能登半島地震で壊滅的な被害を受けた石川県輪島市の観光名所「輪島朝市」で食堂を経営していた男性が、キッチンカーで1年2カ月ぶりに営業を再開した。小さな車での移動販売という慣れないスタイルに四苦八苦しながらも、復興の第一歩を進みだした。
うっすらと雪が残る3月上旬。
営業再開を翌日に控え、食堂店主の紙浩之さん(55)は慌ただしい一日を過ごしていた。

輪島市鳳至(ふげし)小学校のグラウンドに建設された仮設住宅のワンルーム。百円ショップで買ったB5のメモパッドに筆を走らせる。
刺身、おにぎり、とん汁、いしる干しサバ、煮しめ…
ボールペンで下書きをしたあと、筆ペンで一文字ずつ丁寧に清書していく。8品が並ぶ手書きのメニューを書き終えると、急いで車に乗り込んだ。30分ほどかけて輪島市郊外にある3カ所の仮設住宅に向かうと、掲示板に手書きのメニューを画鋲で止めていった。一番最後の仮設住宅に着いたとき、時刻はすでに午後3時を回ろうとしていた。人通りは少ない。「あした、買いにきてくれるだろうか」

帰宅すると、数日前にオンライン注文しておいた看板が、ちょうど宅配業者から届いた。大きく店名を書き込んでいく。
朝市さかば
これも、手書きだ。
大きさやバランスを何度も変えながら、縦60センチ、横45センチのボードに白い太めのマジックで清書した。
書き終えると、ふーっと一息つき、額をぬぐった。
「みた?この5文字書くだけでこの汗」
「ようやくここまできた。プレッシャーがあるけど、売れても売れなくても、やるしかない」

母の一周忌に営業再開
紙さんは、震災前まで12年、朝市通りで食堂「朝市さかば」を切り盛りしていた。観光客が朝市で買った食材を店に持ち込めるようにして、格安で調理したり、地魚だけを使った料理を提供したり、といった手法で話題をよび、雑誌やテレビに取り上げられたこともある。
地震によって発生した大規模な火災で、店は全焼。焼け野原をみつめながら、当時は「絶望しかない」と、取材に語っていた。

紙さんの店には、アルバイトや手伝いに来てくれる若者たちがいた。子どもがいない紙さんにとって、自分の店に来てくれていた若者は、わが子のように可愛く、「その子たちの将来を、考えるようになった」。いつか、彼らが戻ってきたいと思えるような町を残したい。絶望しか抱けなかった未来は、いつしか食堂、そして朝市を再建したいという信念に変わっていった。
輪島市では2024年10月、門前町の総持寺通り商店街ですでに仮設商店街が整備され、プレハブでできた建物内で飲食店や衣料販売店など約10店が営業を再開した。輪島朝市の代名詞でもあった露店の店主たちも、全国に出向いて「出張輪島朝市」をしたり、輪島市内の商業施設で営業を始めたりしている。

だが、4万9000平方メートルが焼失した「朝市通り」を含む一帯は、250にのぼる被災建物の撤去をはじめ、更地にする作業が3月末まで続いているため、跡地活用に向けた計画や、仮設店舗の建設に向けた動きは、他エリアと比べると進んでいないのが現状だ。

いつか元の場所で店舗を再開したいーー。そんな希望を抱きながら、生活のために、自宅から車で40分の穴水町にある災害ごみの仮置き場で働くかたわら、営業再開の道を模索していた。
2024年の年末、県の補助金を使って中古のキッチンカーを購入。病に倒れて入院したり、災害ごみ置き場での作業中にケガをしたり、体の不調とも格闘しながら、再開までの準備を少しずつ進めてきた。
年が明けた3月8日、営業再開すると決めた日を迎えた。カラリと晴れた、肌寒い朝だった。

