」。娘たちに促され、何も持たずに車に乗った。

すぐに渋滞した。車を置いて逃げようとしていたら、ちょうど知人のお店を通りかかった。河原田川を挟んで朝市エリアの向かいにあるビルだった。「このビルは3階や。津波が来ても大丈夫やし、一緒に避難せんか」と言われ、車を置いて知人のビルの屋上に駆け上がった。津波が来たのはその直後だった。

朝市通りのすぐそばを流れる河原田川=2024年2月8日

不思議な光景を目にした。

「津波が来た時、海のほうからがーっと来たけど、小さな波だったので、よかったねって言っていたんですけど、川の水も少ないね、と言って見ていたんです」

当時、地震による地盤隆起が影響し、川にはほとんど水が流れていなかったが、遠島さんたちにはそんな状況がわからず、「何でこんなに少ないんだろうって思っていた」

朝市付近から火の手が上がるのを目撃した当時を語る遠島孝子さん=2024年2月9日

川の水の少なさを見ていた遠島さんはふと、その先で火の手が上がっているのを見た。

朝市通りに近い、一軒の家屋が燃えていた。自身の露店があった場所からは距離があり、「消防車が来て火を消してくれれば大丈夫だろう」と思っていた。

消防車はなかなか来なかった。
いたるところで地割れが起きて消防車が駆け付けられなかっただけでなく、川の水が使えなかったことで消火活動そのものも遅れてしまったことを知ったのは、震災から1カ月以上経ったあとだった。

そんなことを知る由もなく、真っ赤な炎が朝市を包んでいく様子を、ただただ見ているしかなかった。

「朝市通り」に並ぶたくさんの露店=2018年11月、HAB北陸朝日放送

焼け跡となってしまった朝市に入ったのは、震災から1カ月ほど経ったときだった。それまでは報道でみるだけで、立ち入る気にもならなかった。行方不明者の中には、名前を知っている人もいた。

「私の生きがいの場所だった。朝市でしか仕事したことなかった・・・居場所がなくなった」
「能登も私たちも地震でみんな壊れた」。とぎれとぎれに話した。

失って、改めて朝市のすばらしさを実感しているという。
「いろんな人が全国から来て、いろんな人とお話できる。海のものも山のものも、いろんなおいしい食べ物がたくさんある。被災してから、今まで当たり前のように食べとったものが、いま全く食べられない」

気落ちしていた遠島さんにとって、3月に金沢市で「出張輪島朝市」が開催されることになったのは、再び前を向く大きなきっかけとなった。「皆さんがこうやって輪島の復興のために応援してくれている。私たちが何もしないでめげとっても仕方ない。頑張ろう、と」

だが、「出張輪島朝市」はあくまで「出張」だと強調する。「輪島離れませんよ私。絶対に」

いまは住む場所も「職場」もなくなってしまったから、遠く離れた金沢市で出店するけど、輪島で露店が出せる場所が整えば、すぐに戻るつもりだ。
「こんな私でも、会いに来てくださるお客さんがいるんです。1年に1回とか、コロナ明けで何年ぶりに来たよとか。お客さんに感謝しています」

待ってくれているお客さんがいるから、頑張れる。

「水とか電気とかライフラインが可能になったら商売すぐ始めますのでまた皆さん私に会いに来てください」

いまは、一刻も早く、誰かとたくさんおしゃべりしたい。カメラの前でそんな笑顔を見せてくれた。

(取材:今村優莉 撮影:井上祐介・石井大資)