社会

2025年10月17日 17:20

「芸術かプロパガンダか」の対立ではなく…戦争画が伝える現代への教訓 画家が戦争を描いた背景は?学芸員が解説

「芸術かプロパガンダか」の対立ではなく…戦争画が伝える現代への教訓 画家が戦争を描いた背景は?学芸員が解説
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戦争の最中にも「美術」があったのか。最初にその絵を見た時、そう感じた。

横長の画面に、晴れ渡った空と、地平線いっぱいに広がる草原が描かれている。さわやかな風景のなかで、兵士たちが戦っている。地に這う兵士もいれば、戦車の上から敵兵を銃剣で刺す兵士もいる。

作品のタイトルは《哈爾哈河畔之戦闘(はるはかはんのせんとう)》。作者は藤田嗣治だった。フランスで活躍した藤田嗣治が、戦争を題材に作品を多く描いていたことを知らず、とても驚いた。

2025年は戦後80年。東京国立近代美術館で開かれている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」で、戦争画が多く展示されている…とSNSで話題になっていた。私は東京国立近代美術館を訪ね、作品群と向かい合い、企画課長の鈴木勝雄さんに話を聞いた。

(テレビ朝日報道局・江向彩也夏)

戦後80年 次の世代への継承

今回、この展覧会はどのような意図で企画されたのか。鈴木さんはこう語る。

「今回のこの展覧会は、東京国立近代美術館が保管する戦争記録画をもう一回読み直して、これらの作品をこれから先どのように活用すべきかを考える機会にしたいと思いました。今年は戦後80年というタイミングですから、これらの絵画を次の世代にどう継承したらよいのかという視点で展覧会を企画しました」

戦争を描いた絵画は、画家が戦争中の風景を描いたものなど、膨大な数の作品があるという。そのうち東京国立近代美術館には、画家が軍などの嘱託を受けて公式記録として描かせた「作戦記録画」が保管されている。その多くが前線の戦闘場面を描いたものだ。

これらの戦争画は戦時中、朝日新聞社などによる巡回展で、全国各地で展示された。来場者は絵画を通じて、前線で戦う兵士たちの様子を垣間見た。国威発揚やプロパガンダの側面も持つ作品だ。

東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の展示室「1章|絵画は何を伝えたか」
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の1章「絵画は何を伝えたか」

戦後まもなく、作戦記録画などの戦争画約150点は「アメリカで展覧会を開く」という名目で接収され、“戦利品”としてアメリカに送られ、国防総省などで保管されていた。しかし、日本で作品群の返還を求める動きが高まり、1970年に「無期限貸与」という形で返還され、東京国立近代美術館に保管された。その後、1977年3月にはこのうち数十点を展示する展覧会が開かれる予定だったが、開幕直前に中止されたこともある。

以降、東京国立近代美術館の収蔵作品展のなかでは戦争画がたびたび展示され、1994年に美術史学会のシンポジウム「戦争と美術」が開かれてからは戦争画の研究も進んだ。2015年には、収蔵作品展「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」で、藤田の戦争画もまとめて展示された。

東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の展示室「3章|戦場のスペクタクル」
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の3章「戦場のスペクタクル」

しかしこれまで、東京国立近代美術館で戦争画そのものを主軸に据えた企画展が開かれたことはなかった。「記録をひらく 記憶をつむぐ」は、東京国立近代美術館が初めて戦争画をメインに取り上げた企画展でもあるという。今回の企画展で展示されている作品・資料約280点のうち24点が「無期限貸与」の戦争画となる。

「この20年くらいの間で、当館がコレクション展のなかで試みてきた様々な戦争画の見せ方を集大成した展覧会です」と鈴木さんは語る。

戦争を伝える“舞台裏”

では、今回の企画展では、どんな作品・資料が展示されたのか。最初の展示室には、「1章|絵画は何を伝えたのか」というタイトルが掲げられ、ある絵画が展示されている。

宮本三郎が描いた《本間、ウエンライト会見図》だ。

《本間、ウエンライト会見図》(1944年)油彩・キャンバス、190.0×250.0cm 宮本三郎作、東京国立近代美術館(無期限貸与)?Mineko Miyamoto 2025/JAA2500152
《本間、ウエンライト会見図》(1944年)油彩・キャンバス、190.0×250.0cm 宮本三郎作、東京国立近代美術館(無期限貸与)(C)Mineko Miyamoto 2025/JAA2500152

宮本三郎は1905年に石川県で生まれ、1974年に69歳で亡くなった画家だ。戦時中、従軍画家として中国やマレー半島、シンガポールなどにわたり、数々の作戦記録画を残していた。

1930年撮影 宮本三郎(提供:朝日新聞社)
1930年撮影 宮本三郎(提供:朝日新聞社)

