【全編公開】1923年 関東大震災 直後の映像 逃げない群衆 猛烈な火災 救護活動…[2022/09/01 11:58]

大正12年、1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災。
この映像は、未曽有の大災害が発生した直後の首都、東京を撮影したものです。
テレビ朝日が1980年代にフィルムを入手し、復元しました。
この動画では、何が映し出されているのか分かっていることを、説明していきます。
オリジナル・フィルムの映像から、同じ映像が繰り返し出てくる部分はカットして再編集しました。一部順番を入れ替えている以外、フィルムに残っていたシーンをすべて公開します。

映像には「字幕」が挿入され、場所や状況を説明しています。
編集されていて、音声はありません。

02:00
東京駅丸の内口から西の方向に煙が見えています。
現在の日本橋本石町(ほんごくちょう)、からも
大きな煙が見えています。

02:17
火災は、ほぼ丸2日、46時間にわたって続きました。
倒壊した家屋が多かった下町、浅草は
地震の直後に火災が発生した場所でした。

02:35
昼食の準備をする時間帯で多くの家に火の気があり、東京では77カ所から燃え広がったと言われています。
およそ10万5000人の死者を出した関東大震災でそのうちの9割が火災による犠牲者でした。

03:17
画面奥にそびえているのは凌雲閣、通称「浅草十二階」です。

03:28
上野広小路です。
右手に帝国博品館のドームが見えます。
カメラを反対、北側に向けると上野の山に避難する人々が。
帝國博品館は翌日焼け落ちます。

03:47
凌雲閣を近くから映します。
日本一、52mの高さを誇った塔は8階から上が崩落しました。

04:49
本所、深川は甚大な被害があった地域です。
隅田川右岸からの映像で、川の東側に
煙と火の手が上がっているのが見えます。

05:53
上野駅です。
立錐の余地もないほど、人で溢れています。
壊れた家屋と駅舎の向こうに、巨大な煙が立ち上ります。
もう線路の上にも人や大八車が入り込んでいます。

06:22
上野駅の北、日暮里駅周辺も避難する人で溢れています。

06:29
こちらは上野広小路です。
大八車に人、人、人。市電は身動きが取れなくなっています。

07:23
上野からの列車が出せず、避難者は線路上を日暮里駅目指して歩きます。
鉄道省は避難者や物資を輸送する列車を無料にしたこともあり、駅や列車は大変な混雑になりました。

07:50
このフィルムを撮影したのは、京都西本願寺の撮影隊です。全国で上映されました。

08:05
宮城前広場、現在の皇居前広場です。
広い敷地に被災者が過ごすためのテントがズラリと並んでいます。

バラックも建てられています。
右手に富士見櫓が見えます。
坂下門の周辺の場所も、被災者に提供されたようです。
桜田門の橋の上にもバラック。

08:55
東京駅の丸の内側のようです。やはりバラックが建てられています。

09:05
西本願寺の東京別院、築地本願寺は救護部を組織し、東京都内6カ所を拠点として被災者支援を始めます。
神田・明治会館の焼け跡にテントを設けて活動したのは第三班です。

09:27
第四班は日比谷公園を拠点としていました。
都心の緑地には大勢が集まり、掲示板にはたくさんの張り紙が貼ってあるのが分かります。
日比谷交差点側でしょうか。屋台も出ています。田舎志る古、ライスカレー、と読めます。

10:12
映像には本願寺救護班の具体的な活動が記録されていました。
仮設の骨組みが建てられる向かい側にテントが設置されています。

10:27
「麦湯をあげます」麦茶のことです。
「はがきをあげます」
「読経をしてあげます」
お寺ならではのサービスのほかに、
通信のサポートもしていたようです。

11:00
本所被服廠跡を僧侶らが訪れます。
陸軍の軍服工場跡地の広い敷地に避難してきた市民らが、炎に包まれおよそ4万人が命を落とした関東大震災でも最大の被害が出た場所です。炎が巨大な竜巻状になる“火災旋風”が発生したのです。
現在は東京都立横網町公園になっていて、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼する
慰霊堂が建てられています。

