大西信満【1】「表方(おもてかた)がそんなに偉いのかなって」怒りで俳優に

[2024/05/31 18:00]

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2003年、初主演映画「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督)で第58回毎日映
画コンクールスポニチグランプリ新人賞などを受賞した大西信満さん。作品ごとに強烈な
印象を与え、唯一無二の存在感を放つ実力派俳優として広く知られている。映画「実録・
連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(若松孝二監督)、映画「キャタピラー」(若
松孝二監督)、映画「さよなら渓谷」(大森立嗣監督)などに出演。現在、Disney+にて
配信中の「フクロウと呼ばれた男」、映画「東京ランドマーク」(林知亜季監督)が新宿
K’s cinemaで公開中の大西信満さんにインタビュー。


■「俺にケツを向けるな!」と罵倒され…

神奈川県で育った大西さんは、小さい頃は映画やテレビに興味を持つこともなく、特に好
きでもなかったという。
「自分の場合は、小さい時から映画が好きで映画館に通っていたとか、昔の作品をずっと
見ていたとか、そういうことでは全くなかったので、芝居とか映画とか見るようになった
のは、大人になってからです」

――俳優になろうと思ったきっかけは何だったのですか
「それは今話すと恥ずかしいというか、若気の至りの部分も多分にあったんですけど…。
僕は、元々裏方をやっていたんですよね。厳密に言うと特殊効果という持ち場がありまし
て、火薬をドカーンとやったり、ドライアイスを炊いたり…そういうことを主に音楽番組
やライブでやる仕事をしていたんです。
それで、23歳頃に何となく(仕事として)形になりそうだなというか、これなら続けら
れるかなと手ごたえを感じていた矢先に、もう20年以上前なので現在とは社会通念や業
界の常識、人々の感覚が全然違っていた時代の話ですが、あるライブ会場で、表方の人が
遅刻してきて。
たまにあることなんですけど、我々スタッフがリハーサルと仕込みを同時にやらなければ
ならない状況になって、マイクスタンドのところに歌い手さんがいて、その間をほふく前
進みたいな形でケーブルを結線していたら、突然『お前、俺に向かってケツ向けんじゃね
え!』って蹴飛ばされて。

自分なんかは末端のスタッフで、相手はその人がいなきゃイベントが成立しないわけで、
どっちがいいとか正しいとかじゃなく問答無用で、全面的に自分が悪いということになっ
て舞台監督とかにボコボコにされたわけですよ(笑)。
それで、これはちょっといくらなんでも理不尽だなと思って。渋谷公会堂だったんですけ
ど、坂を下りてきたらNHKの手前に、昔は渋谷ビデオスタジオという撮影スタジオが
あって。そこで俳優の養成所みたいなことをやっていて、『役者やる人を求む』みたいな
結構大きな貼り紙があったんです。
それを見て衝動的に、『そんなに表方の言うことが絶対で、裏方が言うことが理不尽に扱
われて潰されて生きていくぐらいだったら、表方になってやろう』と思って。若かったの
で、その勢いで渋スタに入って行って、その事務局の人にすごい勢いで事情を話したわけ
です。
それで、『僕を入れてくれないだろうか』って言ったら、『じゃあ、手続きをここでやっ
て。でも、これぐらいお金がかかるよ』って言われて。『そんな金ないですよ』って言っ
たら、『じゃあ、出世払いでいいから、僕が立て替えてあげるから。君は多分何とかなり
そうだから、とりあえず来てみなさい』って言ってくれたので、そこに通うことになった
んです。

