MIYAVIがシリア難民のもとへ 希望と絶望の避難所「ずっと会いたかった」少年の行方は[2023/06/25 17:15]

世界の難民の数は、過去最多の1億1000万人となり、増加の一途をたどっています。なかでも最も多いのがシリア難民です。国連難民高等弁務官事務所=UNHCRの親善大使を務める「サムライギタリスト」MIYAVIさんが、シリア難民の避難所を緊急訪問しました。

■世界で73人に1人…急増する難民

世界で一番新しい国、アフリカの南スーダン。内戦終了後も政情不安が続き、難民の数は229万5000人。独裁色が強まるベネズエラでは、マドゥロ政権から逃げ出す難民が増え、南米最大の危機を迎えています。アメリカが撤退したアフガニスタンでは、566万1700人。

ロシアによるウクライナ侵攻で世界の難民は急増。ついに、1億1000万人に達し、世界では73人に1人が、国際的な助けを求めています。

■アラビア語で自己紹介 支援続けるMIYAVIさん

世界で最も難民が多いのは、中東シリアです。その数は、654万7800人に上り、危険な海を渡る光景は、日常となりました。

MIYAVIさんが訪れたのは、シリアから150万人が逃れた、隣国のレバノン。この時期、平均気温は30度近くになります。10年前に作られたこの避難所は、電気を使える時間には制限があり、水道もありません。そのため、水を汲むのは子どもたちの仕事です。今も7万人ほどが暮らしていて、久しぶりのお客さんに子どもたちが集まります。

「私の名前はMIYAVIです、元気ですか?」と、アラビア語で自己紹介すると、「元気だよ」と子どもたち。「ギターを弾いてもいいかな?」とMIYAVIさんが演奏を開始すると、子供たちは目を輝かせ、笑顔で聞き入り、手拍子で答えます。

MIYAVIさんが、この避難所を訪れるのは7年ぶり。「音楽が支援になるのか」と、最初は自信がありませんでしたが、訪問後、「僕もミュージシャンになりたい」と、初めて夢を持った子どもがいたと知らされ、音楽の力を信じ、難民支援を続けています。

■「日給210円」「1日1食」悪化する難民の生活

子どもたちの笑顔とは裏腹に、シリア難民の状況は悪化しました。話を聞いたのは、5人の子どもがいる家族。父親は、「私たちの状況は悪化しています。月収は200ドル(約2万8000円)です。何とか生きるので、精一杯。仕事をしたくても、なかなか、ないのです。子どもたちも家族のために働いていますが、丸一日働いても日給は1.5ドル(約210円)です」と話します。

MIYAVIさん「今日は仕事がありましたか?」
父親「私は糖尿病で具合が悪く、薬が必要ですが買えません。病気は良くならず、なかなか働けないのです」「内戦が起こる前は、シリアからレバノンやヨルダンへ出稼ぎにいっていました」

ウクライナ侵攻で、避難所でも燃料費や小麦が高騰。しわ寄せが来たのは、子どもたちの学びの場でした。

MIYAVIさん「子どもたちは学校に行ってますか?」
父親「いえ、行けていません…」

母親「以前は、生活必需品だけは何とかそろえられましたが、生活は目まぐるしく悪くなりました。本当は、娘たちを学校へ通わせたいのですが、パンを手に入れるために働きに行かせることになりました」

レバノンへ逃れたシリア難民の半数が、子どもです。何とか子どもを学校へ通わせることができている別の母親も、苦しい実情を訴えます。

母親「子どもたちは朝ごはんを食べずに学校へ行きます。担任の先生からは『サンドイッチを持ってこないの』と聞かれるが、家の保管庫には、食材が全くありません。1日1食が限界なんです。パンを買うお金もありません。働けないのです。子どもは小さく、畑仕事にも行かせられません。栄養失調で発達が遅れ、日なたでは働けないんです」

■「忘れられた内戦」民間人30万人以上が犠牲に

シリア内戦は12年間続いていて、余りの長さから「忘れられた内戦」といわれています。

内戦のきっかけは、2011年に始まった民主化運動「アラブの春」。住民を巻き込んだ自爆テロや戦闘が各地で起こり、命の危険が日々の暮らしのなかに忍び寄っていきます。アサド政権は、反体制派の拠点へ空爆を開始。街は燃え上がり、市民はどうすることもできません。民主化運動からわずか1年で、2万3000人が亡くなります。

