小学校に津波“90人の命守った”大震災前日の行動と避難マニュアル超えた校長の決断[2024/03/10 23:30]

13年前の3月10日。
翌日、震災が起きることなど誰も知らなかったこの日、全校集会で「地震が来るかもしれない」と呼びかけた小学校がありました。
そして、その言葉は児童ら90人の命を守ることに…。

■小学校に津波…“90人の命守った”前日の行動

(渡辺瑠海アナウンサー)「こちら津波によって押し倒されたものが、そのままになっています。そして、あちら津波が2階の天井近くまで来ていたことが分かります。当時の状況が至る所にそのまま残されていますね」
“震災遺構”として保存されている、宮城県山元町の中浜小学校には、10日、全国各地から見学者が訪れていました。
(群馬県からの見学者)「仕事でこっちのほうまで来る用事がありまして。せっかくなので見学してどんな感じか自分で身をもって体験したかった」
(17歳)「すごかったんだな、津波」
(12歳)「すごく大変だなと思いました」
(宮城・白石市からの見学者)「この子はまだ震災の時には生まれてなかったんですよ。タイムリーには分からないと思うんですけど、こういうことがあったんだよっていうことを少しでも覚えていれば…」
2011年3月11日、巨大津波は、海からおよそ400メートルにたつ、中浜小学校にも押し寄せました。
 
「大きな建物は原型をとどめていますが、その周りにおそらくあったであろう住宅、そして道路などは完全に水没してしまっています」
津波は、2階建て校舎の2階の天井まで達したものの、児童ら90人は全員無事。その命を守ったのは、震災前日のある行動でした。

当時の校長、井上剛さんです。                  
(渡辺瑠海アナウンサー)「流木も流れてきているんですね」
(当時中浜小学校校長井上剛さん(66))「海岸に生えていた松の木だと思います」
(渡辺瑠海アナウンサー)「机、椅子、下駄箱もここにあって…」
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「ここが校舎に入ってきたがれきも一緒に、いろんな津波がここに合わさっている場所ですね」
津波の爪痕は、校舎の2階にも。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「入ってきた波が壁に当たって真上に上がっている。それでこの壁(天井)は落ちています。2階が完全に水没をしているという状況ですね。2階にいたら全員助からなかった」
あの日、小学校にいたのは児童や教職員、近所の住民ら合わせて90人。井上さんはこの全員を屋上に避難させることを決断したのです。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「当日の判断。やっぱりマニュアル通りじゃなくて、大事なのは日頃からの備え、そういうものがいろいろ合わさって、我々は屋上に上がってきた」
これは震災前の中浜小学校の“避難マニュアル”です。津波の時は内陸の中学校に避難することが書かれていて、井上さんはマニュアルとは異なる決断を下したのです。
後押しになったのは、3月9日に発生した三陸沖を震源とした地震です。
これを受けて、3月10日、当時校長だった井上さんや教頭らで“避難マニュアル”を再確認。内陸の中学校まで、「徒歩で最低でも20分は必要」との注釈を読み、避難が間に合わない恐れを考えたと言います。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「安全な場所に20分かかるって絶対大事なことなんですね。津波の場合には来たら突然来るので、時間がもしなかったら上に上がる、あれば内陸に」
井上さんらは「津波の到達予想時刻」をもとに臨機応変に、避難先を判断することを決めて、それを教職員の間で共有。

同じく3月10日に開いた、臨時の全校朝会で、児童にも呼びかけました。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「9日(の地震)の時に子どもたちの中で防災頭巾をかぶっていなかった子が何人かいたので『今度また大きな地震があるかもしれないから、防災頭巾をかぶりましょうね』という話をしたんですね。その話を子どもたち真剣に聞いてくれていました」
そして、迎えた、震災当日の3月11日―。
大きな揺れの直後に大津波警報が発表され、「津波の到達予想時刻」は「10分後」でした。
井上さんは即座に、屋上に上がることを選択。教職員や児童らに混乱はなく、スムーズに避難が完了。自衛隊によって無事救出されたのです。震災の前日を振り返って、重要だったのは…
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「打ち合わせ、時間が基準。それから臨時朝会を開いて、そしてみんなが情報共有して危機感が上がった。小さな備えの積み重ねというのが、とっても大事になるんじゃないでしょうか」

■「1分後に地震があるかも」校長が伝えたい“教訓”

屋上に避難して助かった児童の1人、鈴木寿紀さん。震災当時は小学6年生でした。あの日、児童らはこの屋上の屋根裏倉庫で一夜を過ごしました。
Q.鈴木さんは当時どちらにいらっしゃったんですか?
(当時小学6年生鈴木寿紀さん(25))「自分はそっちのこの青いボックスのその隣にいた感じですね。今思えば確かにこの屋上に逃げないで、歩いて避難していたら、自分たちどうなっていたんだろうとか考えたことはありますね」

東日本大震災から、13年になります。
Q.鈴木さんのお家はどの辺だったんですか?
(当時小学6年生鈴木寿紀さん(25))「今ハウスが建っている、そっち側のところになるんですけど、ここら辺も全部家とかほとんどだったんですけど、本当に寂しくなったなって感じですね」
山元町では震災を境に、人口の流出が進み、過疎化が深刻になっています。
町に残り、漁師の道を歩んでいる鈴木さん。早く一人前になって、地域の復興を下支えしたいと言います。
(当時小学6年生鈴木寿紀さん(25))「やっぱりあの津波で助かったからこそ、新たにやっぱりいろんなことに挑戦したいなっていうのも出てきて、多くの人たちにその魚をとって食べてもらいたいっていう思いもあるし、漁師も減っていっているので、新たに漁師をやりたいっていう人が増えてきたらいいなって自分は思います」
ことしは、元日に石川県の能登半島で最大震度7の地震が発生。2月下旬からは千葉県東方沖で地震活動が活発化するなど、より一層の備えが必要になっています。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「ここの校舎を4つの大きな津波が突き抜けているんですが…」
井上さんは、定年退職後に語り部となり、全国から訪れる人たちに、“事前の備え”の大切さを伝え続けています。
(当時中浜小学校校長井上剛さん)「災害に対する備えというのは起きてからでは備えになりません。これからいつ1分後に大きな地震あるかどうかというのは、きょうだって分からないです」

3月10日『サンデーステーション』より

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