「2021年のハロウィンの日に起きた無差別刺傷事件」。この言葉でどんな事件だったか思い出せる人は少なくないだろう。
電車内を顔面蒼白で走る人、車両の奥で燃え上がった赤い炎、事件後にタバコをふかす紫色のスーツの男。当時、乗客が撮影した動画は連日テレビで放送され、さながら映画のワンシーンのようだった。
日本中を震撼させた事件の裁判で、東京地裁立川支部は、被告の男に懲役23年の判決を言い渡した。争点となったのは、車両内約4平方メートルの範囲での放火行為が殺人未遂の罪に当たるかどうかだった。
阿鼻叫喚の現場で、九死に一生を得た乗客らの証言と被告本人の尋問から、当時どのようなことが起きていたのかを紐解いていく。
(テレビ朝日社会部 島田直樹)
■争点は「放火による殺人未遂」が成立するか
2021年10月31日午後7時54分24秒、服部恭太被告(26)は東京都内を走る京王線の新宿行き特急電車に調布駅から乗り込んだ。
その電車内で服部被告は70代の男性の右胸をナイフで刺したほか、2つ先の車両に移動した乗客に火を放って計13人殺害しようとした殺人未遂の罪などで起訴された。
乗客が「止まれ!止まってくれ!」と叫び、特急電車は2つ先の国領駅に緊急停車。ここまで約3分の出来事だった。
事件から約1年8カ月、東京地裁立川支部に出廷した服部被告の姿に傍聴席は驚いた。事件直後に撮影された映像で、服部被告は紫色のスーツに緑色のシャツに身を包み、映画のキャラクター「ジョーカー」に扮した姿で少し笑みを見せてタバコをふかしていた。
しかし、法廷内では黒色スーツ、首回りがブカブカの白いワイシャツに青いネクタイを締め、丸刈りで背が少し低く、メガネをかけた、どこにでもいそうな青年だった。ただ、裁判を通して無表情を貫き、心を閉ざしているようにも見えた。
裁判員裁判の冒頭、証言台に直立不動で立った服部被告は裁判長から認否を問われると「まず、男性をナイフによって傷つけたことやナイフを携帯したこと、電車に火をつけたことは認めます。(放火の対象である)12名の方々については殺人未遂の対象になるか、わかりません」とはっきりとした声で答え、弁護側は放火による殺人未遂について否認した。
つまり、この裁判で最も大きな争点は12人に対する放火行為に殺意があったかどうか、殺人未遂の罪が成立するかどうかだった。
服部被告がライターに着火し、ライターを投げた時、誰がどこにいて、どれくらい危険な状況だったのか、検察側と弁護側で意見が真っ向から対立した。
■被告から逃げる人で連結部分には人だまりが…
裁判では放火での殺人未遂の被害者とされる12人について、BさんからMさんと匿名で呼び、全員の証言が傍聴席から遮蔽される形で行われた。12人に対する証人尋問は3日間に渡って行われた。
Kさん(当時60歳)はLさん(当時64歳)と一緒に調布駅から特急電車に乗り込んだ。2人がしばらく談笑していると進行方向後ろの車両から人が走って来たという。2人はその時、まさか事件が起きているとは思いもよらなかったという。
Lさん「遠くの方からドドドドドという得体の知れない音が近づいて、大勢走ってくるのが見えて、私たちの前を走っていくのが見えました。」
Kさん「『今日はハロウィンだね。若い人がはしゃいでいるね』と言いました。Lさんも『若い人は元気だね』と」
ところが、走っていく人の数も増え、ただ事ではないと感じた2人は電車の進行方向に進む。たどり着いたのは隣の車両の連結部分手前、優先席の前だった。
検察側「何人くらいの人がたまっていましたか?」
Lさん「20人くらいだと思います。前の人に続いてギュウギュウ押しました。群衆が崩れて倒れていきました」
Gさん(当時59歳)「そこには10人くらいいました。ひょっとしたらもうちょっといたかもしれません。人が密集して(前の車両に)移れない団子状態でした。」
証言では10人から20人まで幅があるが、優先席の前の約4平方メートルはすし詰め状態で、狭い連結部分を通って前の車両には進めなかった。ナイフを持った服部被告に追い立てられた形だ。
Jさん(当時21歳)「(逃げろという声が聞こえて)自分も逃げなきゃと思いました。でも、逃げられませんでした。逃げようにも身動きが取れなかったからです。」
裁判官「連結部分の具体的な状況はどのようなものだったんですか?」
