戦場を撮り続ける写真家・亀山亮(49)は、写真集の冒頭に詩を綴っている。
戻ってくることができなかった
忘れ去られた人々へ
今年の国連総会では、「パレスチナの国家承認」に注目が集まっている。9月22日には、G7として初めてイギリス、フランス、そしてカナダが「国家承認」を表明する予定だ。象徴的な意味合いが強いことを差し引いても、イスラエルの後ろ盾であるアメリカとの不協和音を承知で、同盟国が国家承認を表明する背景には、パレスチナの本当に切迫した状況がある。
2023年10月のハマスによる襲撃に端を発したイスラエルの反撃で、これまでにガザ地区では6万5千人以上が亡くなっている。攻撃前の人口は約220万人で、空爆などで3%が殺されたことになる。物資は意図的に止められ、「天井のない監獄」では深刻な飢餓も広がっている。
人が人を殺す戦争の、現実とは何なのか。私たちはいま、どんな時代を生きているのか。世界各地の戦争を25年撮影し、パレスチナで銃撃され左目の視力を失った、写真家・亀山亮に話を聞いた。
(テレビ朝日ロサンゼルス支局・力石大輔)
住民が石で抵抗…24年前のパレスチナ原風景
―亀山さんが初めてパレスチナに入ったのは、2000年。当時の状況は?
イスラエルとパレスチナの共存を目指す、オスロ合意(1993年)から少し時間が経っていたけど、2000年の交渉が上手くいかなくて、石投げが始まっていた時期。第二次インティファーダ(民衆蜂起)といわれている。
パレスチナ自治区に入った時の、タイヤの焼き焦げた匂いをよく覚えてる。入植地との境界線に、イスラエル軍の戦車が来る。パレスチナの住民が自然発生的に、石を投げて抵抗する。子どもが多い、学校が終わってからとか。抵抗の意思表示をするためにやっていて、他の表現手段がないから。仕事もないし、家も壊されて、家族も殺されて。特に若い子たちはどんどんどんどん前に出て、石を投げる。未来に希望を持てないということだったんだよ。
当時のパレスチナ自治区には、色んなグループがあって、主流派のファタハ、イスラムジハード、ハマス。当時はまだ、こうしたグループも民衆に寄り添う形で、インティファーダを主導している感じだった。
病院についてきてくれたタクシーの「おっちゃん」
―なぜパレスチナを撮影しようと?
当時は駆け出しの24歳で、そこまで深くは考えていなかったけど、子どもが戦車に石を投げるニュース映像を見て「なんでそうなるんだろう」というのがあった。
エルサレムの近くに、ラマラという大きなパレスチナ自治区があるんだけど、当時は毎日衝突があった。手持ちの金は数百ドルしかなくて、あんまり滞在できない。カメラを持ってブラブラしていたら、パレスチナ人のタクシーのおっちゃん運転手が「お前はどこに行きたいんだ?」って聞いて来て、「ドンパチしてるところだよ」っていったら、おっちゃんが連れて行ってくれて。焦っちゃって早め早めに動いて、それで撮影初日に撃たれちゃった。
当たったのはゴム弾だったんだけど、左目の上の額に当たって、すぐひっくりかえって。救急車に引きずりこまれて病院に連れていかれた。タクシーのおっちゃんには「金かかるから待たなくていい」って言ってたんだけど、待っててくれて。救急車と一緒についてきてくれた。
僕はいつも近くから撮る習性があって。パレスチナの人たちの近くで外国人が撮っていたから、イスラエル側に狙われたのかもしれない。若いし、どんどん前に出すぎちゃったというのもある。神経が切れちゃって今も見えないけど、幸い生きていたし。その後には、AP通信の若い女の子のカメラマンが実弾で腰を撃たれて、もっと大変な状況だった。僕はそういう意味ではラッキーだった。
いまはできないけど、当時はパレスチナ自治区とイスラエル領を行き来ができたから、日本政府の人がニュースで聞きつけて、空港まで送ってくれたんだよね。ジープで来てさ。病院にいる時も、近くで衝突があったから本能的に撮影に出ようとしたら、医者に「もう片目も失いたいのか」と怒鳴られてね。急に片目が見えなくなったから、上手く歩けないし、ピントも合わないし、その時はそれ以上撮るのは難しくなった。
保険金でパレスチナを往復 撮影再開
―撮影できずに日本に帰った?
