失語症・右半身まひ乗り越え舞台へ 「奇跡は起きる」歌舞伎役者・中村福助の闘い[2021/03/13 11:00]

脳出血で生命の危機に瀕し、生還後も右半身のまひや「失語症」など重い後遺症と闘いながら、奇跡的に舞台への復帰を果たした歌舞伎役者がいる。

九代目中村福助、60歳。女方(おんながた・女の役を演じる男の役者)の人気役者として活躍し、2014年の春には「中村歌右衛門(うたえもん)」を襲名することが決まっていた。大病により、その襲名は持ち越しとなった。それでも2018年の復帰以降、福助は舞台出演を重ね、コロナ禍の中で行われた21年9月の歌舞伎座公演では、後遺症を感じさせないセリフ回しで大喝采を浴びた。父の厳しいリハビリに寄り添った息子・中村児太郎(こたろう)が、復帰までの道のりと、家族としての思いを語った。(敬称略)

■「中村歌右衛門」襲名直前に襲った病

大きな拍手とともに幕が開くと、舞台の真ん中、茶店の縁台に女性が座っている。福助が演じる「常磐津文字福(ときわずもじふく)」だ。

2021年9月の歌舞伎座、人気演目の「お江戸みやげ」。店の女中が文字福に尋ねる。
「お師匠さん、きょうはどちらにお出でなされたんですか?」
「父(とと)さまと叔父さまの、お参りに…」
墓参りに訪れたことを伝える滑らかなセリフから、言葉の障害はほとんど感じられない。

女中が「お師匠さんのお元気なご様子を拝見して嬉しゅうございます」と続けると、観客席から大きな拍手が沸きあがる。全体のストーリーとは関係のないやり取りだが、出演者と観客の心がひとつになる、温かい瞬間である。
 
女方の名門、成駒屋(なりこまや)に生まれ、若いころから数々の大役をこなしてきた福助。2013年、歌舞伎界でも特に重要な名前で「女方の大名跡(だいみょうせき)」と言われる「中村歌右衛門」を襲名することが決まる。

だが、役者人生最高の時を前に病は突然襲ってきた…

息子で、同じく女方の役者である児太郎が言う。
「父もあの瞬間に死ぬ運命もあったと思うんですよね。『生きるか死ぬか』って言われましたから。過去をがんばって乗り越えたから今があると思うんです」(児太郎)

「生きるか死ぬか」。
異変が起きたのは2013年の11月12日だった。

■“テニスボールくらい”の出血が…

「自宅マンションの前に着いたとき、夫が『頭が痛い』と言って座席に倒れ込んでしまったんです。車から降りない、正確には降りられない様子で、これはただならぬことだと思いました」

歌舞伎座での出演を終え、妻・中村香璃(かおり)の運転する車で自宅に着いたところで、福助は動けなくなった。香璃はそのまま近所にある東邦大学医療センター大橋病院に福助を運ぶ。

「病院に着いた時、夫はぐったりしていましたが、『お名前は?』と聞かれて自分の名前をちゃんと答えていました。そのあと、処置室に連れて行かれました」

香璃から連絡を受け児太郎は病院に駆けつけた。その時点での医師の説明は「軽度の脳出血」。ところが…

「先生が急にバタバタし始めて、どうしたんですかって聞いたら『意識状態が悪くなったからもう一度CTを撮ります』と。CTを撮ったらさっきの3倍くらいの出血をしていて、画像を見たら素人でもわかるわけですよ。出血部分がテニスボールくらいあるんです」(児太郎)

香璃と児太郎は、福助が翌春に「歌右衛門」を襲名する予定であることを医師に伝えた。

「3月に襲名がある、と言ったら、医師からは、『今のお父様の状況から単刀直入に言うと生きるか死ぬか、良くて車いすだと思っていただきたい』って言われて、マジかと。あの時はあまりに想像を絶する言葉が来すぎて、良くわからない感情でしたね」
 
当時、児太郎は19歳。緊急手術が成功し、命の危険は乗り越えた。だが歌舞伎役者・福助と家族の試練はさらに続くのである。

■医師を後押しした妻の言葉

手術の1週間後、福助はリハビリのため、東京・港区の慈恵大学病院に転院した。リハビリテーション医学講座主任教授の安保(あぼ)雅博の手元に、当時の脳の状態を写したMRI画像がある。左脳で手や足を動かす命令を出す「運動野(うんどうや)」の辺りが真っ白になっている。大規模な出血の跡だ。

「脳出血の中でも巨大な脳出血です。それが右半身の片まひを引き起こした典型的な例ですね」

半年後の画像も衝撃的だ。当初は真っ白だった部分がぽっかりと開いた穴のように黒くなっている。脳細胞が欠落してしまったのだ。その部分は二度と元通りになることはないという。

画像だけ見れば悲観的な状況… だが安保は、福助の回復に光明を見出していた。
「実際に福助さんを見ると、体幹がすごくしっかりしているんですよ、普通の人よりも。これはうまく訓練すれば、いいところまでいけるかもしれない」

