羽生九段「勝率94%」で投了のワケ 将棋AIの功罪[2021/01/16 11:00]

2020年のクリスマス。豊島(とよしま)将之竜王と羽生善治九段という黄金カードで、その“事件”は起きた。

対局の中継画面上に表示されるAIの「勝率」(どちらがどれだけ優勢かをパーセンテージで示したもの)で94%という圧倒的な優勢を築いていたはずの羽生九段が、突然、投了(負けを認める)したのだ。

AIがほぼ勝ちだと判断しているのに、対局者本人は負けだと認識していた…
実はこれほど極端ではないものの、AIと、人間の棋士の“形勢判断”が大きく食い違うケースが増えているという。

藤井二冠の「AI超え」が新語・流行語大賞にノミネートされるなど、いまや将棋観戦に欠かせない存在となった将棋AI。
進化を続ける、その将棋AIが抱えるジレンマと、解決の秘策について関係者に話を聞いた。

■ 「パンドラの箱」を開けてしまった!?

「負けました…」
羽生九段が頭を下げた瞬間、中継画面のコメント欄は、驚きと戸惑いの言葉で埋め尽くされた。
「え?」「どうして?」「何が起きた?」

時刻は既に24時を回り、日付は12月26日に変わっている。
渡辺明名人への挑戦者を決めるA級順位戦の6回戦、豊島竜王と羽生九段の対局は、形勢が二転三転する死闘となっていた。

対局を中継する「ABEMA将棋チャンネル」の画面上部に表示される、「SHOGI AI」の「勝率」によれば、まずは豊島竜王が優勢を拡大したが、羽生九段の勝負手をきっかけに形勢が逆転。
その後も数値は揺れ動き、127手目では豊島竜王の「勝率」が94%に達していた。

ところが続く128手目、豊島竜王の指した手でAIの表示は再び羽生九段側に大きく振れる。
それが問題の局面だった。

ABEMA将棋チャンネルが運用する「SHOGI AI」の開発責任者、藤崎智(さとし)氏はハラハラしながら最後の場面を見守っていた。

「あの対局では、直前まで『勝率』が行ったり来たりしてたんですよね。なのでコメント欄でも『AIが壊れてるんじゃないか』とすごく書かれてまして。そうしたらまさかの、羽生先生が投了で…」

藤崎氏によれば「勝率」が90%以上というのは、すぐに詰むわけではないものの、圧倒的に有利であることは間違いない状況だという。
AIがそれだけの数値を示した側の棋士が投了するという経験は、これまでにないことだった。

「ヤバい、これはパンドラの箱、開けちゃったんじゃないのか、と」

YouTubeチャンネル「囲碁将棋TVー朝日新聞社ー」が配信する、終局後の感想戦の映像を見ると、投了時の「勝率」が90%超だったことを知らされた羽生九段は、「そうなんですか!?」と大きな声を挙げている。
あまりに意外だったためか、さらに続けて3回も「そうなんですか」と繰り返しているのだ。

「対局後に指摘されて大変に驚きました。」
私たちの取材に対しても、そう答えた羽生九段。

いったい何が起きていたのか?

■ AIが見つけた勝利への「細い道」

羽生九段の「勝率」を94%と示した「SHOGI AI」は同時に、数手先までの「最善手」も提示していた。
後の検討でも、その手順であれば先手が勝てそうだと確認された。

「ものすごく細い勝利への道を1本、見つけちゃったんですね、AIが。例えば5億手読んで1通りだけ勝利の道があるという時でも94%、出ちゃうんですよね…」(ABEMA藤崎氏)

コンピュータ将棋に詳しい西尾明七段は、AIが示した手順についてこう話す。

「確かにすごく細い道筋ではあるんですけど、その細い道を渡れば勝ちなんですよって見せられると、ああなるほど、と一応納得はできる形ではありますね」

そのうえで棋士の心理面から、こう推測する。

「唯一存在する勝ち筋が見えないと、棋士としてはどうしても負けに見えてしまい、投了してしまったということはあり得るかと思います。
『あ、これもう負けになったんじゃないか』とか、いったんそういった感情が芽生えてくると、そっちのほうに流れて行ってしまい、その先のところを読み切れなかったところがあるんじゃないでしょうか」

