読めば流れが分かる ウクライナ危機の背景 プーチン大統領は何を恐れているのか〜前編[2022/02/23 11:00]

ロシアがウクライナの国境沿いに軍を展開し、侵攻が始まるのかどうか、緊迫の状況が続いています。
プーチン大統領はなぜ戦火を交える危険まで冒して、ウクライナのNATO=北大西洋条約機構への加入を阻止したいのか、ANN特派員としてソ連崩壊直後のモスクワに駐在した武隈喜一が解説します。


少し歴史を遡ることから始めてみたいと思います。

第二次世界大戦は、ナチスドイツとイタリア、日本が同盟を結び、英仏露そしてアメリカなどの連合国軍と戦った戦争だというのは周知の通りです。

その最終盤で、ナチスドイツの首都・ベルリンを大激戦の末に陥落させ、ドイツを降伏させた最大の功労者がソ連でした。
ヨーロッパ各国はナチスドイツに屈服して、政権が解体していましたから、まともな軍隊をもつのはイギリスと、真珠湾攻撃をきっかけに第二次世界大戦に参戦したアメリカ、そしてカナダだけだったのです。

英米軍は、1944年6月6日、「史上最大の作戦」でフランスのノルマンディに上陸して、パリを解放します。一方、ソ連はナチスドイツにモスクワ近郊まで攻められましたが、1943年2月2日、7カ月に及ぶスターリングラードの攻防戦でナチスドイツを破って、ドイツへの進軍を始めます。双方で200万人の死傷者が出たという大激戦です。
このあと、ソ連軍の前身である赤軍は、北はポーランドを経由してドイツへ、南はルーマニア、ユーゴ、ハンガリー、チェコ戦線を経由してドイツに入っていきます。各都市を解放するとともに、戦後のことも考えてそれぞれの国に政権を担える共産党系の人たちを擁立していきます。
そして、1945年4月から、これも1カ月の激戦の末、ナチスドイツの首都・ベルリンを陥落させます。

◆欧州を解放した国としての誇り

ソ連は第二次世界大戦で、2000万人を失ったと言われています。ロシア人は「ヨーロッパを解放したのは私たちだ」という誇りをもっているのです。
ソ連の都市にはどこでも第二次世界大戦の碑が建っています。ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドにかけてもナチスドイツとの激戦が続いた場所なので、どこでも無名戦士の碑などが建っているのです。

◆戦後の軍事同盟 冷戦の始まり

さて、第二次世界大戦は終わりましたが、すぐにドイツの扱いをめぐって、ソ連とアメリカが対立します。
戦時中最大の発明と言われる、核爆弾やミサイルの開発をナチスドイツは進めていました。戦後、アメリカもソ連もドイツの科学者を競い合うようにそれぞれの国に連れていき、研究をさせてミサイルと核兵器の開発を進めます。
そして、お互いに開発を進めていた、核兵器とミサイルへの恐怖から、軍事同盟が作られます。

アメリカが強力なイニシアチブを取って、1949年4月に西ヨーロッパ諸国と結成したのがNATO=北大西洋条約機構。これに対抗して、ソ連が解放していった東欧諸国の共産党と共産党政権をまとめて1955年にワルシャワ条約機構という軍事同盟を作ります。この2つの軍事同盟により、世界は二分されます。
そしてベルリンが首都としてあった東ドイツの扱いをめぐってアメリカとソ連がもめたのが“冷戦”の始まりです。ソ連はベルリンに壁を建て、東ドイツ側、西ドイツ側に分断しました。1989年にこのベルリンの壁が崩れて東西ドイツが統一されますが、この壁はNATOとワルシャワ条約機構という東西冷戦の象徴だったのです。

アメリカは現在も力を持っていますから、世界の盟主であることは誰もが知るところですが、当時、東側の盟主はソ連だったのです。
今のロシアはGDPで中国の10分の1、軍事力もソ連時代に比べると縮小し、1990年代から2000年代には貧しい時代が続いたので想像しにくいかもしれませんが、実際、1950年代から60年代初頭にかけては、核開発もミサイル開発もソ連がアメリカをリードしていました。ミサイル開発とはつまり宇宙開発のことです。人工衛星を打ち出して、正確な軌道に乗せ、地球に回収していくという技術は、核弾頭を正確に敵の首都に落とすのと同じ技術です。
1954年にソ連が水爆実験を成功させた時には、アメリカで“水爆ショック”というのがありました。ここまで高いレベルで完成させると思わなかったのです。また1957年にソ連が初の大陸間弾道弾を打ち上げて、2カ月後には人工衛星を打ち上げます。これも”スプートニクショック”と言ってアメリカでは衝撃をもって受け止められました。

