「原発ごときに…」 飯舘村の酪農家の12年 未だに届かない「完全な除染」への思い[2023/03/03 17:00]

 一面、雪に覆われた土地。ところどころにある枯れた雑草は、人の背丈を超えるものもある。12年前、この場所には田中一正さん(52)の自宅があった。自宅の裏には牛舎があり、40頭の牛を飼い生計を立てていた。

 東京電力福島第一原発の事故のあと、帰還困難区域に指定された福島県飯舘村の長泥地区。事故から12年が経とうとするいまも、田中さんは自宅に戻ることができていない。

 田中さんは、除染が完了し、安全な食品を作れる環境にならなければ酪農を再開しないと決めている。しかし、「完全な除染は求めない」という村の方針などによって、その望みは遂げられそうにない状況に陥っているのだ。

「原発ごときに人生を狂わされてたまるか」
自宅を奪われた悔しさを抱えながら、奮闘を続けてきた田中さんの12年を記者が追った。
(テレビ朝日報道局 笠井理沙)

■一から築き上げた飯舘の牧場 原発事故で「夢の跡」に

東京出身の田中さんは、2001年、30歳の時に福島県飯舘村に移住した。
幼いころから動物が好きで酪農家を目指していた。北海道の短大を卒業、栃木県の牧場で経験を積む。「自然の中でのびのびとマイペースに仕事ができれば」と、肉牛や乳牛の飼育が盛んな飯舘村で自分の牧場を持った。

自宅となる空き家と牛舎などを買い、一から築き上げた自分だけの牧場。しかし、別れは突然訪れた。

2011年3月に起きた福島第一原発の事故により、約40kmの距離にある飯舘村では、高い放射線量が測定され、約6000人の村民全員が避難を余儀なくされた。
田中さんは40頭いた牛を処分したり、県内の牧場に引き取ってもらったりして、事故から2カ月後の5月、自宅をあとにした。

原発事故の翌年、記者は田中さんと一緒に飯舘村の自宅を訪れた。
自宅がある長泥地区は、年間の積算線量が50ミリシーベルトを超える「帰還困難区域」に指定された。立ち入りが制限されているため、地区に入る道路に設置されたバリケードを越えて自宅へと向かう。

「何も、やっぱりない…」。がらんとした牛舎を前に、田中さんがつぶやいた。
牛舎に置いてあった時計は、電池が切れ止まってしまった。避難先での日々が過ぎていく一方、ここにある自宅や牛舎は過去のものになっていく。

「複雑ですよね。どっちが現実なのか分からなくなる。ここは夢の跡、なんですよ」。田中さんは、苦笑いしながら話した。

■「自分を納得させるためにも逃げちゃいけない」

2012年5月に田中さんは、飯舘村などから避難していた酪農家の仲間たちとともに、福島市で牧場を立ち上げた。

なぜ、あえて先が見通せない福島県内で酪農を再開するのか。率直な疑問をぶつけてみた。

「やっぱりプライドですよね」。
普段は言葉を選びながら慎重に話す田中さんだが、この時は早口になり、熱を持って話した。

「例えば西日本とか、全然関係ないところに行って、今までの実績を持って、酪農を再開させる場所はないかと頼めば、今なら何とかなると思うんです。
でも、なぜ福島かというとやっぱりそれは僕自身のプライドで。よその土地から骨を埋めるつもりでここに入ってきたんですよ。それを志半ばで、思いがけず(村を)出てきた。
悪い言い方かもしれないけれど、原発ごときに自分の人生を狂わされてたまるかという意地ですよね」。

■ついに飯舘村で牧場を再開 でも「まだ人の口に入るものは作れない」

飯舘村の復興は着実に進んでいた。国は田中さんの自宅がある帰還困難区域・長泥地区を除く場所で、放射性物質を取り除く「除染」を完了させ、2017年3月に避難指示を解除した。

田中さんは「自宅に戻ったときの先駆けになれば」と、元の牧場から10km離れた飯舘村内の避難指示が解除された場所で、2019年に牧場を立ち上げた。ただ、育てているのは子牛だけ。福島市の牧場で生まれた子牛たちを育てる場所にして、この場所で搾乳はしていない。

