藤井五冠の「9七銀」 名手はいかに生まれたのか 乗り越えた失冠の大ピンチ(2)[2022/08/24 17:00]

今年4月から5月にかけて調子を崩し、初めてタイトルを失う大ピンチに陥っていたという将棋の藤井聡太竜王(20歳、王位・叡王・王将・棋聖と合わせて五冠)。
彼の対局を見続けてきた棋士たちの証言では、復調へのターニングポイントとなったのが、棋聖戦五番勝負第2局の終盤、藤井竜王の放った“勝負手”だった。

「△9七銀」。
解説の棋士が「震えた」というその名手は、タイトル戦の流れを変えただけでなく、苦しみ続けていた藤井竜王が、自分本来の姿を取り戻すきっかけとなる一手だった…

挑戦者・豊島(とよしま)将之九段(32)の新型コロナウイルス感染にともない延期されていた、お〜いお茶杯第63期王位戦七番勝負の第4局が、きょう始まった。復調を果たした藤井竜王は、この王位戦でも第3局までで2勝1敗とリードしている。

10代最後の数カ月、苦しみながらも闘い続けた天才棋士、完全復活への道のりをたどる。
(記事中の▲は先手、△は後手の手であることを表す)

■ 「この切れ味が藤井さんの終盤なんですよ」

「私よく『凄くないですか?』っていうんですけど、完璧に『凄くないですか?』ですね、今年一番の『凄くないですか?』ですね。△9七銀は、間違いなく」

2カ月以上たった今も、「藤井ウオッチャー」飯島栄治八段が興奮気味に振り返る、名手「△9七銀」。
将棋ファンの間ですっかり有名になった口癖、「凄くないですか?」を3連発したところからも、この手に対する驚きがうかがえる。

この名手に至るまでの様々な伏線については後ほど詳しく記すとして、飯島八段がこれほど驚いたのは、当時の藤井竜王が、良いときの「7割」くらいまで調子を落としていたという認識があるからだ。

叡王戦は3連勝したものの、タイトル初挑戦の出口若武八段を圧倒したとは言い難く、王座戦の決勝トーナメントでは1回戦で敗退。
そして迎えた第93期ヒューリック杯棋聖戦五番勝負の第1局も、挑戦者・永瀬拓矢王座の前に苦杯を喫した。

藤井竜王の師匠である杉本昌隆八段も、こう話す。
「正直なところを言えば第2局の段階で調子はまだ戻ってなかったと思います。
『9七銀』は必殺の手だから、あの場面まで持っていったあたりが藤井竜王の強さですけども、将棋自体は苦しんでいましたので、あの段階では調子を取り戻していたとは思えません」

苦しみながらも「必殺の手」で勝つことができた。
それが大きなターニングポイントとなった。

「これが藤井さんの従来の終盤なんですよ。切れ味がある。一瞬のスキを突いて“寄せ(終盤、相手の玉を追い詰めること)”にかかる、しかもかなりダイナミックな寄せなんですけども、それが今まで出てなかったんですよ。こういう手が出るとやっぱり自分の将棋はこうなんだという勘が戻ってくる」(飯島八段)

改めて、この頃の藤井竜王が置かれた状況を整理しておく。
五冠を保持したことでタイトル戦の予選など対局数が減り、特に実戦を重ねることが重要な「終盤力」に陰りが見えていた。

その中で迎えた、永瀬王座との棋聖戦五番勝負第1局は、同じ局面が4回現れる「千日手」での指し直しが2度発生する異例の事態に。
結局、3局目で永瀬王座が藤井竜王を破った。

この2度の指し直しが藤井竜王の対局数不足解消にひと役買ったというのが、師匠・杉本八段の見立てだ。
とは言えそれだけで完全に復調したわけではなく、不安を抱えたまま、棋聖戦の第2局を迎えることとなったのである。

■ 勝負のあやは3手前 「▲3二金」の場面に

6月15日。新潟市の老舗旅館で行われた対局。
後手番の藤井竜王は中盤、やや優勢に進めるものの、終盤に入って形勢は不明の状態に。
そして113手目。永瀬王座が、▲3二金と藤井陣内に金を打ち込んだ。

