【春闘の歴史】「乗客たちが騒乱状態」暴動へ ストライキが“日常”だったころ[2023/03/15 11:42]

●春闘って何の略語?

今年(2023年)の春闘は、3月15日に大手企業の集中回答があり、また岸田総理が労働団体や経済界の代表と協議する「政労使会議」も開かれ、大きな山場を迎えます。「官製春闘」と言われるなど、労使協調どころか政労使協調の平和な「春季生活闘争」ですが、もともと春闘に「生活」ということばは入っていませんでした。
春闘の始まりは、1955年の「春季賃上げ共闘総決起大会」とされていますから、「春季賃上げ闘争」や単に「春季闘争」の略語として定着したものでしょう。

●春闘といえばストライキ「その日一日 交通マヒ」

その「春闘」、1970年代には、各労働組合が賃上げや待遇改善を求めてストライキに入るのはよくあることでした。そんな中、日本のほとんどの交通機関でストライキに突入し、その日一日どころか、場合によっては何日も交通マヒがつづくことも普通にありました。交通ストの被害者と言えばまずサラリーマンが挙げられますが、そのサラリーマンたちも心の中にはいろいろな思いを持ちながら、表面的には粛々とストライキを受け入れていた時代があったのです。
当時は「物価は上がるもの」という時代。春闘で賃上げを獲得することは、労働組合に入っていない人も含め、多くの労働者・サラリーマンにとってとても大切なことだったのです。

●交通ストライキ「さながら交通ゼネストの様相」

どんなストライキだったのか具体的に見ていきましょう。

たとえば1971年、まず大手私鉄13社の労働組合が、5月14日、18日、21日にそれぞれ24時間のストに入りました(集改札だけのストの組合もありました)。さらに当時の国鉄の組合である国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)が5月18日から72時間のストに突入します。中小の私鉄の組合も5月18日に大手私鉄支援として始発から午前10時までのストを実施しました。
国鉄は20日午後7時にスト中止、大手私鉄も21日はラッシュアワー前に妥結してスト中止(福岡の西鉄だけは21日も24時間スト)しましたが、5月18日のラッシュ時は国鉄も大手私鉄も中小私鉄も止まって、さながら交通ゼネストの様相でした。なお都営の地下鉄・バスなども5月20日に始発から30分の時限ストにはいりました。
中小私鉄の大半の組合は、このあとも5月末まで3回のストを打ちました。中には8月に入ってもまだ解決していない組合もありました。

翌1972年はどうだったでしょう。
国鉄は、国労と動労が4月23日から「順法(遵法)闘争」を始め、27日にはストライキに突入し午後8時までつづきました。私鉄では、大手6社の組合が4月23日に24時間スト、さらに4月27日には9社の組合が48時間のストに突入しました。このストは27日の終電後に中止されましたが、中小私鉄の大半の組合も支援ストに入りました。中小私鉄はこのあとも闘争がつづき、全社が妥結したのは6月18日でした。

交通ゼネストといってもそもそもストライキをしない組合もあり、東京でいうとその私鉄に乗って新宿や池袋までは来られますが、その先の都心方向へは国鉄も地下鉄も止まっていて行けない、ということがありました。ましてや国鉄はストで止まっているが私鉄は動いているとなると、新宿からも池袋からもその先は地下鉄丸ノ内線しか動いておらず(都営新宿線も大江戸線も有楽町線もまだありません)、乗客(多くは通勤客)が殺到して大変でした。そんな中でも乗客たちは辛抱強く並んでいたものです。