11:54
原型がわからないほどぐにゃりとねじ曲がってしまったのは現在の千代田区にある神田橋です。
橋を架けなおす工事が始まり、作業が進んでいます。仮設のものでしょうか。
細い橋を一列になって人が渡ってきます。
このフィルムの字幕では、工事には「工兵隊」が動員されたと説明しています。

12:36
芝浦埠頭では水兵が活躍していました。
セーラー服の襟を立て、1人が1つ、肩に大きな荷物を担いで人海戦術での荷揚げです。
膨大な量の荷物が陸揚げされていることが分かります。
支援物資は全国から、そして海外からも届きました。
壊滅的な被害を受けた横浜を避けて芝浦に寄港した船もあったということです。

13:53
建ち並ぶ銀座の洋館は軒並み崩れて
見る影もありません。

14:10
男子学生が集まり、紙を折ったり束ねたりしているようです。
これは、京都の映像です。
京都の西本願寺本山では、義援金を集める活動が進められていました。
この募金活動は被災した子どもを対象にしていました。
「児童愛護袋」
この活動の発案者の女性らは、この動画の最後の方に登場します。
本願寺の機関紙「教会一瀾」には、児童愛護袋には210万枚の需要があったと
記載されています。
袋の調達が間に合わず、龍谷大学付属平安中学校の生徒を動員して紙に印刷したもので凌いだということです。先ほどの男子学生が折っていたのは、この児童愛護袋だったのでしょうか。
9月22日から1週間の活動で総額7000円近く、現在の金額で数千万円相当を集めて送ったということです。

16:09
女性らが布を縫っているようです。寺の大広間でしょうか、女性ばかりが集まり、熱心に手を動かしています。
こうして支援物資も大量に用意されました。

16:51
大阪の活動についての映像は、船着き場から始まります。
10人の女性には割烹着姿の人もいます。支援の一団は50人ほどいるでしょうか。
大阪でも仮設テントの支援拠点が設けられました。
慰問品の準備を進めています。支援物資は山積みになっています。運び出された荷物がどんどん車に積み込まれます。

18:26
大阪でも児童愛護袋の活動が展開されていたことが映像で分かります。
手渡された袋の封をしているようです。ぶら下げてある籠に入れていきます。募金のための長い行列ができています。
袋のデザインの詳細が分かる映像です。発起人4人の女性の名前が下に並んで記されています。

19:18
神戸の映像も港から始まります。
関東に向けて移動する救護班を追った映像でしょうか。
駅のホームです。機関車が入ってきました。
カメラの方向に向かってくるワゴンの正面に「鉄道省神戸駅」と読めます。
神戸から被災地までは列車で向かったようです。

20:44
ここからは東京の映像です。
京都から到着した救護班の活動の様子が撮られています。
医師や看護師らの記念撮影。30人ほどのチームです。

21:14
バラックを訪問診療します。医師1人に看護師が2人付いています。
移動には自動車が使われています。
担いでいる荷物の包みに「・・帝国大学医院」と書いてあるのが見えます。
京都帝国大学医学部付属医院から派遣されたのでしょうか。
自動車の正面には「築地本願寺617」のナンバー。車を手配したのは築地本願寺のようです。

22:11
仮設テントの下で、女性が鼻の治療を受けています。
テーブルの上には10本以上の薬の瓶が見えます。
ガーゼもふんだんに使われます。
こちらは聴診器での診察です。
待合いのスペースも設けられたようです。

日比谷公園で活動する第四班です。
「京都市救護班薬局」と看板が出ています。
紙と引き換えに薬が手渡されます。

23:08
場所が変わって、大きなテント。上野公園のようです。
公園の木々に紐を渡して洗濯物が干してあります。
誰かがバラックから出てきました。
次のバラックを訪れると、手にしている封筒のようなものを中の人に手渡しました。