ここからが第2局のクライマックスである。この時点で、ABEMAの将棋AIによる形勢判断は藤井竜王55%対永瀬王座45%。ほぼ互角と言っていい。
名手「△9七銀」は3手後に登場するのだが、実はこの局面に勝負のあやがあった。

▲3二金は王手なので、藤井竜王は玉を逃げるか飛車で金を取るしかない。飛車で金を取れば、その飛車を桂馬で取られ、藤井竜王がさらにその桂馬を玉で取ることになる。
飛車と金・桂馬との交換になるわけだが、最終盤でのこの交換は損得勘定が難しい。

将棋AIは、飛車で金を取れば、藤井竜王やや優位が続くと示している。持ち時間は藤井竜王が残り2分、永瀬王座は15分。

藤井竜王が選んだ手は、金を取らずに玉を逃げる「△1三玉」だった。
これは飛車をただで取られる手だ。

「普通はこの金を取るんですよ。同飛車と取るのが普通なんですけど、△1三玉と上がって、勝負をかけたという感じで」(飯島八段)

「あそこはちょっと不思議なところで、飛車で金を取っていたほうがよかったんですね。確かに玉を逃げることによって逆に『△9七銀』という技が炸裂しましたけれども、逃げた手そのものはAIの上では好手ではなかったはずです」(杉本八段)

実際、△1三玉と逃げた直後、将棋AIでの藤井竜王の勝率は30%台前半まで急落した。
永瀬王座にしてみれば、飛車を差し出された格好で、当然のようにこれを取ってしまうのだが、この手が再び形勢を逆転させる“失着”となってしまった。

「永瀬さんに『飛車を取れ』と勝負をかけて、永瀬さんが飛車を取って、その後の一撃で仕留めた。何かこう、勝負師としての藤井さんが戻ってきたなという感じでした」(飯島八段)

■ 「バンジージャンプみたいに飛ばなきゃいけない」

「あの場面は、ちょっとした人間ドラマでして…」と、杉本八段は振り返る。
「あそこで玉を逃げる手というのは、棋士としてはちょっと考えにくいかな。善悪で見るとあそこで藤井竜王はピンチを迎えてしまったというか、一回間違えている訳です。これは狙って指したものではないですね。わざわざ△9七銀を打ちたいから玉を逃げるという人はいませんから。(笑)
さすがに永瀬さんもあれで安心しちゃったというか、エアポケットに入ったというか」

この局面で永瀬王座としては、あえて飛車を取らずに自玉を8八に移動させておけば、必殺の△9七銀を食らうこともなかった…

藤井竜王は「△1三玉」と逃げたことについて、感想戦でこう話している。
「時間がなかったので、『勝負手』のつもりでやっていました」

飯島八段は言う。
「こういう感じなんですよね、藤井さんの将棋って。玉を逃げる手というのは悪い手になる可能性があったんですけど、それでも“ばくち”というか、やっぱり最後はすべて安全にうまくはいかないので、バンジージャンプみたいに飛ばなきゃいけない時があるんですよ。そういう終盤、スリルがある終盤が、調子を落としていた時にはあんまりなかったんですよね」

永瀬王座が飛車を取り、藤井竜王が「9七」に銀を打ちこんで、すべてがひっくり返った。
「当時、僕はABEMAで解説していたんですけど、永瀬さんの顔色が変わってきたんですよ。顔を覆うような感じで、頭を抱えた感じもあったかな」(飯島八段)

「△9七銀」はいわゆる「タダ捨て」の手だ。永瀬王座はこの銀を香車か桂馬で取ることができる。
しかし「9七」は永瀬玉の脱出ルートでもあった。銀を取ると、そのルートを自らの駒がふさいでしまい、自玉が逃げられなくなる。
反対方向からは藤井五冠の駒がいくつも迫ってきていて、永瀬王座の玉は一瞬にして窮地に陥ってしまうのだ。

ABEMAの中継では解説の飯島八段らが「(将棋の)本によく出てくるような手だ」と感嘆したのだが、正にお手本のような“逃げ道封鎖”の一手だった。

感想戦で、藤井竜王はこの△9七銀について、「流れとしては仕方がないのかな」とだけコメントしている。
杉本八段は、意図せずして生まれた名手だと表現する。

「何と言うんでしょうか、『けがの功名』的なところは正直あるかと思います。
本人の中では多分反省の多い勝ち方だとは思うんですけど、ただ『△9七銀』という鮮やかな決め手が生まれたというのは事実ですよね。『△9七銀』自体、なかなか簡単に発見できる手じゃないので、そういう意味で、一回最善を逃したけど二回目は逃さないという藤井竜王の強さが出たのだと思います」