そう。まだ9.11の前で、冷戦後の世界がぼんやりとした時期で、戦争がほとんどなかった。俺が撃たれた時も、外務省が危険地域に指定する前だったから、たまたま親父が入っていたクレジットカードの保険が2000万円ほど下りた。もうバイトもしなくていい、雑誌に写真を売らなくてもいい。それで馬鹿みたいにパレスチナと日本を行き来して、撮影を再開した。
そしたら最初にパレスチナに行った時に出会ったタクシーのおじさんと、偶然道で再会して。「お前が撃たれたことがテレビでニュースになって、奥さんに『右も左も分からない日本の若い子を連れて行って』とめちゃくちゃ怒られたよ。どこに行きたいんだ?今日はタダで乗せてやるぜ」って。タダで乗せてもらったんだ。ハハハ。
「日本赤軍、最高!」肉体で知るパレスチナ
―お金が入ったとはいえ、なぜパレスチナに戻った?恐怖心は?
やっぱり撮影初日に、何の状況も分からないまま帰ってしまったのが、やっぱりすごい悔しくて。現場を見て、何かとてつもない事が起こっているなというのは、皮膚感として分かったから、それを理解したいと思った。「とりあえずは見に行こう」っていうのから始まったから。どうだろうな…恐怖は当然あるけど、カメラマンとしてやりたいこと、決意が、僕は見つかるのが早かったから。改めてものすごく決意して、パレスチナへ戻ったって感じではなかったかもね。
―カメラマンとしての決意とは?
それまで中南米でも撮っていたけど、自分の中で納得出来てなかった。写真的にも。やっぱり肉体的に充足感が欲しいというか、身体的にね。こういうことって、頭で考えても意味ないでしょ。自分の肉体で他の国に行って、一緒に飯食って寝てという作業をしないと、他者の本当の所は分からない。それが俺の決意。
パレスチナの人が「ハマス最高!ヒズボラ最高!」って言っても、俺には「過激派テロ組織でしょ」って染み付いているからね、報道でね。なんで「人を殺すテロリストが最高」なんだって、ちょっと分からないし。
でも、日本からしたらテロリストのイメージしかないけど、パレスチナでは「日本赤軍、最高!」って褒められてね。彼らの皮膚感からすると、「日本人がきて、俺たちを殺すイスラエルと戦って死んでくれた」ってなる。「アメリカに広島・長崎へ原爆を落とされても再興した、他とは違う国」とも言われたし。こういうのは、行かないと分からない。そういうのを撮りたい。
―自分の肉体を通して知ったパレスチナは?
ニュースを見て得た感覚と、現地で実際に見た風景とは全く違ったから、逆転したよね。すごく親パレスチナになっちゃったっていうか、僕は。それまでは、パレスチナ人=テロリストみたいな。覆面してマシンガン持ってっていうイメージだったけど、ある意味、他者に対して受け入れる幅は広いと思った。何度も「お茶飲んでいきなさい」と家に上がらせてもらったし。
助けて貰ったこともある。そうだナブルスだ、ナブルス。そうそう、これも西岸地区で、撮ってたら「戦車が来たぞ」って言われて。角を曲がった瞬間に戦車が俺の前に出てきて、ビックリして両手を挙げて。そしたら俺の方に、戦車砲がビーッって向けてきてさ。カメラ持ったまま「撃たないでくれ、撃たないでくれ!」って言いながら後ずさりしたら、パレスチナのおじさんが「ウチの家に入れ」と言って、避難させてくれたの。おじさんが外の様子を鉄板のドア越しに見てたら、イスラエルのスナイパーに足を撃たれたんだ。外国人を中に入れたからだよね。
俺はカメラのストラップを切って、おじさんの足に巻いて。お母さんとか娘は、半狂乱になっちゃって。何とか救急車を呼んでね。そんな状況だから、俺も外に出たくなかったんだけど、家族の人たちからは「こいつがいたら、また何かされるんじゃないか」っていう目線を、メッチャ向けられてさ。確かにと思って、意を決して外に出て、ダダダダダって走って目抜き通りまで逃げてね。電話番号を聞いてたから、後でおじさんに掛けたら「大丈夫だよ。仕方ないよ」って言われて一安心した。
でも、めちゃくちゃだよな。普通、自分の家で外を見てて撃たれるなんて、ありえないよな。そもそも、彼らはほとんど難民だから。元々、住んでいた所をイスラエルの入植で追い出されて、そこに逃げてる訳だから、もうそれ以上の行き場所はない。
人間は「環境や状況で変わりやすい生きもの」
―パレスチナを撮影して何を感じた?
