【15年目の真相】ミャンマー 日本人ジャーナリスト長井健司さん銃撃事件[2022/11/15 16:00]

 15年前、ミャンマーで民主化運動を取材していた日本人ジャーナリストが銃で撃たれて亡くなりました。「真実を知りたい」という遺族の思いに“真相”を知る関係者が口を開きました。

 2007年9月27日。激しい反政府デモが続くヤンゴンで、1人の日本人ジャーナリストが銃弾に倒れました。

 長井健司さんの妹・小川典子さん(62):「いきなりニュースのタイトルが出た瞬間、兄の横たわったカメラの写真が画面いっぱいに映って…」

 長井健司さん、当時50歳。

 カメラは、すぐ後ろにいた兵士の銃から上がる煙を捉えていました。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「通り過ぎる兵士の人が発砲して白煙が上がって…当然あの人(兵士)が至近距離から銃撃したのだろうというふうに私は思っていました」

 しかし、ミャンマー政府は「遠距離からの流れ弾」という主張を崩していません。

 あれから15年。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「1メートル内外の至近距離から火薬量の多いライフル弾が直撃した」

 真実を求め続ける遺族の思いに、医師が応えました。

 長井健司さんの故郷、愛媛県今治市。

 今年も命日に訪れた妹の小川典子さんは、線香を手向けると、墓前に静かに手を合わせました。墓には、長井さんがあの日手にしていたビデオカメラをかたどった石碑があります。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「進展がなくて私が非力で何もできなくて、時間だけが過ぎ去ってしまった。(兄の長井さん)当人にも申し訳ない気持ちでいっぱい」

 2007年、当時、軍事政権だったミャンマーでは、人権を無視した政府のやり方に民主運動家や僧侶らが激しく抗議する「サフラン革命」が起きていました。

 これに対し軍は、民衆の声を力ずくで封じました。

 9月27日。ヤンゴン中心部に集結したデモ隊に対し、軍が無差別に発砲、取材していた長井さんも命を落としました。

 撃たれたその瞬間を、地元メディア「ビルマ民主の声」のカメラマンが撮影していました。

 その映像は全世界に流れ、瞬く間に非難の声が高まりました。

 そうしたなか、事件直後からミャンマー政府が繰り返したのが「離れた場所から撃った流れ弾が当たった事故だ」という主張です。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「(ミャンマー政府に)対面で説明されて、こちら(日本政府)としては『ありえない』、向こう(ミャンマー政府)は『それに違いない』という応答があった」

 警視庁は、中野警察署に捜査本部を設置。

 映像の鑑定や遺体の解剖を行い、日本政府として「至近距離からの銃撃だった」と結論付けました。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「色々科学的に捜査されていて、そういうところで証明は付いている。向こう(ミャンマー政府)としては『受け入れられない』の一点張り」

 小川さんたちは、外務省を通じ、「近くにいた兵士が意図的に銃撃した」という結論を受け入れるよう何度も求めました。

 しかし、ミャンマー政府は責任を認めず、「遠くからの流れ弾による事故」という主張を繰り返しました。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「兄の命をいい加減に扱われ続けて、人権がものすごく踏みにじられたまま、このまま時間が過ぎ去って封じ込められれば(ミャンマー政府に)都合が良いんじゃないか。腹が立って怒りが込み上げてくる」

 15年もの間、両政府の主張が平行線をたどり続けるなか、遺族の「真相を知りたい」という強い思いが、ある1人の医師を動かしました。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「ご遺族の方が真理を知りたい、本当のことを分かりたいということだった。ぜひお役に立てればと」

 日本に戻ってきた長井さんの遺体の解剖を手掛けた、佐藤喜宣杏林大名誉教授です。

 遺族の思いに応え、今回、当時の解剖について初めて語りました。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「警視庁の検視官室を通して、私のところに話がありました。最初拝見して検案をした段階では、とても近付けないくらい(防腐用の)ホルマリン臭がして大変な状態でした」

 佐藤教授は、長井さんの銃弾による傷「銃創」に注目します。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「銃創は1カ所なんですね。腰のあたりに銃器を持って発射しないとできない傷なんです。1メートル内外(から)のライフル弾による水平弾、水平射撃ですね」

 医学が導いたのは、ミャンマー政府の主張とは真っ向から食い違う結論でした。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「(銃弾が体に入った)射入口に『焼暈(しょううん)』と言いまして、熱せられたガスの火薬を含んだ部分が当たっている。至近距離で撃ちますと、体に入る前にまず弾よりもガスが先に来る」