Jさん「人と人が押し合っていて、前に進める状況ではありませんでした。」
Hさん(当時19歳)「前に押し進む感じで左に寄った時に非常ボタンを押しました」
■止まらぬ電車「生命の危機があるかも」
そこにいた乗客らの思いとは裏腹に電車はすぐには止らなかった。そして、70代の男性を刺したとみられる服部被告が密集した乗客らに追いつくまで時間はあまりかからなかった。
Gさん(当時59歳)「後方から眼鏡をかけてスーツを着た男性が刃物を持っていました」
検察側「見たときの服部被告の様子は?」
Gさん「車両の真ん中あたりで(車両)前方に向かって歩いていました。右手に刃物を持っていました」
Kさん「(刃物は)見せびらかす感じで上に向けていました」「『おもちゃじゃないの』とLさんが言っていましたが、私は『光っているから本物じゃないの』と言いました」
Gさん「まずいと思いました。かなり悲鳴を上げて皆さん見ていたので、生命の危機があるかもと思いました」「犯人が来たので傘を構えました」
検察側「そのあとはどうなりましたか?」
Gさん「犯人が2,3mくらいに近づいてきましたが、切り付ける様子はなく、持っていたペットボトルの液体を振りかけました」
検察側「どんなペットボトルでしたか?」
Fさん(当時16歳)「2リットル程度のものだと思います」「下から上に振り上げるようにこちらに撒いてきました」
検察側「その動作を見てどうしましたか?」
Fさん「後ろに振り返ってフードをかぶりました」「触れてはいけない化学薬品かもしれないと思いました」
Gさん「いわゆる石油系の匂いです」
検察側「どう思いましたか?」
Gさん「まずいと思いました。京都アニメーションの事件があって、また同じことが起こるな、火をつけて焼け死ぬんだと思いました」
弁護側「ペットボトルの中身は出ましたか?」
Gさん「必死に出していて、少量ずつ出していたと思います。何回も振っていました」
服部被告は事前にペットボトルに移し替えていたライター用オイルを約2.5リットル撒いた。そのオイルは証言に立ったほとんどの人にかかっていた。
Cさん(当時22歳)「突然何かの液体が自分に向かってかけられている状態です」「バシャンと液体がかかる音がしました」「(ふくらはぎの)ストッキングから液体がしみ込んでくる感覚がありました」
Bさん(当時17歳)「顔をそむけたんですが、右目にかかりました。右耳と髪の毛にもかかりました」
■殺虫スプレー噴射で生まれた移動時間
オイルをかけられてもなお、優先席前の約4平方メートルに密集した乗客の数はあまり減っていなかった。服部被告がすぐオイルに火を付けなかったことは、不幸中の幸いだった。
Dさん(当時21歳)「中の液体をかけた後、空のペットボトルを人の方に投げていたので転がっていました」
検察側「そのあとは?」
Dさん「スプレーをかけるプシューという音が聞こえました」「のどに激しい痛みを感じました。
Bさん「犯人の方を見ると(殺虫)スプレーを噴射しようとしていました。全体にかけるように上に噴射していました」
検察側「殺虫スプレーを噴射した後どうなりましたか?」
Bさん「前の方に隙間ができたので彼女を押し込んで自分も前の車両の方に向かいました」
弁護側「彼女を押し込んだのは守ってあげたい心境でしたか?」
Bさん「そうです」
裁判長「連結部分には何人くらいいましたか?」
Bさん「2,3人がうつぶせでいました」
Gさん「連結部分では女性が四つん這いになっていました。その上を走るわけにはいかないので躊躇していたら後ろから押されまして、私も四つん這いになりました」
殺虫スプレーを噴射している間に、優先席前も密集していた乗客らが少しずつ前の車両に移動していくことができた。しかし、その後、服部被告はライターに着火した。これが検察側の主張する殺人未遂の実行行為に着手した瞬間だ。
Eさん(当時29歳)「スプレー缶を被告が捨てた後に銀色のようなものを取り出す様子を見ました」「おそらく銀色のジッポだろうと思いました」
弁護側「目撃した状態で犯人の表情はどのようなものでしたか?」
Eさん「笑っているわけでも、怒っているわけでもなく真顔って感じです」
弁護側「マスクがあったから表情は見えなかったのでは?」
Eさん「目元が変わっていなくて、淡々とやっているイメージです。冷静にやっているイメージでした」
