「七輪が飛んでいたり、荷車が飛んでいたり、色々なものが空を舞っていました」
100年前の1923年9月1日。正午前に発生した関東大震災の火災の様子だ。
最大で震度7と推定される猛烈な揺れに加え、津波、土石流などと様々な災害が発生した。
中でも多くの犠牲者を出したのが、東京都内や横浜市を中心に相次いだ火災だ。
震災ではおよそ10万人の犠牲者のうち、9割が火災で死亡したと推計され、東京・墨田区の両国駅前にあった被服廠跡(現在の都立横網町公園)ではおよそ4万人が死亡した。炎とともに巻き起こった竜巻状の旋風「火災旋風」が原因だった。
冒頭の言葉は、まさに被服廠跡の「火災旋風」を生き残った、現在107歳の市川ふみ子さんの体験だ。
年齢を重ね、自ら語るのが難しくなったふみ子さんに代わり、娘が取材に体験を語った。
(テレビ朝日報道局社会部 災害担当 中尾洋輔)
■「赤ちゃんを置いて逃げた…」死を覚悟した母の体験
ふみ子さんは被服廠跡で生き残って存命している、数少ないひとりだ。
入院中で、残念ながら直接話を聞くことは難しい状態だった。100年の月日の重さを突き付けられた。
しかし、「母の体験をせめて記録には残しておきたい」という思いを持っていた娘の征子さんが取材に応じ、伝聞の形で話を聞くことができた。
7月、私は横網町公園に建つ東京都慰霊堂を征子さんとともに訪ねることにした。ここには関東大震災の犠牲者約58000人の遺骨が納められている。慰霊堂に入り見上げると、崩れた建物や津波など、震災の悲惨さを偲ばせる多数の絵画が並んでいた。そのうちのひとつが、「火災旋風」だった。
巻き上がる炎の中、無数の人が地を這い、中には空に巻き上げられている人もいて、荒々しいタッチが印象深い。
炎は赤々と、人影は黒々と、対になった色づかいだ。私にはこの光景が「地獄」と思えた。
絵画を前に征子さんは、「あ、これだ…。(この絵を見て)こうだったって言っていましたね」と独り言のようにつぶやいた。
征子さんは、母・ふみ子さんの体験をはっきりとした口調で語りはじめる。
■「一番怖かったのが“竜巻”でした…」
以下は、征子さんがこれまでに何度となく聞いていた話だ。ふみ子さんは10年前には公の場で体験を語ったこともあり、その際の証言をよく覚えていた。
私は7歳の小学生でした。関東大震災の起こった9月1日は、夏休みが明けて始業式がある日でしたが、
私は具合が悪く、学校に行かずに家で休んでいました。
昼近くになって、仕事に出ていた両親も自宅に帰ってきて、昼ご飯の準備をしていました。
ご飯を食べる直前に、地震の揺れが襲いました。いきなりドーンとくる感じで、さらにぐらぐらと揺らされました。
その後私は、父と母、祖母、弟2人に妹の7人で、避難しようと被服廠跡に来ました。
なんにも持たずにそのまんま、とにかく逃げてきました。
ただ当時、被服廠跡には数えきれないくらいの人が逃げ込んできていました。
中には荷車に家財道具を積んで来た人や、昼だから七輪を持ち込んだ人もいました。
しばらくすると、どこからかワーッと火事が起こりました。
にわかに竜巻が立ち、七輪が飛んでいたり荷車が飛んでいたり…色々なものが空に舞いました。
中には宙に巻き上げられた人もいました。私もその一人でした。
飛ばされて落ちたところにたまたま水たまりがあって、私は助かりました。
水たまりがなければ、ひどいやけどをしたかもしれないし、助からなかったかもしれません。
落ちた近くには母がいて、いっしょにそばを流れる隅田川のほうに逃げ出しました。
被服廠跡には、多くの人が倒れていました。
足の踏み場もないほどで、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながらその上を歩きました。
母は背中に赤ちゃんを背負っていましたが、逃げている途中に誰かに「背中の赤ちゃん、死んでいるよ」と
声をかけられました。私たちは赤ちゃんをそこに置いて逃げました。
今だったら一緒に連れていくはずなのに…。後から思うと可哀想でなりません。
私の家族は7人でしたが、祖母と弟2人、妹の4人をここで亡くし、
生き残ったのは両親と私の3人だけになりました。
火災の混乱の中では、頭に火が付いて走り回っている女性も見ました。
当時の女性は髪を結って「丸髷」にしていた人も多く、鬢付け油で固めているから燃え上がってしまったのでしょう。
女性がその後、どうなったかはわかりません。
私も大きなけがはしませんでしたが、おでこの左上のところにやけどを負って、
年をとってもそこは髪が生えにくいままでした。
震災では本当に大変で、つらい思いをしました。
中でも一番怖かったのが“竜巻”でした。話していると、昨日のように思い出されてしまいます。
こんなことは私一人でたくさんです。
征子たち次の世代にはつらい思いをさせたくないと思っています。
■震災で人々を襲った「火災旋風」とは?
