地震発生から3週間が経つ頃、私は輪島市の避難所へ取材に向かった。発災直後にも訪れた避難所だ。
共用スペースには食料や衛生用品などの支援物資が入ったダンボールが山積みになっていて自衛隊の入浴支援も行われていた。発災直後と比べ環境の整備は進んでいたが、避難所で過ごす住民の方の疲労が溜まってきているのは、明白だった。
(テレビ朝日アナウンサー 佐々木一真)
「お話を聞かせてくれませんか」と声をかけて良いのだろうか
慣れない避難所での生活、先の見えない不安、深夜早朝を問わず鳴り響くスマホの緊急地震速報。特に緊急地震速報のアラーム音は、現地で取材する中で私も何度も経験し、その音がいかに、恐怖と精神的な疲れをもたらすかを、身をもって感じていた。
また避難所では、当然子供から高齢者まで様々な人が生活している。集団生活を送ると様々な問題が生じる。例えば、“寝言”。当初は、寝言を言っている人がいても、くすくすとみんなで笑い合い和やかな雰囲気だったそうだ。ただそれも1週間、2週間と時が経つとストレスやトラブルのもとに変わっていく。
「支援物資が行き渡り始めた今、皆さんが必要としているものはなんだろう」
話を聞きたいが、避難者の方の表情は暗い。私がテレビ局の人間だと気が付くと、うつむきながら足早に歩き去る方が、以前訪れた時よりも多くなった気がした。そんな状況下で「お話を聞かせてくれませんか」と声をかけて良いのだろうか。その自分の声掛けが、さらに被災者の方のストレスを助長するのではないか。大きな葛藤があった。
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「お兄さん、取材のかた?僕を取材してくれない?」「お兄さん、取材のかた?僕を取材してくれない?」
東日本大震災が発生した時、私は中学1年生だった。目を疑うような被災地の様子がテレビで連日報じられ、それまでニュースなどほとんど見てこなかった私がニュースをかじりつくように見ていた。そして、いつしかニュースを伝える仕事がしたいと思うようになった。
いち早く被災地に入って被害状況を伝え、被災者の声を届ける、そして困っている人の役に立ちたい。そう考え、アナウンサーの道を歩むことを決めた。
しかし、今アナウンサーとして被災地に立ち、感じるのは葛藤と無力感だった。
私が避難所の入り口で立ちつくしていると、ある男性が声をかけてくれた。
被災者の方にどう声をかけたらよいのか分からなくなっていた私は、驚いた。
その男性は、8歳の息子と6歳の娘を持つお父さんだった。輪島市内で配管工事の仕事をしていて、地震発生時は自宅で子供と遊んでいたそうだ。家族は全員無事だったが、自宅はとても住める状況ではなく、ずっと避難所に身を寄せているという。その男性は、少しはにかみながら、しかし淡々とこう話した。
そう話す男性の目からは、色んな感情がないまぜになって伝わってきた。悲しみ、失意、落胆…どんな言葉でも形容できない、これまでの私の人生で見たことがない目だった。
しかし、不安な気持ちにさせないためだろうか、男性は、子供たちの前では気丈に振る舞っているように見えた。
地震発生から1カ月が経とうとしているが今も避難所での生活を余儀なくされている方が多くいる。多くの市や町でまだ断水が続き、仮設住宅の建設も始まったが、まだまだ課題も多い。
今も震災を乗り越えようと戦っている方がいる。その方たちに、孤独を感じさせる報道になってはいないだろうか。輪島の避難所で声をかけてくれたこの男性は、災害報道において大切なことを教えてくれた気がした。
いつかこの男性の笑顔を見ることができるまで取材を続けることが今の自分にできる、せめてもの恩返しだ。