「生まれる所は選べない」ということだと思う。移動の自由があって、好きなことを喋れて、それって自分で選べる訳じゃないじゃん。これって「なんで人間が生まれたのか、なんで死ぬのか」と同じくらい延々と答えが出ない点だから、深く考えてもしょうがないんだけど。
ちょうど同じ頃に、僕の親父が自殺しちゃって。普通のサラリーマンだったんだけどね。日本は物があって、生きていける。でも社会的な役割を失うと、死んでしまう訳じゃん。ちょうど年間2〜3万人が日本で自殺している時期だった。パレスチナでは生きたいと思って死んでしまう人もいる。一方で、物が溢れて生命としては生きていける状況が整っているのに、日本では死ななきゃいけない人もいるというのが、すごく皮肉だと思って。でも、究極的な状況に身を置けば、人は自殺しないと思う。生理的な反応として。だから人間って環境とか状況によって変わりやすい生き物だよ。
そういう意味では持ってるものとか、いま生きている瞬間とか、幻というか、幻想に過ぎないんだなとも、ちょっと思って。お金とか社会的な地位とかを求めて、それを失うと「生きている意味がない」とかって絶望する人がいるけど、それって幻想だなと。ある種ファンタジーの中で生きているんじゃないか。
パレスチナでの撮影、親父の自殺を経て、僕は写真に対して狂信的になったというか、あんまりお金のために写真を売りたくないというかさ。そういう風になっていった。
「報道や写真に人を変える能力はない。それは驕り」
―いま、ガザ地区への攻撃が激しくなっている。
最後パレスチナへ行ったのは2003年。もう22年が経った。ニュースで見るしかないけど、やっぱり一緒に動いてくれた、タクシーのおっちゃんとか、どうしてんのかなぁって思うよなぁ。本当に。みんなどうしたのかなって、すごく思う。当時はSNSもなくて携帯しかなかったから、いまの連絡先は知らないし。みんな家族が多いから、誰かしらは、死んじゃってるよね…。
先進国では、暴力のタガが既に外れている。トランプは、「ガザにリゾートを作ろう」って言ってる。支援を人為的に止めて飢餓にして、空爆している場所に。子どもとか、いっぱい人が死んでるんだよ。冗談でも昔だったら、激しい批判を浴びたじゃん。いま全然平気だもんね。狂ってるよね。メディアも牙を抜かれちゃったよね。昔の戦争中みたいになっているよね。受け手側も、自分の信じたい情報だけを信じる、不感症になっちゃったよね。
―写真や優れた報道は、人の意識を変えられるか?
変わんないと思う。知ることは出来るかもしれないけど、変えるほどの能力は何もないよね。写真にもないと思う。それは驕りだと思う。よくいるじゃん、そういう人。超最悪だよ、驕りもいいとこだよ。
―失明までして戦争を近くで撮って、「少しは伝わるのでは」と期待しない?
そういうの、全くないの。自分が満足する、完璧に自分のエゴだからさ、こんなの。いまのガザみたいに、ブルドーザーで街ごと全部破壊されたのが、当時のジェニン難民キャンプだった。月1回のペースで、2年くらい通って写真を撮って。でもパレスチナの写真は売れない。それで良いと思った。戦争の写真を撮って、大手メディアに高値で売ることも戦争ビジネスに巻き込まれていくことになる。すごく嫌で、反発があった。自分はフリーランスで発表媒体もないから、時間を掛けてちゃんと撮ろうと。
写真ってもしかしたら、時間とか場所とか関係ないのかもね。感覚的な問題だから。何かどっかに突き刺さるのが、良い写真なんだとは思うけど。まだよく分からない。俺はもうすぐ50歳になる。これしか出来ないから、写真を撮るしかない。ずいぶん、自分も保守的になったと思う。ガザを見てると、もう二度と入れない気もする。だけど、パレスチナは思い出の地だから、最後にそれで締めてもいいのかもな、俺の人生。カメラマン人生。
戦争の共通点「権力者は死なない」
―世界中で撮影し、戦争に共通している点は?
社会的な役割とか、大義とか義務とかを与えられると、人は逃れられなくなる。教育や移動の自由がなくなる。経済的に貧しい人が、戦争の構造に引きずり込まれていく。命令する為政者や武装組織のリーダーは最後まで生き残って、絶対に死なない。貧しい人とか、弱者が一番初めに戦争の犠牲者になる。これは、どの戦争でも一緒だった。
パレスチナの人は、自立して国家を持つことは不可能だと、もう悟っていると思う。イスラエルの人と共存するしかないと、わかっていると思う。国家に問題はあるけど、住んでいる人とは区別して考えている人が多いと思う。仕方がないというか、隣人なわけだから、どんな嫌でも一緒に住まなきゃいけないから。いまは、パレスチナの人が殺されて、殺されて、殺されて、殺されまくっている訳じゃん。それよりはベターな生活を、自分たちの孫の世代に向けて、考えていると思う。
ただ感情は別だから。「家族を殺した隣人と暮らせるか」と言われたら、分かんないよね。自分もそうならないと、説明できないよね。それが戦争の嫌な所だよね。戦争という状況に巻き込まれたら、加害者も被害者も逃れられない。永遠のテーマですよ、戦争はね。そして残念なことに、これから戦争は増えると思う。
―戦争になると人間が発する空気感、匂いとは?