村内に避難指示が残っているうちは、多くの消費者を納得させる商品はつくれないと、田中さんは考えている。
避難指示が出ていない福島市でさえ、酪農を再開したあとには「安全な食品なのか」などと批判を受けた経験があるからだ。

「やっぱりここ(飯舘村)で牛乳を搾りだしたときに消費者のみんながどう思うかというのは想像がつく。そういう風評みたいなのがなくなるその日までは、ここで直接人の口に入るものはつくれない」。

田中さんは、生産者として、多くの消費者を納得させるためにも、村内すべてで除染が完了し、避難指示が解除される必要があると考えていた。

「実際は大丈夫なのかもしれないけど、やっぱり万人に納得して食べて飲んでもらいたい」。

しかし、長泥地区の除染は、田中さんの思いとは違う方向に進もうとしていた。

■前村長が目指した「全域解除」 カギは「際(きわ)除染」

この頃、国は長泥地区の一部に指定された「特定復興再生拠点」で、除染を進めていた。
一方、原発事故当時から飯舘村の村長を務めてきた菅野典雄さんは、ある程度の除染が進んだ時点で、長泥地区全体で避難指示解除にこぎつけたいと考えていた。

「たった一つの地区だけ避難指示が残るというのは、村としては気にかかります。そこだけは『仕方がないんだよ』という話にはいかないので、何かいい方法はないかと考えたんです」。

そして菅野さんは、「特定復興再生拠点」の除染とは別に国が行っていた「際(きわ)除染」に目をつけた。
「際除染」とは、国道や県道など主要な道路沿いの両側20メートル幅を除染するもので、長泥地区でもこの範囲内の家屋の解体と除染が進められていた。

菅野さんはこの際除染が進めば、「全部ではないが、6割ぐらいは除染されると分かっていた」と話す。

避難指示区域の除染には、これまでに3兆円がかかっている。
「福島にお金をかけすぎなのでは」という批判も認識していた菅野さんは、地域の6割ほどの除染をもって、全体で避難指示解除をしたいと、住民の説得を続けたという。

「(このままでは)解除はいつになるかわからないよ、と。みなさん、避難先に家を持っているでしょ。ということであれば、少なくとも自宅に住むことはできなくても、通うことはできる。そういうことでどうですか、と」。

村の関係者からは「妥協した」という声も出た。菅野さんは、「東京電力と国が加害者」というのは前提だとしたうえで、こんな思いがあったと語る。

「東京電力だって国だって、100点の答えは出てこない。もうちょっと考えてくれないの、というのはある。でも、少なくとも復興させようとは思っている。だったら、お互い対等な立場で、提案し合いながらやっていったらどうなの、と」。

菅野さんは2020年10月に、村長を退任した。

飯舘村は、今年5月のゴールデンウィークごろに長泥地区の一部で避難指示を解除する方針だ。当初、村が考えていた全域の解除には踏み切らなかったが、いずれにせよ地区の「完全な除染」は当面実現しそうにない。

菅野さんの跡を継いだ杉岡誠村長は「住民の方々の意向を確認しながら物事を進めていく」と説明している。

■いまだ国や村に届かない田中さんの思い

田中さんの自宅と牛舎は「際除染」の対象になり、2年前に解体され、ほとんどの敷地で除染が終わった。

一方、帰還困難区域の手つかずの場所について国は、住民が帰還を希望すれば自宅などを除染する方針だ。
だが、田中さんは今の条件のもとでの除染では、納得できる結果は得られないと考えている。
「住民の帰る、帰らないの希望で、まだらに除染されても、そんなところで作った食べ物を果たして本当に口にできるのか」。

原発事故から12年。田中さんは避難先で生活を立て直しながら、ずっと除染の必要性を訴えてきた。しかし、未だにその声が国や村に届いていないと感じている。

田中さんは現在、福島市と飯舘村の牧場を行き来しながら、牛の世話を続けている。20頭ほどから始めた飯舘村の牧場の牛たちも、150頭までに増えた。
寒さが厳しい朝や夕方には、「自宅があった長泥地区はもっと寒かった」と原発事故前の暮らしを思い出している。

自宅で酪農を再開させるため、田中さんはこれからも声を上げ続ける。
「汚したものを洗って返す、それだけの話なんですよ。時間や費用はかかるかもしれないが、それだけのことをしたんだよ、と思っている」。

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