《本間、ウエンライト会見図》は、フィリピン・コレヒドールでの攻防戦の後、1942年にあった停戦会見の様子を描いている。この絵画には特徴があると鈴木さんは言う。

「会見図とはいいながら、実際の会見は画面の左半分に描かれています。会見をニュース映画として記録するカメラマンを、さらにその後ろから眺めるという、かなり特殊な構図であることにお気づきになると思います。言ってみれば、メディアがどう戦争報道をしているのかを描いた絵画です。作戦記録画という絵画も含めて、メディアが戦争をどう伝えてきたのか、その舞台裏を描いた貴重な作例だと思います」

戦争の会見を客観的に眺める絵画の構図と、いまを生きる私たちが戦争を見つめなおす“視点”が重なるような構成だ。

《本間、ウエンライト会見図》で描かれている、ニュース映画の撮影者ら?Mineko Miyamoto 2025/JAA2500152
《本間、ウエンライト会見図》の一部 ニュース映画の撮影者らが描かれている(C)Mineko Miyamoto 2025/JAA2500152

また展覧会で、絵画と並んで展示されているのは、ポスターや新聞、雑誌やニュース映画といった、当時の「メディア」だ。展示の狙いについて鈴木さんは語る。

「今回の展覧会のアプローチは、戦時のメディア空間を展示空間のなかに再現して、絵画・美術が果たした役割は何だったのか、その効果はいかなるものだったのかを見極めようとするものです。ポイントは、現地を瞬時に撮影して記録できるカメラの“速報性”と比較して、絵画は制作するのに時間がかかる、“遅いメディア”ということです」
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の展示室「1章|絵画は何を伝えたか」
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の1章「絵画は何を伝えたか」

実際、《本間、ウエンライト会見図》が発表されたのは1944年。停戦会見から約2年が経過してから公開されている。情報を伝えるまでに時間がかかる“メディア”としての絵画について、鈴木さんは話す。

「遅いメディアである絵画の強みもある。写真や当時のニュース映画はモノクロでしたが絵には色がある。また画家がいろんな想像力を働かせて演出することができます。さらに作戦記録画は、観客を包み込むような大画面であるという特徴もあります。当時戦争画を推進した軍の担当者は、『湿度や気象、感情というものは絵画でないと伝わらない』といったコメントを残しています」

作品を見つめると、現地で当時の会見を見守っているような気分になる。

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絵に描かれていないことは何か

次の2章には「アジアへの/からのまなざし」というタイトルが掲げられている。この展示室にある作品の一つが、田辺至が描いた《南京空襲》だ。

《南京空襲》(1940年)油彩・キャンバス、145.5×194.5cm 田辺至作、東京国立近代美術館(無期限貸与)
《南京空襲》(1940年)油彩・キャンバス、145.5×194.5cm 田辺至作、東京国立近代美術館(無期限貸与)

田辺至は1886年に東京で生まれ、1968年に81歳で亡くなった画家だ。田辺は軍の嘱託として、日中戦争のさなか中国へ派遣され、記録画を制作していたという。《南京空襲》はその記録画の一つ。1940年に発表されている。

田辺至(提供:朝日新聞社)
田辺至(提供:朝日新聞社)
「この時代、多くの画家が空爆のイメージを描いています。そのイメージというのは、上空から爆撃機が地上に向けて爆弾を落とすという作戦を、飛行機の上から見下ろす視点で描くというもの。同じような主題が、同じような構図で、当時たくさん描かれています」

画面の右側に日本軍の飛行機が、左下に煙の上がる南京の町が描かれている。

「この絵が描いていることと、この絵が描いていないことの両面を考えて欲しい。この絵を見た時に、地上の光景を一望の下に見下ろす視点に気づかされます。でも、それは力を持っている側のまなざしの優位性を表しているのではないかと問いかけたいんですね」
《南京空襲》では飛行機と町の煙は描かれているが、町に住む人も攻撃をする人も描かれていない
《南京空襲》の一部 飛行機と町の煙は描かれているが、住人も兵士も描かれていない

確かにこの絵をじっくり見ると、日本軍の飛行機と、上空から見た景色だけが描かれていて、人間は誰も描かれていない。どこか無機質な印象も受ける絵だ。

「他方で、この絵から見えなくなるものは何なのか。爆撃を受けている地上の光景がこの絵からは伝わってこない。この構図をとる限り、地上の被害の詳細は描きこまれないのです。絵に描かれていない現実があることを想像することが大切です」

私たちに訴えかける鋭い視線

歩みを進めると、ある絵が目に入る。猪熊弦一郎が描いた《長江埠の子供達》。戦禍のなかで難民化する中国の子どもたちを描いた作品だという。

《長江埠の子供達》(1941 年) 油彩・カンヴァス、130.5×194.0cm 猪熊弦一郎作、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵 ?The MIMOCA Foundation
《長江埠の子供達》(1941 年) 油彩・カンヴァス、130.5×194.0cm 猪熊弦一郎作、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵 (C)The MIMOCA Foundation