まず貧しさから、社会に余裕がなくなる。ギスギスして、他者へ無関心になっていく。終戦直後を除けば、日本は戦後最も疲弊していると思う。お米が高くて買えないとか、なかったよね。学校に行きたくても行けない、給食費が払えないとかね。そうなると、弱い人が弱い人を差別する流れになってしまう。政治か何かをキッカケに、イワシの大群のように、何も考えないで同じ方向に流れてしまう可能性が高い。
いま困っている人、貧しい人は、よく知った方がいい。戦争を撮り続けて、戦場を見続けて感じたのは、ずるい金持ちの方が圧倒的に多いということ。貧しい人は、人の苦しみが分かるから、自分が困っていても、持っているものを半分あげちゃう。体験しないと、共感性は生まれないんだと思う。だから、戦場でも人を助けて先に死んじゃう。撮影現場で俺を助けてくれた人は、貧しい人たちばっかりだった。だけど貧しい人は、苦しいからこそ扇動されやすい。すぐ戦争の仕組みに、組み込まれる。いつの間にか、加害者にもなってる。仮想の敵をつくれば、人はまとまってしまうけど、その役回りはいつか、外国人ではなく自国の貧しい人に向けられる。それは、あなただ。そこだけは、知っておいてほしい。
写真家・亀山亮の略年表
1996年 メキシコのゲリラ組織の支配地域で撮影
2000年 パレスチナに初めて入り左目を失明
2001年 失明の保険金でパレスチナを何度も撮影
2002年 写真集「PALESTINE INTIFADA」出版
2003年 アフリカ各地の戦争を撮影開始
2013年 写真集「AFRIKA WAR JORNAL」で第32回土門拳賞
現在は八丈島で暮らし、撮影の旅を続ける。
【インタビュー後記】
世の中が、亀山さんだらけだと困るが、世の中には、亀山さんがいないといけないと思っている。
出会いは2021年、緊急事態宣言が出されていた東京・中野で、麻薬カルテル戦争を追った写真展だった。ロサンゼルスに赴任する直前で、メキシコの話を聞きたかった。展示が終わる前に、既にハイボールの缶は開いていた。
翌2022年、メキシコシティで再会した。亀山さんはカルテル支配地域に入るため、交渉を続けていたが、難航しているようだった。自分が知人の家に居候しているくせに、当たり前のように僕も上がらせてくれた。ティファナへ来た時には、一緒に移民キャンプも回った。お金を浮かすために、ラブホテルにひとり泊まっていた。
最後に会ったのは2023年、メキシコから日本へ戻る道中、ロサンゼルスを経由するため、家に泊まってもらった。部屋を案内もしていないのに、勝手に布団を敷き、本棚を物色し「大体わかった」と言って、ビールを飲み始めた。翌朝起きると、残ったカレーを勝手に食べていた。山羊のお乳で作ったチーズが、何のアナウンスもなく冷蔵庫にお土産として残されていた。それをポリポリ食べながら、「僕は戦場を撮れないな」と呟いた。だからこそ「亀山さんの近くにはいよう」と思った。
パレスチナについて何か伝えたいと思い、2年ぶりにZoomで4時間話して、この記事をまとめた。途中で、アメリカの保守活動家、チャーリー・カーク氏が暗殺された。アメリカでは、左派と右派の間で事件をどう解釈するかでも分断が生まれている。日本でも同じ空気に包まれているのではないか。
右翼からすると亀山さんはド左翼だが、暴力性はなく愛嬌に溢れている。受け取り方は、人それぞれ。「自己責任なのに日本政府に迷惑を掛けて」という人もいるかもしれない。ただ、亀山さんの写真と言葉から、読んでくれた方に、何かが伝わると嬉しい。
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力石大輔
2010年、テレビ朝日に入社し、報道カメラマンに配属。2011年、カイロ支局カメラマンとして「アラブの春」を撮影。2013年、社会部記者として凶悪事件・街ネタを取材。2019年、平成と歌舞伎町を描くドキュメンタリー「平成サヨナラ歌舞伎町 消えたヤクザとホームレス」を発表。2021年からロサンゼルス支局に赴任し移民問題などを取材。