アメリカの技術開発はソ連の3カ月から1年遅れていたのです。これは危機的な遅れだとアメリカ政府は認識していました。
1940年代後半中国には共産主義国家が成立、朝鮮戦争が勃発して北朝鮮も誕生、南北に分かれた北ベトナムにもやはり共産主義の政権が誕生するというように、世界中にソ連の後ろ盾を得た共産主義の政権がどんどん誕生したのです。
特に、アジア、アフリカの新興独立国の留学生は、モスクワを目指しました。アメリカの帝国主義的な政策を嫌う中南米の国は社会主義革命を目指して、ソ連に支援をあおぎました。
中でも、1959年に起きた「キューバ革命」はアメリカには喉元にナイフを突きつけられたような出来事でした。キューバからアメリカは短距離ミサイルでも届く距離です。1962年10月にはこのキューバにミサイル基地を建設するという情報が明らかになり、ソ連がキューバに核兵器を配備するのではないかと、あわや核戦争の瀬戸際というところまでいきました。このキューバ危機は当時のフルシチョフ首相とケネディ大統領が書簡を交わす中で解決されていきますが、東西対決が核戦争の一歩手前まで行ったのです。

◆ソ連の崩壊 東欧諸国の離反

ところが1991年にソ連が崩壊します。
理由は色々ありますが、核やミサイルの開発、その維持と管理を2つの大国が進めてきた中で、ソ連の経済がもたなくなったのが一因なのは確かです。消費生活が貧しくなり、庶民も耐え切れなくなり、共産党の中では年寄りだけが政権を担っていく形が続いたことが、ペレストロイカ(再改革・建て直し)につながっていきました。その中でレーガン大統領とゴルバチョフ書記長が歩み寄り、デタント(緊張緩和)という「核をなくしていこう」という方向に進んでいきました。
ただし、ソ連は1991年12月に崩壊します。

盟主であるソ連の崩壊とともに、ワルシャワ条約機構は解体します。東欧の国々もソ連のくびきから自由になっていきます。一方でNATOは解体されず残ります。ただし、ソ連がなくなったことで新戦略を提案します。その役割を反共産圏への軍事同盟から地域内の紛争の予防に変えて、域外の紛争についてもロシアと協議するというやわらかな組織になったと言えます。

しかし、ロシア、アメリカ、ヨーロッパの歴史を考える際には大変重要な出来事が起こります。1990年代半ばのユーゴスラビアの内戦です。4つの言語、3つの宗教を持つ国がチトー大統領の元で統一されていましたが、冷戦の崩壊とともに民族主義が台頭して内戦に突入します。
様々な人権侵害などが起きて、1999年NATOは首都ベオグラードを空爆します。ユーゴスラビアはNATOの加盟国ではないのに、国連安保理に諮ることもなく、アメリカ主導でロシアを蚊帳の外にしたまま、空爆を続けました。
ユーゴスラビアの中でもセルビアは、もともとスラブ人が住みロシア人とは民族的にも歴史的にもつながりが強い国です。セルビアのベオグラードが空爆されたことでロシア人は「欧米はスラブの国には冷たい」という危機感を覚えたはずです。

また、この1999年というちょうどこの年に、ポーランド、ハンガリー、チェコといった、かつてワルシャワ条約機構の加盟国だった国がNATOに加盟したのです。

ちょうどこのころ、2000年に大統領になったのがプーチン氏です。
NATOが本来行うはずの協議を行わず、国連安保理にも諮らずユーゴスラビアを空爆した。しかもかつては同盟国だった東欧諸国が逃げるようにNATOに入っていく。さらに、2004年には、残る東欧の国々、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、旧ユーゴのスロベニア、バルト三国もNATOに加わります。バルト三国は旧ソ連の構成国で、当然ロシアと国境を接しています。
プーチン大統領が、ロシアのおかれている安全保障環境が脆弱で、欧米はロシアを潰そうとしているという意識にとらわれたとしても無理はありません。
(後編につづく)


テレビ朝日 コメンテーター室 武隈喜一(元ANNモスクワ支局長)

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