●厳格に法を守りわざと遅延させる「順法闘争」

国鉄で働く労働者はストライキをすることを法律で禁じられていました。それに代わるものとして編み出されたのが、順法(遵法)闘争です。
列車を走らせるのには、安全確認など法令や規則で定められた作業や手順がたくさんあります。これを厳密に確実に行うと、とてもではありませんが時刻どおりに列車を走らせることなどできません。ふだんは(どちらも本来の意味で)「適当」「いい加減」に運行していたのです。
この「適当」「いい加減」であることをやめ、厳格に規則を守って安全確認などの作業をすると、列車にはどうしても遅れが出ます。これを闘争の手段にしたのが、順法闘争です。
当時の国鉄職員は全部で43万人あまり、そのうちの6割以上、27万人近くが国労・動労の組合員でしたから、この人たちが順法闘争に入ると列車の遅れが拡大していきます。実際の順法闘争では、過度に厳格に規則を守るケースが多かったようで、列車の遅れは大きくなるばかりです。
乗客であるサラリーマンの立場から見ると、ストライキなら会社を休んでしまうこともできますし、会社がバスなどを出して通勤手段を確保したケースもありました。しかし順法闘争では曲がりなりにも電車(列車)が動いているので、会社に向かわなければなりません。ストレスはたまる一方です。これが大きな「事件」につながりました。

●1973年 潮目が変わったか「乗客たちが騒乱状態」暴動へ

1973年の春闘では、国労と動労が賃上げなどの生活闘争だけでなく、ストライキ権の奪還といった要求も掲げました。そんな中とくに動労が行った順法闘争などによりダイヤが大きく乱れたため乗客たちの怒りが頂点に達していて、3月13日には上尾駅を始めとした高崎線のいくつかの駅で、17日の動労の半日ストを挟んで4月24日には赤羽駅を始めとした首都圏のいくつもの駅で、乗客たちが騒乱状態になりついには「暴動」へと発展します。けが人が出、逮捕者も出ました。
驚いた動労と国労は順法闘争こそ中止(動労は関東地区の旅客部門のみ中止)しますが、4月26日から72時間のストライキに突入、28日午前2時に中止されたものの影響は28日の日中までつづきました。
一方、大手私鉄は4月27日から9社の組合が48時間ストに入りますが、こちらも午後1時45分に中止されます。中小私鉄の大半も27日に24時間スト、すべてが解決したのは5月22日でした。なお都営バスなどの公営交通も4月27日午前中に時限ストを行い、27日は一時的に交通ゼネストの状態に陥りました。

●「オイルショック」直撃で… まだまだ「春闘=ストライキ」時代

潮目が変わったかと思われた、ストライキを戦術の柱に据える春闘でしたが、同じ1973年10月に発生した第四次中東戦争を引き金にオイルショックが勃発、翌1974年の消費者物価の上昇は前の年の倍近い、20.4パーセントにも上りました。春闘で大幅な賃上げを獲得することの重要さは、ますます大きくなるばかりでした。

●「ストライキ権の奪還」1975年秋、8日間の“スト権スト”

春闘ではありませんが、国労・動労は1975年11月26日から10日間の予定で「スト権スト」に入ります。これは、ストライキ権を認められていなかった、当時の三公社五現業(国鉄・電報電話・たばこ塩/郵便・印刷・造幣・林野・アルコール専売)の労働組合が、「ストライキ権の奪還」を目指してストライキに入ったものです。その他の多くの組合もボーナス闘争などとしてストを計画し、実際に地方公共団体の組合(都営交通など)は規模こそ小さいものの、ストに入りました。
ストライキは12月4日午前0時で中止されますが、国労・動労などのストライキで、旅客・貨物合わせて18万7004本の列車が運休し、のべ1億5100万人に影響が出ました。これだけ大規模な実力行使だったにもかかわらず、結局ストライキ権を認めさせることはできませんでした。
 
●1982年「ストなし春闘時代の到来」

それでも「春闘にストを打つ」という組合側の姿勢に大きな変化はありませんでしたが、1981年には、国鉄や大手私鉄がストライキに突入したものの朝のラッシュ前に中止されました。翌1982年には、とうとう大手私鉄はストなし、国鉄もストが回避されるという事態になります。
大きな交通ストライキがない時代の到来でした。

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