朝市の灯 消さないための「おはよう」

朝6時。
輪島市朝市組合の理事、中道肇さん(66)の一日は、無料通話アプリ「LINE」でメッセージを送信することから始まる。

おはよう
みなさん、今日の目覚めはいかがですか
今年初めての塩が出来ました

数分後には複数から返信が来る。

朝市通りで出店する露天商ら約25人が参加するグループチャットだ。能登半島地震が起きるまでほとんど使ったことがなかった。

震災が起きた時、組合員らの安否を確かめるためにメッセージを送ったのがきっかけだった。以来、毎朝の日課となった。輪島市の天気や、市内の復旧工事の情報、自分の近況など。二次避難先として金沢市などに避難していた仲間が多く、輪島市の自宅が倒壊を逃れた中道さんは、遠方に滞在する仲間に市内の情報を送っていたのだ。

十数年にわたり、朝市通りの露店で「わじまの塩」を売ってきた。国の重要無形民俗文化財にも指定されている「揚げ浜式製塩」があることでも知られる能登半島。ところが、中道さんの塩工房にいくと、想像していた塩づくりの現場と違い、驚くほどコンパクトだった。
約50平方メートルの平屋内には、ステンレス製の大きな水槽と、浴槽のような形をした2つの製塩水槽。それぞれ、木製の棚が組んであり、特殊なライトが吊り下げられていて、「手作り感満載」だった。

塩工房で話す中道肇さん=2024年2月9日

そもそも、塩って「室内」で作るものなのか・・・。詳しくないことを詫びつつ、塩田で有名な地域であえて建物内で作っている理由を尋ねた。

中道さんによると、塩づくりで有名な能登半島は元来、海岸に近い塩田に海水を持ってきて天日にさらし、釜で炊いて塩を作る製法が用いられてきた。

なぜ、お日さまも釜も火も使わず、室内で塩を作っているのか。

中道肇さんの塩工房=2024年2月9日

「釜焚きしながらやったこともあるんですけど、薪と固形燃料、油やガスを使う。数トンといった量の塩を作ろうとすると、伐採で毎年山が1個なくなるような話になるから、疑問に思って」

足掛け8年、独自の製法を編み出し、350度の高温が出せる特注ライトや、自然風と同じ風を出す扇風機などを開発して塩づくりに必要な「自然現象」を再現。煙もCO2も出ない、「エコ」な環境を作り上げた。

「機械は手作り。こんなやり方をしているのは世界でうちだけ」とニヤリと話した。

特注して350度の高温を出せるようにしたライト=2024年2月9日

硬さにも改良に改良を重ね、「溶けやすく、ミネラルが均等にまわって、漬物など発酵させるものには使いやすい塩」が出来上がった。

年間15~16トン生産し、朝市通りで自分の店だけでなく、ほかの食堂や露店にも納品。オンラインショップ販売にもいち早く取り組み、コロナ禍も乗り切った。
「ほかのお店はいろんな種類のものを売っているけど、うちは塩しか売っていない。最初は(妻に)『大丈夫?』と言われたけど、結構ファンがいましたよ」と振り返る。

中道さんが手掛ける「わじまの塩」

揺れに襲われたのは、ちょうど年始の挨拶を終えて帰宅し、「さあ、一家そろって晩酌でもやりましょう」と食卓を囲み始めた時だった。家族で車に乗って高台まで行き、そのまま5日間、車で過ごした。
ドキドキしながら7日目になってようやく工房を見に行った。製塩槽や棚の一部が損壊したものの、致命的な損害は避けられた。

だが、朝市通りを含む200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失。仲間は散り散りになり、一時は連絡がつかなくなった人もいた。

「大火で全部消えた町を実際に見た時は本当にショックだった」
朝市通りから約500メートル離れた自宅から、毎日足を運んだ。「最低5年は無理だろうな」と思った。

連絡が取れ始めた仲間たちはみな、憔悴しきっていた。
輪島朝市は「9割が女性の町」という。思えば、元気な姿しか見たことがなかった。

「屋台を立てて売り出し始めたら、みんな敵同士になるんです、朝の4時間は。(売上の)勝ち負けが発生して『あの人はよう売れる、なんで私は売れんかったって』って悔しがるからそれがエネルギーに変わるんです」
隣の露店には負けないぞ、と気合の入った声のかけあいが一番好きだったと振り返る。


「それなのに、お客さんがいなくなると退屈でみんな露店から出ちゃう。で、踊っとるんですよ、おばちゃんら。仕事が終わる時間になるとスピーカーで「朝市音頭」がかかるんですけど、みんな手をつないで踊る」

朝からあそこ通ると面白いですよ、と笑顔を見せ、そんな日常を必ず取り戻したいと声に力をこめた。

インタビューに応じる中道さん

「何もしなかったら、朝市という灯が消えちゃうんですよ。いまのメンバーが(復興)できるかできないかは確証はないけど、次の世代がやってくれるかもしれない。街並みが変わって、売り方も変わるかもしれない。でも輪島朝市の幟(のぼり)は掲げ続けないといけないんです」

「休眠状態」だったラインのグループチャットに投稿を始めたのは、そんな時だった。「二次避難しているおばちゃんから『私たちこれからどうなるの』と言われたから、何か考えようと」。数人の仲間とともに復活に向けて動き出した。

「泣いとっても仕方ない。あなたがたは販売のプロなんだから、どこでも順応できるはずやと言った。それに田舎やから、何か動き出せば、必ずおせっかいな人が手伝ってくれる」。そう信じていた。「(露店の)彼女たちは、まな板と包丁さえあればどこででも十分商売ができる人たちなんです」と各所で説明し、協力を求めた。

結果、石川県漁協などの全面的な協力のもと、3月23日を皮切りに金沢市で週一回、「出張」輪島朝市が開催されることが決まった。

自身は輪島市に残り、事業を続ける考えだ。壊れた設備も直し終え、今月初めには塩工房も本稼働を始めた。「残って輪島の復興をこの目で見届ける」という思いもある。

「露店のみなさんは生活がかかっている。金石(金沢市)でまずは商売を始めないと次の一歩すら踏み出せない。輪島の状況は俺が全部逐一送るから心配するな、と言った」

約束通り、毎朝、遠方に避難中の仲間の自宅や朝市周辺を見回っている。

さあ、今日はどんな挨拶を送ろうか。

(取材:今村優莉 撮影:井上祐介・石井大資)