23:54
テント前の看板には「避難者に限り、無料理髪」と書いてあります。
現在の東京国立博物館前のテントです。
法被姿の理容師が顔そりに散髪。子どもにバリカンをかける割烹着の女性理容師。お客さんには子どももいます。授乳しながら髪の手入れをしてもらう人も。
休憩所では飲み物を提供していました。
救護班の活動が、多岐にわたっていたことが分かる映像です。
仮設住宅でしょうか。木造の平屋の建設が進んでいます。

24:40
大通りのようですが、見渡す限り水浸しです。
行き交う人々も車も、水をかき分けて進みます。
火災による被害がよく知られる関東大震災ですが、川沿いの地域や東京湾岸の埋め立て地、干拓地で、液状化が発生しました。
映像からは、広い範囲が冠水したことが分かります。
この映像は隅田川の東側、現在の江東区・墨田区辺りだと見られます。
焼け落ちた街は地平まで、瓦礫だらけです。
画面左手から全焼した当時の両国国技館が見えてきました。
大通りには歩行者や自転車の往来があります。

26:38
築地本願寺です。到着されたのは貞明皇后、大正天皇の皇后、です。
震災発生からおよそ3カ月後の11月30日のことでした。
芝公園に設置された臨時病院にお見舞いに行かれた後、午後1時に被災者支援をしていた築地本願寺に到着されました。
同行しているのは大森鐘一皇后宮大夫です。
この職に就いてすでに7年、それ以前は官僚や知事、議員を歴任しました。
本願寺が経営する託児所や学校の子どもたちが皇后陛下を迎えます。
幟に上野尋常小学校、築地本願寺託児所…
本願寺が関連する教育施設が数多くあったことが分かります。

28:29
眼鏡をかけた着物の女性は大谷きぬ子(「きぬ」は糸偏に壬)氏です。
教育者で仏教婦人会の総裁でもありました。
皇后陛下のご質問に答えているのは、この大谷きぬ子氏です。
西本願寺の大谷光明氏の妻であるきぬ子氏ですが、実は京都 九条家の5女で、貞明皇后の妹です。2人の姉は大谷光瑞氏と結婚しています。両家は深い姻戚関係にありました。
皇后陛下の本願寺への行啓が実現した背景には、大谷きぬ子氏の働きかけがあったと記録が残っています。
皇后陛下のご視察が終わり、本願寺を出発されます。
この後も病院などへの慰問に向かわれました。

31:21
子どもたちが列になって歩いてきます。
奥の建物の看板には「日比谷幼稚園」と書いてあります。

31:49
こちらの2人の女性、大谷きぬ子氏と、背が高いのは大正三美人と称された、人気の歌人、九条武子氏です。
2人は義理の姉妹に当たり、全国で行われた「児童愛護袋」の活動の発起人、4人のうちの2人です。
子どもたちはお遊戯を披露しているようです。
現在の日比谷公園第一花壇あたり、棕櫚の木の周りを元気に回っています。
子どもたちには服が手渡されます。
九条武子氏はこの4年後に敗血症で亡くなります。
遺志を継いだ大谷きぬ子氏らは、救護活動を続けていくため病院を設立します。

32:57
「復興の気 みなぎり渡る帝都」
愛宕山から東を撮影した映像です。
画面奥に浜離宮の木立が見えます。
まだ更地が目立ちますが、再建が始まっている東京の様子を映像は捉えています。
画面奥に煙る高い建築群は銀座の街並みでしょうか。

33:36
映像は震災前の繁栄する東京を映し出します。
新金橋の向こうに震災で焼失する前の築地本願寺が見えます。
今はない、三十間堀川がまっすぐ南西へ伸び、カメラをさらに西へ振ると銀座です。
そして現在の中央通り、銀座通りが見えてきました。。
特徴的な大倉本館、向かいの松屋銀座は建設中でしょうか。

34:19
「落日赤き焦土の上に。
オー  頼もしき この力」

1923年の夕日を見せたのち、
映像はフィルムの画角が乱れますが、最後は東京を再建する意思の表れでしょうか。
木槌を振るう男性を映し出して映像は終わります。

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