“女形”としての美しさを追求する中で鍛えられた体幹。安保は長年の経験から「いける」と確信した。

妻・香璃から言われた言葉も後押しになった。
「奥さんが、(夫は)絶対に舞台に戻りますからと言うんですよ、僕に。なのでこちらは、わかりました、やれることは全部やりますからと」

勝負は最初の1か月半。
「特に最初の1か月半はものすごく大事なので、その期間はできるだけのリハビリをやったつもりです。もうこれ以上のことはできないというくらい、やりました」

■“言葉を失った”福助が口にした思い

「はー、き… はき?」
リハビリ開始から半年余りが経った慈恵大学病院の病室。福助の言語訓練が行われている。机の上に置かれているのは漢字で「箸」と書かれたカード。福助がその文字を懸命に発声しようとするのだが、どうしても「はし」と言えない。「巨大な脳出血」が引き起こしたもうひとつの後遺症が、この「失語症」だ。

出血は、左脳にある言語野にも損傷を与え、特に言葉を発する役目を担う「ブローカ野(や)」とその周辺組織に大きなダメージが残った。これにより、聞いた言葉はある程度理解できても、話すことはうまくできないという「ブローカ失語」が起きている。

右半身のまひと失語症…重い後遺症からの回復を図るため、安保が当初から試みたのが「反復性経頭蓋(けいずがい)磁気刺激療法」という治療法だった。

障害を受けた脳に対し、コイルを使って頭の外側から磁気刺激し、機能を活発にする。その後にリハビリ訓練を行うことで、訓練の効果をより高めることができたという。脳の一部は欠落してしまったが、それ以外の部分でその機能を肩代わりする。

医師たちによる決して諦めることのない努力が福助の回復を支えていた。
「家族がお願いしますと言って先生たちが、無理ですよとかやめましょうとか言うことはなかったですね。先生たちが全くあきらめなかったから、こちらもじゃあ一緒に頑張らせてください、と」(児太郎)

福助自身の復帰への思いも強かった。胸の内を表すこともままならず、もどかしい表情をすることも度々あったが、ある時、左のこぶしを握り締めながらはっきりと口にした言葉。

「とにかくもう一回、もう一回、歌舞伎やりたい」

心から歌舞伎を愛する男の、叫びだった。

■「奇跡は起こせると信じている」

リハビリを始めて2年が経った2015年12月のインタビューで安保は、「舞台に復帰できたら、それは奇跡に近い」と話している。そのうえで、こう断言したのだった。「奇跡は起こせると信じています」
 
そして2018年9月、本当にそれは起きた。幼少から慣れ親しんだ歌舞伎座の舞台。人気演目「金閣寺」の慶寿院尼(けいじゅいんに)役で、福助は4年10カ月ぶりの復帰を果たしたのである。舞台に組まれた金閣寺の御簾(みす)が上がって福助の姿が現れると、割れんばかりの拍手が場内を包み込んだ。涙をぬぐう観客もいる。

「何、春永(はるなが)が迎いとや〜」

往年と変わらぬ声音でひと言ひと言、しっかりと口にする姿に、再び拍手が沸く。その様子を客席から観た安保は心から驚いたという。

「びしっと座って、すごく滑らかにしゃべっていたし間違わないし、すごいなーと。リハビリやって良かったな、頑張ってやって良かったなと思いましたね。それと…『もうちょっと良くなってもらおうかな』と(笑)」
 
■児太郎が同じ境遇の人たちに伝えたいこと

「奇跡の復帰」から1年半。順調に舞台出演を重ねていた福助をコロナ禍が襲う。歌舞伎公演は中止が相次ぎ、福助自身も1年8カ月の間、歌舞伎座への出演が途絶えた。

久しぶりの登場となった2021年9月の「お江戸みやげ」。舞台上には、ブランクを取り戻そうとするように熱演を披露する福助の姿があった。復帰して以来、最も多くのセリフを発し、最も長い距離を歩く。
 
息子・児太郎が感じたこと。
「(復帰以降で)一番楽しそう、面白そうにやってます。病気になる前の父ってこういう雰囲気で芝居してたな、しゃべってたな、という感じになってきましたね」

そしてこう付け加えた。
「襲名というものに対して、父の熱量がだんだん上がってきていると感じます」

長く厳しいリハビリの日々。家族としてそれを支えた児太郎には、同じような境遇の人たちに伝えたいことがある。「『やってもダメだ』って父も言っていました。『やってもダメ』…でもやり続けたから歩いて踊れるようになる。少しずつしゃべれる、手が動くようになる。やめなかったから今があると思うんですよね。やめたらおしまいなんです。同じような病気で苦しんでいる方、リハビリが大変な方、あるいは違う病気で苦しんでいる方たちにも、奇跡は起こるかもしれないということを伝えられればいいなという気持ちです」

児太郎自身、父が不在の間に女方として大きく成長、“大役”とされる役を何度もつとめるまでになった。中村福助と児太郎… 夢をあきらめない親子は、これからも共に歩んでいく。

「多分父にはまだまだできないことやしんどいこと、制約がいろいろあって苦しむと思うんですよ。それでも、一番近い目標である『歌右衛門になりたい』という夢をかなえるために、今を積み重ねていく。せっかくここまで来たなら頑張ろうよって思っています」


報道局 佐々木毅

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