対局者の置かれた過酷な状況も影響したのではないかという。
既に対局開始から14時間以上が経ち、一手を1分以内に指さねばならない“1分将棋”となっていた。

「それはもう、すごく影響しています。朝から戦っていて、深夜ですので、かなり体力的にも疲労が来てる中で、振り絞って指してるところなので…」(西尾七段)

だがAIは疲れない。1分将棋であることも考慮しない。
自身が数秒で見つけた道筋をもとに、はじき出した「勝率」が94%という数字だった。

■ 藤井二冠のすごさをAIが“可視化”した

去年1月、本格的に運用が始まった「SHOGI AI」は、対局中継の画面上部に、その時点でのそれぞれの棋士が勝つ確率を「勝率ウインドウ」で表示する。
AIの形勢判断を〇%対〇%というパーセンテージで示したアイデアが画期的で、他の将棋中継も追随し、いまや形勢表示の標準形となっている。

さらに画面右側には次に指す手の「候補手」が、“Best(最善手)”“2(番目)”など推奨順に最大5手まで表示される。
候補手の右側には、最善手を指さなかった場合に「勝率」がどれだけ下がるかという数値も示されている。

この「SHOGI AI」が劇的な効果を発揮したのが、藤井聡太二冠初のタイトル戦となった去年6月の棋聖戦第1局だった。

最終盤、「勝率」80%以上という優位を築いた藤井二冠。
だが相手の渡辺明名人(当時は棋聖位含む三冠)も反撃し、藤井二冠の王将に16手連続という怒涛の王手ラッシュをかける。

この連続王手の間、「SHOGI AI」は観戦者が痺れるような選択肢を示し続ける。
最善手を指せば藤井二冠の勝ち、2番手以下の手だと「勝率」が逆転し渡辺名人の勝ちだという、正に「天国か地獄か」の状況を数値で表現したのだ。

結局、藤井二冠はAIの示す最善手を指し続け、渡辺名人の攻めをかわし切った。
藤井二冠の強さを示した戦いだったのと同時に、将棋観戦にAIが無くてはならないことを知らしめた1局だった。

「AIがないと多分、普通に王手を回避して勝ちました、くらいにしかなってないと思うんですよね。
何が起きたか、これまで素人にはわからなかったことが、AIができたことによって可視化されて誰もがすごいことを認識できるようになった。それが新たな将棋ブームにもつながったと思います」(ABEMA藤崎氏)

一方で、豊島竜王・羽生九段戦のように、AIの形勢判断と対局している棋士の判断とが乖離するケースも出てきている。

果たして棋士たちはどう考えているのだろうか。

■ 「評価値ディストピア」に監視されている…

「基本的には現在、人間とAIの差というのはかなり大きいものになっています。なのでAIが示す形勢判断も、ある程度信ぴょう性のあるものとして捉えています」

西尾明七段は将棋AIについて、その能力を認めざるを得ないとしたうえで、こんな本音を漏らした。

「例えば自分が1時間長考して、全然思いつきもしなかった手について、こうすれば優勢だったとかAIに言われると、『いやあ、そんなの指せないよ』って言いたくなるんですよ(笑)」

将棋がさほど強くないが、見るのは好きという「観る将」にとって、将棋AIはもはや必須のツールだ。
だが最近はAIの示す「候補手」が、とかく絶対視され、棋士が違う手を指すとコメント欄で厳しい声が飛ぶこともある。

名人3期の実績を持つ佐藤天彦(あまひこ)九段は、こうしたAIの判断が絶対視される現実を「“評価値ディストピア(暗黒郷)”に監視されている」と表現し、話題となった。