改めて、「火災旋風」について説明したい。
火災の際に発生する竜巻状の旋風で、熱で発生した上昇気流が関与しているとみられているが、今も発生の条件や詳しいメカニズムはわかっていない。
政府の中央防災会議の報告書によれば、関東大震災では大小合わせて東京では110個、横浜で30個と、多くの発生が報告されている。
特に被害が大きかったのが、市川ふみ子さんも巻き込まれた現在の東京・墨田区にあった「被服廠跡」だ。
ここでの死者は実に4万人近くに上ったとされるが、同報告書によれば、避難してきた人数も4万人規模といわれていることから、大半が死亡したとみられる。
また「被服廠跡」の当時の広さは66000m2だったことから、避難者1人当たりの面積は畳1枚程度しかなかったことがわかる。
敷地内の建物・樹木の存在や、ふみ子さんの証言どおり、多くの荷車や家財道具が持ち込まれたことも踏まえると、面積はさらに狭く、“ぎゅうぎゅう詰め”というべき状態だったと考えられる。
また報告書では、被服廠跡を火災旋風が襲った時の状況について、複数の証言から下記のように推測している。
「強風とともに火が荷物に着く。それと同時かその直後に、火柱状ではない黒煙渦の旋風が非常な音を伴い、被服廠跡にやってきた。旋風は2,3回やってきた。(中略)その旋風の少なくとも下の方が被服廠跡に来る前後に周囲の火災域の炎を含んだか、または、旋風の強風が周囲の炎をなびかせるか、あるいは(中略)火の粉をあおるかして、被服廠跡内の急速な延焼を引き起こした」。
また、被害が拡大した原因については脇を流れる隅田川の対岸で大規模な火災が広がっていて、かつ被服廠跡はその風下にあり、吹き付ける風が強かったことが影響した可能性もあるという。
■母の体験が忘れられる前に…「みんなも知っていかなきゃならない話」
征子さんは、自身がわからないことはわからないと話し、母から聞いたことだけを素直に、ありのままに話そうとしていた。
そして証言の合間には、この町で生まれ育った自身の子どものころの思い出も話してくれた。
「子どもの時には、関東大震災のあった9月1日は、“お祭りの日”だと思っていたんです。子どもの私は、ただ縁日が楽しみで来ていただけなんです。でも母は、『お参りはするもんだ』といって、震災記念堂(いまの東京都慰霊堂)でお参りは欠かしませんでした。子どもだった私たち兄妹もお参りしていました。母はお参りを済ますと、いつも長居はせずに帰っていきました。手を合わせて、ずっと、長く拝んでいたように思いますが、その理由を考えたことはなかったですね」。
ふみ子さんは後年になるまで火災旋風の体験を積極的には話さなかったという。
話を続ける中、それまであまり感情を見せなかった征子さんの目じりは、にじんでいるように見えた。
征子さんは、母といっしょに並んだ写真を持ってきていて、慰霊堂では「線香をあげるわ、お母さん」とつぶやいて手を合わせた。
そして母の体験を今伝える意味を、このように表現した。
「またあることで…ないとは限らないですよね。“あり得ること”だから。だから、みんなも知っていかなきゃならないと思いますよね。と言いながら、自分は何もできないんですけど」。
■歴史は語る 現代でも油断できない地震と火事
100年たって日本は、地震に伴う災害に強くなったのか。
建築技術が発達したほか、スプリンクラーなどの防火設備も整って、建物は燃えにくくなった。
しかし、東京都内では非常に多くの木造住宅が集まって火災の危険度が高いとされる「木密地域」が、23区内でも広く残されている。
10年前、専門家が政府の中央防災会議で報告した内容によれば、将来の首都直下地震で想定される被害の状況について、「木造住宅密集市街地などを中心に、大規模な延焼火災が発生する」などと記されている。
現代の東京でも、関東大震災の悲劇が繰り返される恐れもあるということだ。また、火災の発生は気象条件にも左右される。
関東大震災に関する中央防災会議の報告書によれば、震災当日の午後に都心の千代田区大手町の風は秒速15メートル前後で、夏の東京では「月に1度程度しか吹かないほどの強い風」だった。
こうした強い風による大規模火災は現代でも起こっていて、2016年には新潟・糸魚川市で、たった1軒の飲食店の失火から、147棟が焼けた。
糸魚川市の火災に関して、当時の消防白書によれば被災したエリアは古い木造建物が9割と多かったものの比較的新しい建物も混在していて、けっして木造建物だけが原因ではない。
ただ、出火した当日の風は注意報が発表されるほど強く、延焼が広がっていったのだという。
この火災では山側から海に向けて燃え広がったが、仮に風が海以外に向けて吹いていたならば、さらに被害が広がった恐れもある。
火災に詳しい東京大学の廣井悠教授は、ANNの取材に対して「現代でも風などの条件次第で住宅街が広く燃えたり、地震なら高層ビルに延焼したりする可能性もある」と警告している。
直近の事例でも、8月にハワイで発生した山火事で、市街地が広く燃えて多数の死者が出た。
また、火災旋風も同様に今でも国内外で発生の報告が続いており、今後の日本、特に将来の首都直下地震でも危険は残されたままだ。
先述した10年前の専門家の報告は、「木密地域」をはじめとする市街地で火災旋風が発生すると警告している。
発生した場合には、人々が逃げ場をなくすなどして、火災による死亡者が約16000人に上る可能性があるという。
単に火災を防ぐだけでなく、被害をより深刻化させる火災旋風からどう逃げるかという課題が浮かび上がる。
関東大震災から100年たってもなお、ふみ子さんの体験は“古くて新しい話”であるということを考えていきたい。
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