特殊効果の仕事をスパンと辞めて、そこの養成所というかワークショップに週2回、半年
間通って。それで(養成期間が)終わる時に10分か15分ぐらいの自分のプロフィルビ
デオみたいな作品をプロのスタッフが撮影してくれて。それを自分の宣伝材料として、自
分で売り込んでいけばいいんじゃないかみたいな感じで。
自分は、それまで映画もテレビもそんなに見たことがなかったんです。うちはあまりテレ
ビを見ない家だったんですよ。見るのはオヤジが帰って来た時に野球中継がやっていたら
それを見るくらいで。それ以外に見てもいないのに音が鳴っているのを親が嫌っていて、
『見るなら見ろ、見ないんだったら消せ』という感じだったので。
だから、学校で同年代が盛り上がっているような流行(はや)りのドラマとかもあまり見
たことないし、そのぐらいむしろ遠い環境にいたんですけど、本当に偶然の成り行きで
『表方になりたい』と思ったんですよね。
まあ実際なってみれば、どちらが偉いとか上下じゃなく、単に持ち場の違いでしかないの
ですが、あの時は衝動しかなかったから。
でも、自分がすごく遅れをとっていることは十分自覚していました。周りはみんな『子ど
もの時から映画が好きで映画館に通って役者になりたいと思っていた』とか、『ドラマが
好きで連ドラに出たい』とか、基本そういう人がほぼ全員という環境の中で、圧倒的に自
分だけ何を言っているのかわからないという状況だったので、そこからいろいろな作品を
見るようになりました。
とは言っても、埋め切れないというか、今だにコンプレックスみたいなものはあります。
僕らの世代で仕事をやり続けてこられている人って、やっぱりものすごく映画愛が強いと
いうか、詳しい人がたくさんいるので。
だからむしろ自分はわからないことを自覚しているので、例えば何か映画を見た後、どう
解釈していいのかわからないなみたいな時に、そういう詳しい人たちに電話して聞いたり
して。そういう見方もあるなとか、そういう捉え方で自由でいいんだとか、そうやって遅
れを取り戻していっている感じです」

※大西信満(おおにし・しま)プロフィル
1975年8月22日生まれ。神奈川県出身。初主演映画「赤目四十八瀧心中未遂」で、
第58回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、第13回日本映画批評家大賞新
人賞受賞。2008年、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」以降の若松孝
二監督全5作「キャタピラー」、「海燕ホテル・ブルー」、「11・25自決の日 三島
由紀夫と若者たち」、「千年の愉楽」に出演。「祖谷物語 おくのひと」(蔦哲一朗監
督)、「BOLT」(林海象監督)、「柴公園」(綾部真弥監督)など出演作多数。映画
「東京ランドマーク」が新宿K’s cinemaにて公開中。


■原田芳雄さんとの出会い

半年間の養成期間が終わったものの、仕事がすぐにあるわけもなく、芸能事務所のことも
よくわからなかったという。
「どうしたらいいか全くわからなかったので、レッスンのお金を立て替えてくれた事務局
の人に相談したら、指導しに来ていたプロデューサーの一人に『お前みたいなやつは、も
しかしたら原田芳雄さんが気に入ってくれるかもしれないから、紹介とかそういうこと
じゃなくて、自分で手紙を書いて、今日撮った卒業制作のビデオも事務所に手紙と一緒に
送ってみたらどうか』って言われたので、その通りに手紙を書いてビデオと一緒に送った
んですよね。
そうしたら、ほどなくして連絡があって、原田家に来るようにと言われたので、指定され
た日に行ったら、もう大宴会をしているわけですよ」

――原田さんのお宅での宴会は有名でしたね
「そう。20人ぐらいいろんな方が来ていました。でも、自分はてっきり面接みたいなこ
とがあるのだと思っていたので、履歴書みたいなものを用意したりして行ったのですが、
まさかの宴会で(笑)。ポカンとして立っていたら、『そこの若いの、皿片付けろよ!』み
たいな
感じで怒られたりして、お皿を替えたりしていたんですよ。
それで、みなさんが帰った後、『あれ?そういやお前、初めて見る顔だな』みたいな話に
なって(笑)。実は呼ばれたから今日来たんですって言ったら、『そうか、そうか。じゃあ
明日からうちに来い』ということになって。
特にちゃんと話したわけでも何もなく、案外すんなり芳雄さんの事務所に所属させてもら
うことが決まって、そこから初めて俳優らしい活動をするようになって、芳雄さんの現場
に運転手というか付き人で入った時に初めてプロの現場を経験しました。
初めて会った俳優さんが芳雄さんだったので、そこから猛勉強するわけですよね。入って
から焦って映画館に行って、特集上映を見たりして勉強というか、自分の中の足りなかっ
たものをどんどん埋めていっている時期に、芳雄さんの家に連日いろんなお客さんが来て
宴会をやるわけですよ。
その中にのちに仕事をすることになる若松孝二監督とか、荒戸(源次郎)さんや(林)海
象さんもそうだし、ちょっとずつご縁ができていくというか。初めは、『芳雄さんとこの
若いの、お前名前なんだっけ?』みたいな感じでしたけど、何回か顔を合わせているうち
に名前を覚えてもらって。
その間、いろいろ話せばそれだけでも5時間、6時間かかっちゃうんですけど、その中か
ら荒戸さんが、『今度俺、映画を撮るから芳雄さんのところを離れて俺の事務所に来ない
か』っていうことになったんですね。
それで芳雄さんに、『荒戸さんに、この事務所を辞めてその映画の準備のために荒戸さん
の事務所に行くように言われたんですけど、どうしたらいいですか?』って聞いたら、
『それはチャンスだから行ってこい。こっちのことは気にするな』って言ってくれたんで
す」


