#リアルアメリカ 強制収容所生まれの日本人 米軍に志願した理由[2021/12/30 19:00]

「米軍の兵士として戦えるか」「天皇陛下を捨てることができるか」
およそ80年前、アメリカの強制収容所で日系人に突き付けられた質問です。
これは、1945年カリフォルニア州の強制収容所で撮られた日本人家族の写真です。
米軍に入り、天皇陛下を捨てる、2つの問いに「NO」と答えた結果、長い収容所での生活を強いられました。

1941年12月、旧日本軍の航空機およそ350機、空母6隻などからなる機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃しました。
当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカに住む日系人を敵とみなし、強制収容する大統領令を出したのです。
臨時の収容所として使われたロサンゼルスの競馬場に家族が収容された人がいます。
古本武司さん。77歳、姉から聞いたという当時の話を振り返ります。

古本さん)
全部取り上げられて、スーツケース1つ。
10日前の(通知で)収容された。
我々の生活はがらっとひっくり返りました。

これが大統領令9066号です。
およそ11万5000人もの罪のない日系人が突然、自宅を追われました。
古本さんの家族は、その後、アーカンソー州の収容所に送られました。
そこで、アメリカへの忠誠心を問われることになります。

古本さん)
米政府のロイヤリティクエスチョン。誠実さの証拠を作るために質問された。
「志願して米軍に入って戦いますか」、「あなたは日本の天皇陛下さんを捨てますか」とか、そういう質問がありまして、(2つの問に)NO、NOと答えた人が全体の1割、後の9割はYES、YESで、うちのファミリーは「NO、NO」なので、それでまた次のキャンプに送られました。それが1943年。

幼い子どもたちを抱えていた古本さんの父親は、米軍の兵士として戦争に行くとは言えなかったといいます。
また、両親を広島に残していて、天皇陛下を捨てるとも言えませんでした。
汽車に乗せられ、一家が移されたのは、カリフォルニア州のトゥレレイク収容所。

1944年、古本さんはこの強制収容所で生まれ、翌年の終戦までおよそ1年間暮らしました。
両親は生前、当時のことについて多くを語らなかったといいます。

古本さん)
ほとんどうちの親はキャンプ(収容所)の話はしなかった。
時々私の姉がキャンプの話を色々教えてくれましたけれども、実際に後でわかったんですけれども、こういうひどいことがあったんだなと。
6つほどかまどというかトイレがあって、隣の人と当たるぐらいのところで、ベッドルームもシーツで仕切って。私はそこで生まれたんですけれど。
動物が入れられるような感じですね。
(Q日本人という理由で)
そういうことです、これは本当のヘイトクライム。トップレベルから。

終戦後、古本さんらは祖父が住む広島市へ帰国します。
しかし、原爆が投下され、焼け野原となった広島での暮らしは楽ではありませんでした。
小学5年生まで過ごした後、再びアメリカへと移住することになりますが、待ち受けていたのは、厳しい現実でした

古本さん)
渡米した時も日本人は軽蔑されました。
だから私が住んでいたところは、ほとんど90%黒人のエリアでした。
1950年代、住みたいところには住めなかった。
断られました。

日本人というだけで、住みたい場所には、住めない時代でした
学校でも差別的な扱いを受けたといいます。

(Q12月7日は真珠湾攻撃の日)
古本さん)
私も11歳でパールハーバーのことはあまりわからなかった。
でも12月7日が来ますと私の親しい黒人の友達が「オー、ユー、ジャップ」ってね。
半分は冗談で言って、(日本人は)ひどいことしたなって私に言うんですよ。
何を言っているのかと思いましたけど
12月7日が来るのが嫌で。本当に机の下に隠れたいと言うような感じでした。


なぜ、差別を受けなければならないのか、悔しい気持ちになる一方で、古本さんにはある思いが芽生えていました。

それは、「アメリカ人として認められたい」という思い。
自ら選んだ道は、米軍の士官学校でした。
アメリカで胸を張って生きていくための覚悟を決めたのです。

古本さん)
あなたのお父さんは(米軍への志願に)NOと答えた。あなたはどうしてYESなのか。
私はこちらに帰ってきている。私の住む所はアメリカしかないと私はアメリカ人だと。
私を磨き上げないといけない、この国で成功しないといけない。
そのために私は志願して入りました

古本さんは6カ月で将校になり、ベトナム戦争に従軍します。
アメリカという国を背負って戦いましたが、その代償は、とても大きいものでした。

古本さん)
私が戦っていたところは特にそのマイノリティーというか、黒人とか東洋人とかが危ない所に送られまして、我々は夜いつもそういうところに、敵を追っていくんですけれど、いつでも誰かがその地雷を踏んで、我々がヘリコプターを呼んでけが人をいつも出していました。
PTSDなんですけど本当に私としては戦争に行ってえらい目にあって帰ってきまして。

無事に帰還し、結婚することができましたが、戦争の悲惨さを目の当たりにし、PTSD=心的外傷後ストレス障害に悩まされたのです。
PTSDを抱えながら、会社を転々とするなど、苦しい日々が続きましたが、不動産経営の資格を取得。
日本人のアメリカ進出の橋渡しをしてきました。

時代は、高度経済成長期です。
ニューヨークのビルやオフィスを次々に購入する日本人を快く思わないアメリカ人も多く、
アジア系の人々に対する差別が広がったといいます。

古本さん)
一番ひどいのはもちろん収容所の話ですけれど、ジャパニーズバッシングというのが1980年代後半から90年代前半にあった。
今ある(アジア系ヘイト)とスケールが似ている。
中国人がデトロイトで白人にバットで打ち殴られて亡くなりました。
彼は日本人だと思われて。
(Q日本人、アジア系ヘイトは今に始まったことではない)
もう私はこれで大きいやつは3回目です。

真珠湾攻撃をきっかけに強制収容所で生まれ、高度経済成長期のジャパニーズバッシングも経験してきました。
そして、今、新型コロナの感染拡大をきっかけに、アジア系の住民を標的にしたヘイトクライム=憎悪犯罪を目の当たりにしています。
差別は今に始まったことではなく、繰り返されているのです。

古本さんは、差別を撲滅するため、自身の体験を後世に伝える活動を続けています。
そして、ベトナム戦争から帰国後、50年住む地元に桜の木を植えるプロジェクトを進めているといいます。

古本さん)
特に今はアジアンヘイトクライムが起きていますので、できるだけいろいろな人種が集まって、一つになって桜の木を植えたらいいんじゃないかなと思って

77歳の古本さんに今後の目標を聞いてみました。

古本さん)
収容所にしても、ベトナム戦争にしても、広島の原爆にしても、みんな年をとってそういう人たちが少なくなっていますので、できるだけ私がまだ生きている間はこういう話をしていきたいと思っております。
まだ77歳、まだまだあと10年ぐらい大丈夫だと思います。

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