 記者がミャンマー当局から入手した事件直後の長井さんの傷口の写真には、確かに黒い火薬の痕のようなものが見えます。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「射入口の直下の脂肪組織は融解と言って、溶けているんです。まさにこれはガスが先行して当たったということを示しているんです」

 佐藤教授は、離れた場所からの銃撃では、こうした傷にはならないと断言します。

 さらに“新たな事実”が判明しました。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「1つの銃器が大体推定できました」

 佐藤教授は警察庁と協力し、長井さんを死に至らしめたライフルまでほぼ特定していたのです。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「当時のミャンマー軍が持っていた物(銃)は旧ソ連製。ライフル弾は限られてくる。3種類くらいに絞られる。弾丸の大きさ、射入口を見ることによって、1つの銃器が大体推定できました」

 映像などから、長井さんの背後にいた兵士が持っていた銃と矛盾はありません。

 すべてが“至近距離からの発砲”を指し示していました。

 しかし、事実を突き付けても、ミャンマー側はしらを切り通します。

 遺族が当時、外務省から説明された日本政府とミャンマー政府とのやり取りのメモを入手しました。

 ミャンマー側:「日本で放送されているビデオはトラップ(合成)である。傷口の様子から至近距離から発射されたものではない」

 日本側:「ビデオの映像、司法解剖から至近距離からの発砲は間違いない」

 ミャンマー側:「事情聴取から(至近距離ではなく)、30〜40ヤード(27〜36メートル)で撃ったもの」

 日本側:「ミャンマーの主張を裏付けるビデオはあるか」

 ミャンマー側:「ない。情況から判断した」

 長井さんの遺体は、当初、ミャンマーで解剖されていました。

 背中から腹に至る銃弾の傷については正確に記されていましたが、佐藤教授の指摘する「焼暈(しょううん)」についての記載はなく、どのような銃撃だったかはうかがい知ることができません。

 杏林大学・佐藤喜宣名誉教授:「恐らく立ち会われたあちら(ミャンマー)の警察医は(至近距離の銃撃を)分かっている。少なくとも解剖した側は(至近距離と)分かっている。(彼らの主張は)非常に矛盾している。何を忖度(そんたく)しているか分かりませんけれども」

 いまも事実を認めず、謝罪もしないミャンマー政府の姿勢を、地元メディア「ビルマ民主の声」の編集長が強く批判しました。

 ミャンマーメディア「ビルマ民主の声」、エーチャンナイン編集長:「多くの目撃者がいます。この兵士は2フィート(約60センチメートル)の距離にいた。兵士は背後から撃ち、意図的に狙ったわけです」

 エーチャンナインさんは、改めて長井さんに感謝を示しました。

 ミャンマーメディア「ビルマ民主の声」、エーチャンナイン編集長:「ケンジ・ナガイはとても勇気のあるジャーナリストです。彼が亡くなる姿が世界中に広まりました。全世界にミャンマーで何が起きているか知らせたのです」

 ミャンマーでは、命日の毎年9月27日になると、長井さんを追悼する催しが開かれてきました。

 しかし…去年から中止に追い込まれました。

 国軍によるクーデターです。

 去年2月のクーデターで軍事政権に逆戻りし、状況はさらに悪化しました。
 
 ミャンマーメディア「ビルマ民主の声」、エーチャンナイン編集長:「今のミャンマーの状況は以前よりもひどいと思っています。今の軍政はこれまでで最も残酷な政権です」

 エーチャンナインさんは、長井さんの事件を伝え続けるべきだと訴えます。

 ミャンマーメディア「ビルマ民主の声」、エーチャンナイン編集長:「(軍政に命を奪われた)長井さんたちは民主主義のために自分を犠牲にしました。私たちは、彼らがやろうとしたことを成し遂げなければならない」

 事件を風化させてはいけない−。遺族の強い願いでもあります。

 長井さんが最後まで握り締めていたビデオカメラ。

 遺族らは、返却するよう求めていますが、ミャンマー政府は今も「行方不明」という主張を崩していません。

 小川さんは、これからも諦めずに訴え続けるつもりです。

 長井健司さんの妹・小川典子さん:「真実に目を向けて正面から受け止めて認めて、真実を明らかにする姿勢を(ミャンマー政府に)いつか取って頂きたい」

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