ばあちゃんから受け継いだ「いしる」次は娘に
パックリと地割れした自宅敷地にある加工場で、「南谷良枝商店」社長の南谷良枝さん(48)はトレードマークのピンク色の上着姿で出迎えてくれた。
「これ着ていると、元気でるから」
朝市通りで31年、ふぐの干物や塩辛、ぬか漬けなどを売ってきた。味付けに使う能登の伝統魚醤「いしる」は、18歳の時に祖母・故小磯すみさんから受け継いだ製法で、通常よりも長く発酵させたコクのある味わいが人気だ。
加工場は、6年前に「自分のすべて」をつぎ込んで建てたものだった。
毎朝6時に加工場に来て、その日の「魚の顔」を見て、どんなものを作るか決める。手作りした商品を車に詰め込み、2キロほど離れた朝市へ。夫にも手伝ってもらって屋台を組み、お昼すぎまで露店販売。午後はまた加工場に戻ってパック詰めや発送などの作業をする。「朝から晩まで馬車馬のように」働いた。
地震の影響で地割れし、2メートルの段差が生まれた。加工場は床下の地面が崩れ落ち、5分の1ほど浮いた状態になった。大きく傾き、私たちが取材に訪れた2月上旬も、崩れた崖側に引きずられる形で少しずつ動いていると説明してくれた。
加工場内に入ると、冷蔵庫に保存していた海産物などが飛び出し、商品に付けるシールが汚れにまみれて足元に散らばったまま。「震災1カ月前に悩みに悩んでやっと購入を決意した」という、真空パックをする機械も転がっていた。震災からひと月経っても、片付けが進まないと話す。
「一からこの工場を自分の力で作ってやって来た。シール1枚とっても、デザインから全部自分たちで作ったものなので、捨てられない」
物心ついた頃から、行商をしていた祖母の手伝いをするのが好きだった。自家製の一夜干しのするめをナイロン袋に入れたり、塩辛をパック詰めにしたり。自然と商売に興味を持った。小学生になると、祖父が運転する車に乗せてもらい、毎週末、行商についていくようになった。
接客が得意だった祖母は、お客さんの家族構成や親戚関係だけでなく、好みや病院に行く日、体調の変化まで何でも知っていた。お得意さんになると「その家の子どもたちは、生まれた時からばあちゃんの作ったものを食べとる」。よそさまの家の“おふくろの味”が、自分の祖母の味であることが誇りだった。
「ばあちゃんみたいな商売がしたい」と思っていたころ、たまたま朝市で店を出していた父親の友人が閉店することになり、場所を譲ってもらうことに。南谷さんにとって朝市に店を出すのは夢だった。祖母もかつては出店したがっていたが、厳しいルールがあったため権利をもらえなかった。定時制高校に通いながら、露店の世界に飛び込んだ。17歳だった。
当時もいまも、そんな若さで露店に立った女性はいないという。朝市通りで過ごした31年間で思い浮かぶのは、元気な女性たちの姿だ。
「自分の親よりも上の人たちばっかりの中で、私のような若造が、大先輩たちとどういうふうに接していくか。言葉遣いはもちろん、人間関係、お客さんとのコミュニケーションの仕方を朝市のおばちゃんたちから学んだ」
「仲良くしているけど、全員がライバル。隣の店よりも見栄えが良くて、よりお客様に気に入られるものを売らないと負けちゃうんです」
一番つらいのは、天気だった。「夏は暑いし冬は寒い。露店なんで。あそこは電気も使える状況じゃないから、扇風機もつけられんし」
それでも、日々朝市通りで仕事をするのが大好きだった。
「やっぱりお客さんとコミュニケーションをとりながらの現金商売が一番の魅力。対面商売で、自分の商品に自信を持ってセールスする。お客さんが納得すれば買ってくれるし、下手くそやったら買ってくれへん。そういう、自分の腕次第っていうところが楽しい」
誰とも会話しないまま、スマホ一つで「ポチ」っと買い物することが日常の一部となっていた私に、17歳の少女のような目で話してくれた。
あの日。
元日に毎年してきたように、加工場の神棚に四合瓶のお酒をお供えしたあと、家族4人で商売繁盛のご祈祷を受けに車で1時間半かけて津幡町の寺に初詣に行った。揺れに襲われたのは、お参りを済ませて帰宅途中の車内だった。
「遊園地のアトラクションみたいな凄い揺れで、空気がドヨンドヨンと動いていた」。津波警報におびえながら、高台を目指し、そのまま車中泊した。加工場の様子を確認しに戻れたのは震災から3日目の朝だった。
いしるが入っていた黄色い2トンだるが2本と、500キロ入りのたる5、6本が、数メートル飛ばされていた。たるは割れ、中身が流れ出していた。
南谷良枝商店にとって、いしるは一番大切なものだった。「ばあちゃんからもらった、私しか持ってない、本当に貴重な、ご先祖様の思いが詰まった宝物だった」
取れたての魚を買い付けて、細かく切り、塩と混ぜてちょっと寝かせる。通常、1~3年ほどで仕上がるいしるを、5年熟成させる。祖母から受け継いだ味の秘訣だ。「5年間熟成させるので、いま売っているのは5年前のもの。それを繰り返しているんです」
昨年は、それまで2トンほどだったいしるの量を2倍に増やしたばかりだった。真夏、家族全員総出で、屋外で日に焼けながら1カ月かけて仕込んだ。
割れたたるを前に、泣くことすらできなかった。
それでも心を強く保てているのは、全国から届いたお客様からの温かいメッセージだった。
――何年かかってもいいから、良枝さんの作った海産物が食べたい
――時間かかるやろし、大変やけど必ず戻ってきて
――無理だけはしないでね
「こんな中で優しくて、温かいことばを本当に何百件も頂いた。お客様たちの声があるから、私は絶対に負けん、必ず復活するぞという強い気持ちを持つことができたんです」
もう一つ、背中を押している存在がある。
今年2月に22歳になった長女・美有さんだ。
高校3年生の職場体験の時に朝市を選び、母親の「キラキラと楽しそうにお客さんと話す姿」に目を奪われ、後を継ぐことを決めた。
美有さんは言う。
「最初は、母が楽しそうに働いているから、自分もこんなふうに働きたいなと思ったのがきっかけなんですけど、(震災後の)今は、朝市で売られている海産物だけでなく輪島の食文化を、未来へつないでいくのも輪島にいる若者としての役目なのかなと、思っています」
「大きなブリもさばきますし、私が18歳のころより魚さばきが上手」と良枝さんも手放しで褒める。
祖母から受け継いだ宝物を、娘へ。
まずは、3月に金沢市で開かれる「出張」輪島朝市で再スタートだ。
(取材:今村優莉 撮影:井上祐介・石井大資)