西尾七段も、この指摘には共感できるという。

「これはこっちがプラス何点です、みたいに(AIから)示されて、でも実際に勝つまでにはまだまだ山あり谷ありだったりするような局面でも、そこで評価値的にミスをして負けてしまうと『西尾が大逆転負けした』みたいな書かれ方をしてしまう…
いや実際はそうじゃないんですよって。違和感を感じている棋士は少なからずいるんじゃないでしょうか」

「SHOGI AI」開発責任者の藤崎氏もこの問題には心を痛めている。

「棋士の方が“ベスト”以外の手を指すと『悪手来た!』とか『もうだめだ』とか言われてしまうことが結構あって…。そこを何とかしたいというのが僕の中にもずっとありました」

■ 「神にしか指せない手」を表示したい

「SHOGI AI」自体の改良は常に続いている。去年12月には、判断の精度やスピードをアップさせる「SHOGI AI2020バージョンアップ」が発表された。

「今は1秒間に1千万手ぐらい考えてるんですけども、(それでも結構早いんですけども)それが4千万手くらい考えるようになるんですよ。つまり4倍くらい早いんですよね。これを導入することによって精度が非常に上がっていくのは間違いない」

ただ、こうしたAIの“進化”はジレンマを伴っている。

「精度を上げ過ぎると人間と乖離しちゃうんですよね、判断の結果が。このままAIをどんどんブラッシュアップしていくと、どんどん人間が指す手と違う手に行っちゃう」

そこで藤崎氏が今、構想している驚きの秘策がある。
AIが示す候補手を段階分けし、「人間が指し得る手」と「人間が指せなくても仕方がない手」を表示するというのだ。

「候補手のパーセントのところに『人』とか『神』とか入れようかと。
これが果たして人が指せるのか、『神』しか指せないのかを見えるようにすれば、例えば『人』と表示されれば視聴者の方も、人にはこれしか指せないのだろう、それで(『勝率』が)マイナス20%になってもしょうがないよね、ここは難しい局面なんだね、というのをわかってくれる。
例えば6億手分、考えないと出てこないような手を『神』って表示すれば、『あ、神様の手を指したということはこの人やっぱりすごいんだ』となる」

では、「人が指せる手」「指せない手」というのをどう定義づけ、どう判断するのか?

「実は羽生先生に『先生的にどう思われますか』と雑談レベルで聞いてみたら、『人が指せる』という判断は誰がやるんですか?と聞かれまして。
『そこはAIがやろうと思ってます』と答えると『なるほど、そこをAIがやるんですか。うーん、なるほど』って言われたんですよね(笑)。
まあそうですよね、人が指せるかどうかをAIが判断するのは矛盾しているところがあるんですけども」

■ “隣のおじいちゃん”のようなAIに

藤崎氏が目指すのは、より“人間味”のあるAI、観戦者の良きアシスタントとしての「SHOGI AI」だ。

「家で将棋をやってたら隣のおじいちゃんとかが来て、『それはこうだからこうしたほうがいいよ』とか『これは人には指せないなあ』とか教えてくれるようなイメージ。そうなれば、もっと面白く将棋が見られると思うんですよねえ」

1月16日からは持ち時間の比較的短い、朝日杯将棋オープン戦の本戦トーナメントが始まる。
3度目の優勝を目指す藤井聡太二冠も17日に登場する。

ABEMAの対局中継では、いまだ進化の途上にある「SHOGI AI」が、現時点での能力をフル稼働させて熱戦を盛り上げてくれるはずだ。

AI時代の将棋観戦の楽しみ方について、西尾七段は最後にこう話してくれた。

「AIと人間との間を埋める部分をAI自身がある程度担って、人間に教えてくれるという形は非常に面白いことかなと考えています。
将棋の難しい局面というのは本当に『謎解き』みたいなものです。いろんな理屈が落ちている中で、棋士とAIが共存することでそれらをかいつまんで、『謎解き』の面白さをうまく伝えていくことができれば非常に良いかなと思っています」

テレビ朝日報道局 佐々木 毅

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