■主演俳優なのに自ら劇場に飛び込み営業も

原田芳雄さんの事務所を辞めて荒戸源次郎さんの事務所に入った大西さんだったが、すぐ
に映画製作というわけにはいかなかったという。
「荒戸さんの事務所と言っても人もいないし、何もないんですよ。ただ、そこから毎日、
朝の5時とか6時とかに『コーヒー飲もうか』って電話がかかってきて、5時ぐらいから
やっている喫茶店が近くにあったので、毎朝コーヒーを一緒に飲んでいました。
荒戸さんは、いつも新聞を読んでいるんですよ。で、何か話があるだろうと思って座って
いるんですけど、ずっと新聞を読んでいて、何か一言二言、『今日は寒いね』とか言って、
コーヒーを飲み終わると、『じゃあ、また』って帰っちゃうので、『これは何なんだろ
う?』って(笑)。
それで夜になると、今度は『ご飯を食べに行こうか』って電話がかかってきて。夜は夜で
何かつまみながら酒を飲んで…というのが1年ぐらい続いたのかな。特に何かの話をした
とかそういうことではなく、何気ない会話をしていく中で、徐々に映画の準備も始まって。

そして映画製作の拠点として新たに物件を借りて、人も何人か入ってきて、徐々に映画ら
しく動いていって、ロケハンをしたり、資金集めのための企画書を書いたりとか。それで、どんどん人が入ってきてはどんどん辞めていって。
今の時代と違って荒々しい雰囲気があったので、合わない人はすぐ辞めていく。で、その
同期の中で残っているのが大森立嗣監督だったり、プロデューサーの村岡伸一郎さんだっ
たりするわけですよ。
で、映画作りが始まって、休みなしで毎日。1年のうち元日と、あともう1日ぐらいだけ
オフで、それ以外はずっと撮影後も含めれば3年ぐらい毎日顔を合わせていました。それ
で、どこかの段階で、『じゃあ、お前これ主役だ』って言われたので、そういうことに
なったんだって。
この本を読めとか、こういうことを練習しておけとか、いろいろ言われていく中で、もし
かしたらそういうことかなと思っていたし、その野心がなければ自分も続かなかったと思
うんですけど」

大西さんは、2003年に公開された映画「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督)
で初主演を果たす(当時の芸名は大西滝次郎)。大西さんが演じたのは、この世に自分の
居場所がないと思い尼崎にたどり着いた主人公・生島与一。古いアパートの一室で、焼き
鳥屋で使うモツ肉や鶏肉の串刺しをして生計をたてることに。やがて与一は、背中一面に
刺青がある女・綾(寺島しのぶ)と関係を持つようになり、心中しようとするが、死にき
れず…という展開。