■爆発音も…「炎が連結部分に迫っているのが見えた」
遂にオイルに火が付いたことで乗客らは、さらなる危機的な状況に追い込まれる。
Mさん(当時40歳)「火が出ているようなものを持っていたと思います」
検察側「何センチメートルくらいですか?」
Mさん「2,3センチメートルくらいですかね」
検察側「その火はどうなりましたか?」
Mさん「自分が次見たら左手か何かに引火しているように見えました。燃えているように感じました」「火が消えていなさそうなので、(座席の)ソファをたたいて消そうとしていました」
検察側「火を見てどう思いましたか?」
Mさん「命の危機を感じたので、これはまずいと思って再度逃げる体勢になりました」
Lさん「刃物を左手に持ち替えて、右手の何かを石油だまりに投げていました」
検察側「どのくらいの火になりましたか?」
Lさん「オレンジ色の火が腰の高さまで上がりました」「(火は)ゆっくりこちらの私たちに近づいて、左隣の男性が『熱い、熱い』と言っていました」
裁判官「火が広がったのはどこまで見ましたか?」
Lさん「縦長に炎の導火線のように感じました。炎が連結部分に迫っているのが見えました」
連結部分にカバンが引っかかり動けなくなっていたMさんは、連結部分入り口右側の小さな窓から隣の車両を見ていた。爆発音が聞こえたのはその直後だった。
Mさん「(連結部分入り口の)横の窓から若干見ました。その時は(優先席前に)人はいなくて、火が付いたタイミングを見たと思います」
検察側「その後、連結部分を覗き込んだ?」
Mさん「熱風、爆発音があって熱かったです」
検察側「逃げて気づいたことは?」
Mさん「マスクが少し焦げて、眉毛と髪の毛がチリチリになっていました」
検察側「その後は?」
Mさん「とりあえず『逃げないと』と思い、進行方向に逃げました」
こうして約4平方メートルに密集していた15人から20人ほどの乗客らは炎が衣服に引火する前に車両を移ることができた。大きなケガを負うことなく「九死に一生」だった。また、右胸をナイフで刺された男性もなんとか一命をとりとめた。男性は現在、右手の震えなどの後遺症が残っている。そのほかの12人に降りかかった精神的被害も計り知れない。
Iさん「仕事をする中で思い出して、仕事にならないときがあって、上司から指摘されて休職しました」
Jさん「男の人がとても怖くなりました。人が怖くなって、外に出られなくなりました。学校にも行けなくて、アルバイトもいけなくて生きている心地がしませんでした」
検察側「その他には?」
Jさん「就活が始まったころなので、行きたい説明会にも行けなくて、オンライン実施のものばかり参加しました」
Jさんは証言台ですすり泣きながら、強い言葉で服部被告を非難した。
検察側「被告への思いは?」
Jさん「同じ世界にいたくないと思います」「一生出てきてほしくないです」
■事件をきっかけに進む犯罪抑止策
走行中の電車内での犯行について、服部被告が参考にしたと述べているのが、3カ月前に発生した小田急線での無差別刺傷事件だ。対馬悠介受刑者(38)の裁判員裁判では、犯行の一部始終を映し出した防犯カメラ映像が証拠として提出された。
一方で、京王線特急電車には当時防犯カメラが搭載されていなかった。裁判の争点が異なるため簡単に比較できないが、小田急線の事件は提出された防犯カメラ映像が上映されるだけだった一方、京王線の事件では被害者となった乗客らの証人尋問に多くの時間が割かれた。被害者に事件の記憶を一つ一つ思い出させる証人尋問は精神的負担にもなりかねない。
京王電鉄はこの事件を受けて、リアルタイムで閲覧できる防犯カメラの設置を急いでいる。6月末時点で877両中791両に防犯カメラが設置され、今年度中に全車両に防犯カメラが設置される予定だ。京王電鉄は防犯カメラなどの対策を講じることで犯罪抑止に効果があるとしている。
12人に対する証人尋問では緊迫の瞬間や阿鼻叫喚の様子が明らかになったが、犯罪事実となる被告の行動については、証言がちぐはぐな部分が多く見られた。客観証拠がない中で一番の当事者である服部被告は自らの行為をどのように話すのか、証人尋問の1週間後に行われる被告人質問での言葉に傍聴席は注目した。
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