■ 藤井竜王の“名手”の中でも「一番きれいな一手」

飯島八段は、そもそも好手と悪手のギリギリのところを進むのが藤井竜王の本来の姿なのだと指摘する。

「藤井さんの勝ち方って、針に糸を通すような勝ち方なんですよね。ちょっとでもブレたらもうダメみたいな感じの勝ち方が多い。見ているプロからするとかなり芸術に近い感じ、ジグソーパズルを全部完成させるような感じの勝ち方なんです。今回もそうですけど、かなり勝ち方がきれいですよね。美しいというか。
特にこの『△9七銀』は藤井さんの名手の中でも一番きれいな一手かな、と思いましたね」

藤井竜王はその4手後、守備に利いていた永瀬王座側の飛車の、横への動きを封じる「△4八歩」という手を指すのだが、これもまたプロをうならせる一手だった。

「今まで対局が少なくて“不調”だったときは『△4八歩』みたいな1ランク上の終盤が出てこなかったんですよね。だからすぐわかりました、ああこれは通常の藤井さんに戻ったんだな、と」(飯島八段)

最後まで正確な“寄せ”を見せた藤井竜王は、第2局を制して1勝1敗のタイとした。
藤井竜王にとって、単なる1勝以上に重みのある勝利だった。

「藤井さんがこれからタイトル防衛を積み重ねていく上でも大事なターニングポイントだったのは間違いないですね。この局が勝ちか負けかで最終結果はたぶん逆になっていましたから。そのくらい危ない将棋をあのような形で強烈な印象で勝ったので、ここで完全復活と言っていいと思います」(飯島八段)

藤井竜王はその後の第3局、第4局も連勝し、棋聖のタイトル防衛に成功した。
杉本八段は、この永瀬王座との闘いで、藤井竜王が得たものについて、こう語る。

「『△9七銀』という手を指したこと自体は、藤井竜王がもともと持っている能力ですね。だからこれは新しく身につけたものではないです。この手を発見できない棋士は多いけど、藤井竜王は持っていました。
永瀬さんとの対局で得るものがあったとしたら、どちらかと言えば精神的なもののような気はします。
対局があく中でのペース配分とか、それはつかんだと思うので、そういうことを含めて新しい大きなものを得たとは思います」

■ 「羽生さんすら経験していない」10代五冠

「10代という点でもいい形で何とか終えることができたと思うので、次の対局でも体調をしっかり整えて、いい状態で臨めるようにと思います」
「(20代について)実力を高めていくために今後の数年というのは非常に大事な時期になってくると思うので、そういう意識を常に持って取り組んでいきたいと思っています」

棋聖戦第4局で勝利し、タイトル防衛を果たした直後の記者会見。
その日が19歳最後の対局であったこと、棋士としての20代について思うことを問われ、藤井竜王はこう答えた。

10代最後の数か月間、藤井竜王はタイトルを5つも保持するがゆえの対局数減で調子を落とし、苦しんだ。だがその大ピンチを自らの力で克服し、再び上昇気流に乗って20代を迎えたのだ。

師匠の杉本八段が言う。
「(10代で五冠は)羽生さん(羽生善治九段)ですら経験されてないですよね。これは同じ心境をわかりあえる棋士が誰もいないという、あまりにも成長が早すぎるゆえの悩みかもしれません。ただ、彼はそういうことも楽しめるタイプでしょうし、自ら課題は見つけていくでしょうから、そこは気にしてないように思います」

渡辺明名人への挑戦権獲得をかけた順位戦A級の2回戦では菅井竜也八段に敗れ、1勝1敗となった藤井竜王。史上最年少での名人位獲得には厳しい戦いが続く。

だが、若くして既に多くの経験を積み、危機を乗り越えてきた20歳の天才棋士は、今後も訪れるであろう難局を見事に乗り切っていくに違いない。

 テレビ朝日報道局 佐々木毅

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