――撮影はいかがでした?
「それはそれでハードでしたよね。今と違って35ミリの時代だったので、セッティング
にもものすごく時間がかかるし、まだ昭和の残滓(ざんし)というか、現場の荒々しい気
風もあったので。自分が一番の新人で、しかも主演ということだったので、あらゆる部署
からボロカスに言われていました。
どうにか撮影が終わってようやく休めるかなと思ったら、クランクアップの翌日から今度
は映画の公開準備の段階に移ってくるわけですよ。全部自分のところでやるので、今度は、
映画館はどこでやろうかというところから始まって。
『この映画のイメージに合う映画館をみんなリストアップして』と言われてリストアップ
したら、『企画書を持って映画館に飛び込みで行くんだ』って言われて実際に行きました
よ。結局『ポレポレ東中野』と、今はもうないですけど『横浜日劇』に決まったのですが、
今みたいにデータで渡したりできないから、自分たちで重いフィルムを担(かつ)いで
行って決めてもらって。
もちろんそれは自分の力とかじゃなく、やっぱり大前提として荒戸さんという名前がま
ずあって、他にも大楠道代さんだったり、内田裕也さんだったり、寺島しのぶさんたちの
存在があったから決まって。
あの当時は、例えば企画書だって、今だったらパソコンで文字を打ってプリントアウトす
るんですけど、そんなのあの頃には許されませんでした。『一番いい和紙を探すよう
に』って言われて、浅草の問屋みたいなところで一番いい和紙、しかも破れにくくてイン
ク滲みしないやつとか、それを宣伝美術の人が中心になって一緒に探して。
企画書を作るだけでもそれぐらい手間がかかっていて、ちょっとでも雑なことがあったら
罵倒されたし、『そんなんで映画を作れると思うなよ!』みたいな感じでした。
でも、芝居云々というよりかは、むしろその前も後も、企画・製作から上映まで全部ワン
セットで映画作りだというのが僕の最初の体験だったんですよね。だから、いまだにそう
いうことが気になってしまいます」

――「赤目四十八瀧心中未遂」には結局5、6年は関わっていたことになりますか
「そうですね。上映が終わるまで含めたらそれぐらいかかっています。撮影自体は延べで
60日ぐらいですけど、季節ごとの撮影があり、ほとんどが夏の撮影ですが、冬と春にも撮
影して、秋は実景だけでしたが、ほぼ1年かけて撮影しました。
その前と、公開してからも1年ぐらい、『ポレポレ東中野』から始まって、『テアトル新
宿』に行ったり…毎週のように舞台挨拶をしていましたからね」

――大西さんは、この作品で第58回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞も受
賞されました。受賞を知らされた時はどう思われました?
「もちろんうれしいんですけれども、あまりよくわかってなかったというか(笑)。後から
その重みというか、いろいろ実感しましたけど、その当時はひたすら日々に追われて精一
杯という感じでした。賞をもらって、次の日休みになるんだったらうれしいけど、関係な
いですからね(笑)」

――荒戸さんからは何か言われました?
「もちろん喜んでくれましたけど、ただ、自分以外の共演者の先輩方がもっと賞をいろい
ろ受賞されていたので、そういう中にいると、自分なんか大したことないなっていう風に
思ってしまう自分もいて。
『赤目〜』を撮り終わって公開して解放じゃなかったんです。今度は大森立嗣監督の『ゲ
ルマニウムの夜』の準備が始まって、撮影が始まって。
自分は『ゲルマニウムの夜』に関しては現場に行ったりはしないですけど、みんなが東北
の方で撮影している時に、東京でデスクみたいなことをやっていて、いろいろ連絡係みた
いなことをしたりしていました。
さすがに携帯はあったけど、データで転送とかもできないし、何か足りないから送ってく
れみたいなことだったり、お金の管理でも、現場が回らないからどうにか作ってきて、プ
ロデューサーの人とやり取りして…とか。
自分は『赤目〜』の後、映画に3年ぐらい出ていないなって思って。自分としては、俳優
がやりたくてせっかく映画にも出たのに、結局またこういう状態がずっと続くのかなと思
うと、何か違うなって。それで、『僕は俳優がやりたい。専念したいです』と言って、映
画製作会社じゃない普通の芸能事務所に所属することになりました」

事務所の移籍後、初のオーディションが若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山
荘への道程(みち)」。以降、大西さんは、若松監督の遺作となった「千年の愉楽」まで
晩年の若松作品全5作に出演することに。次回はその撮影エピソードなども紹介。(津島
令子)

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