この日は紙さんにとって特別な思いが詰まった日だ。
1年前、闘病生活をしていた母・和子さん(当時76)が他界した。当時、輪島市内にある葬儀場は避難所になっていて使えず、葬式をあげることもできなかった。京都に避難していたお坊さんが駆けつけて念仏を長めに唱えてくれた。父と弟の3人で静かに見送った。
「ちょうど1年よ、きょうで」。キッチンカーに荷物を詰め込みながら、紙さんはつぶやいた。
縫子の仕事をしていた和子さんは、紙さんがお店を始めると「朝市さかば」の入り口にかける暖簾をつくってくれた。自宅近くでのスーパーでの買い物をやめ、わざわざ朝市通りまで歩いて日々の買い物をするようになったという。「おふくろはずっと見て(くれて)いた。店には入らなかったけどね、店の前まで来て俺を見とった」
「まな板忘れた!」「サバも…」1年ぶりの仕事にてんやわんや

最後は病を患い、外出もままならくなっていった和子さん。そんな母への思いもあったのだろうか。営業を再開する場所は、高齢者が多く住む仮設住宅で、と心に決めていた。
市中心部から少し離れた、南志見地区にある仮設にキッチンカーを乗り入れた。
到着早々、紙さんの顔が真っ青だ。
「サバ忘れた…」
メニューにもあった、いしる干しにして売る予定だったサバを、冷凍庫に入れっぱなしにしてしまったのだ。

「前の日も、今朝もチェックしとるのよ。(キッチンカーに)積み込むときに忘れてしまった」と残念そうだ。
実は、忘れ物はこれだけでなかった。出発直後もアタフタとしていた。「まな板忘れた!」
さすがに仕事にならないので、取りに戻った。
1年2カ月ぶりに始める商売。感覚を取り戻すには少し時間がかかりそうだ。
待てど暮らせど、お客さんは来なかった。時折、掲示板の張り紙メニューを見たというお年寄りがキッチンカーをのぞきに来るが、紙さんは世間話をするだけで、特に売り込みをするわけでもない。
「呼び込みとかしないんですか」。記者が問うと、首を横に振った。
「今日は顔を覚えてもらえたら、それでええ」
結局、一食も売れないまま、次の場所に移動することに。

次の場所は、輪島市町野町に建てられた仮設住宅。2024年9月に、豪雨による激しい被害を受けた地域でもある。ちょうどお昼時だったからか、張り紙のメニューを見た被災者が、列を作って待ってくれていた。
「お弁当売るの?」
お年寄りの女性数人がキッチンカーを次々とのぞきこむ。
「いや、注文を受けてから作るんよ」
紙さんが答えると「じゃあ、とん汁二つ!」。初めての注文が入った。

店舗とは違い、小さなキッチンカーの車内には冷蔵庫やガスレンジも詰め込まれ、思った以上に狭かった。外の風が車内に入り込んで火が思うように付かず、仕込んだ鍋を温めるのも一苦労。女性が「速さが勝負やぞ」とカツを入れると、紙さんは「今日からなもんで手際が悪くてごめんね」と苦笑した。
少しずつ人も増えて、刺身の注文も入った。被災者の一人は「いま切ってくれるってね。新鮮やないの」と嬉しそうだった。
慌ただしく30分が過ぎた。ピークが過ぎたころ、女性が二人やってきた。
お目当ての煮しめが売り切れたと聞いて「え!もう終わったんけ」とガッカリそうに声を上げた。
「今度いっぱい持ってくるさけえ、何か欲しいものがあったら言ってね」
申し訳なさそうにしながらも、そう話す紙さんの顔は明るかった。
「もうないの、とか今度持ってきてね、と言われるとうれしい。やりがいを感じるよ」。一段落して、しみじみと話す紙さん。「速さが勝負だぞ」と怒られても、「しゃべってくれるのがうれしいよ。売れる、売れないよりも、地域の人と交流できるのがほんとうにうれしい」と目を細めた。
(取材:今村優莉 撮影:井上祐介)