その後、宗派の違いから戦闘は激しくなり、国は、みるみるうちに壊れていきます。故郷を捨て、国外へ逃げ出す難民が急増。2013年には一気に200万人を超え、シリア内戦の影響は、中東全体に広がります。

さらに、過激派組織「イスラム国」が台頭し、アサド政権、反体制派との三つ巴に発展。アメリカとロシアも一時、軍事介入し、これまでに民間人30万人以上が亡くなっています。

シリアは先月、内戦が始まってから12年ぶりにアサド政権としてアラブ連盟へ復帰が決定。ただ、民主化は定着しないまま、今も衝突が続き、難民の数は増える一方です。

■MIYAVIが「ずっと会いたかった」少年

MIYAVIさんが訪問したレバノンの避難所では、故郷シリアを全く知らない子どもが大勢います。避難所で唯一の楽しみは、サッカー。余りの熱中ぶりに、取り合ってけんかになることもありますが、MIYAVIさんには、前回の訪問で忘れられない出来事がありました。

7年前、MIYAVIさんにひときわ懐いていたのが、8人兄弟のウサマ君、当時11歳。

サッカーを楽しんだ後、子どもたちがけんかにならないよう、寄付のボールを、大人に渡そうとすると、ウサマ君が「友達とシェアするから任せて!」と、カタコトの英語で話しかけてきました。将来が見えない避難所での暮らし。「希望を忘れないで」と、ボールを手渡しました。

今回、再会を楽しみにしていましたが、ウサマ君は避難所を離れ、意外な場所で暮らしていました。

■ウサマ君と避難所の子どもたちを分けたもの

MIYAVIさんは、「ウサマは元気でやってる?」「ウサマに、ずっと会いたかったんだよ!」とスマートフォンの画面越しに、ウサマ君に話しかけます。

難民支援プログラムで、6年前にスウェーデンへ引っ越したウサマ君。今は18歳。もう立派な青年です。

MIYAVIさん「スウェーデンでは何語を使ってるの?」
ウサマ君「スウェーデン語、英語。これからスペイン語も勉強しようと」

MIYAVIさん「それは、すごい!そちらの暮らしはどう?」
ウサマ君「落ち着いています。勉強を始めました。看護師になるためです」

MIYAVIさん「髪型は相変わらずカッコいいね!彼女はいるの?」
ウサマ君「まだ、いません。いつかは、彼女をつくりたいです」

MIYAVIさん「好きな子はいるの?」
ウサマ君「いません!」

MIYAVIさん「本当に?」
ウサマ君「本当です!」

MIYAVIさん「いま、ベカー高原の避難所、ウサマがいたテントの前にいるんだ」

MIYAVIさんがスマートフォン越しに見せたウサマ君の新しい暮らしに、皆、興味津々です。

少年「ウサマ!元気ですか?僕のこと、分かりますか?」
ウサマ君「大きくなっちゃったからなぁ」
少年「弟のサッルーハとよく遊んでいた」
ウサマ君「あぁ!思い出したよ!」

少年「ウサマ、元気ですか?」
ウサマ君「ダウード!元気かい?」

少年「弟のサッルーハは元気?」
ウサマ君「おかげさまで全員、元気にやっているよ。君にも、神のご加護がありますように」

ウサマ君「君たちは色んな方法で勉強できる。決して諦めないで」
女の子「あなたの所へ、行きたいわ」

ウサマ君と、他の子どもたちとを分けたもの。それは、先進国を中心とした「第三国定住プログラム」です。ウサマ君のように、受け入れ国に溶け込み、働き手としても活躍する難民が多くいる一方、理解不足から選ばれる数は少なく、世界の難民の1%にすぎません。

MIYAVIさん「ウサマは、夢に向かって頑張っている。前だけを向いて生きていって欲しい。ウサマは、皆の希望なんだ。ウサマが頑張れば頑張るだけ、皆の希望になる。避難所から抜け出せて本当にうれしい」「これからも幸運を祈っている。いつか、また会おう」

(別記事『MIYAVIがシリア難民のもとへ「行く度に無力」それでも足を運ぶ理由 インタビュー』では、避難所から戻ったばかりのMIYAVIさんへのインタビューの模様を、動画やテキストでご覧になれます)

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