猪熊弦一郎は1902年に香川県で生まれ、1993年に90歳で亡くなった画家だ。従軍画家として作戦記録画を描いた画家でもあるが、《長江埠の子供達》は自ら現地へ行って制作し、1941年に発表した作品だ。

1941年5月17日撮影 従軍画家の猪熊源一郎(右)と佐藤敬(提供:朝日新聞社)
1941年5月17日撮影 従軍画家の猪熊源一郎(右)と佐藤敬(提供:朝日新聞社)
「この絵を前に気づくのは、じっとこちらを見つめている、子供たちの冷ややかな視線です。空爆のイメージの外に追いやられてしまうのが、このような地上の光景なのです」
《長江埠の子供達》に描かれた子供達はじっとこちらを見つめている ?The MIMOCA Foundation
《長江埠の子供達》の一部 描かれた人々はじっとこちらを見つめている (C)The MIMOCA Foundation

戦後、全国各地の空襲被害や、民間人を巻き込んで繰り広げられた沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下については、これまでに家族や学校から教わった人も多かったと思う。しかし戦時中に日本が戦線を拡大する過程において占領地でどんなことが起きていたのか、家族からじかに聞いたことのある人は、どれだけいるのだろう。

「猪熊が描いた子どもたちは、この絵の目の前に立つ2025年の現在の私たちにも、その鋭い視線を投げかけてきます。戦争という複雑な出来事を複数の角度から想像する手がかりとなる貴重な作品だと思います」
《長江埠の子供達》の一部 ?The MIMOCA Foundation
《長江埠の子供達》の一部 描かれた人々はいまも私たちに視線を投げかける (C)The MIMOCA Foundation

戦時下にどんな加害をしたのか、どんな被害を受けたのか。一口に“戦争”といっても、その体験や記憶は一人ひとり異なっている。作品と向き合い、改めてその事実に気づかされる。

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横長の画面に描く“効果”

3章の「戦場のスペクタクル」には、戦闘風景が大画面に臨場感あふれる筆致で描かれた作戦記録画が並ぶ。このなかに私がかつて出会った戦争画、藤田嗣治の《哈爾哈河畔之戦闘》が展示されている。

《哈爾哈河畔之戦闘》の左半分 ほふく前進する兵士らが描かれている ?Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208
《哈爾哈河畔之戦闘》の一部 前進する兵士らが描かれている (C)Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208

藤田嗣治は1886年に東京で生まれ、1913年にパリへ渡航。淡い乳白色の下地や細い筆で線を描く独特の表現で一世を風靡した。そして1933年に日本へ戻り、1938年から従軍画家になり、陸軍美術協会の理事長も務めていた。

1940年10月12日撮影 ノモンハンから帰国した陸軍省嘱託の藤田嗣治(提供:朝日新聞社)
1940年10月12日撮影 ノモンハンから帰国した陸軍省嘱託の藤田嗣治(提供:朝日新聞社)

《哈爾哈河畔之戦闘》は、1939年に当時の満州とモンゴルの国境をめぐって日本軍とソ連軍が争ったノモンハン事件を描いた作品だ。戦闘後の1940年に藤田は現地を視察し、翌1941年に作品を発表している。それにしても、ここまで横長のキャンバスに描かれた作品はあまり見たことがない。鈴木さんはこう解説する。

「この横長の画面は、近代に登場する視覚装置としての“パノラマ”のような、観客を包み込む広がりを持っています。このフォーマットを採用することで、日本とは異なる大陸の風景を特徴づける地平線の広がりをとらえています。」
ノモンハン事件を描いた《哈爾哈河畔之戦闘》を検分する藤田嗣治ら(提供:朝日新聞社)
ノモンハン事件を描いた《哈爾哈河畔之戦闘》を検分する藤田嗣治ら(提供:朝日新聞社)

展示室には、「戦場のスペクタクル」というタイトルが掲げられている。なぜこのタイトルの下、《哈爾哈河畔之戦闘》を展示したのか、鈴木さんはこう語る。

「この章では、戦場・戦闘場面を伝えるうえで、モノクロの写真や記録映像とは異なる絵画ならではの効果を考察しています」

《哈爾哈河畔之戦闘》の近くには、鶴田吾郎が描いた《神兵パレンバンに降下す》という作品も展示されている。

《神兵パレンバンに降下す》(1942年)油彩・キャンバス、194.0×255.0cm 鶴田吾郎作、東京国立近代美術館(無期限貸与)
《神兵パレンバンに降下す》(1942年)油彩・キャンバス、194.0×255.0cm 鶴田吾郎作、東京国立近代美術館(無期限貸与)

この作品で描かれているのは、1942年に日本軍の落下傘部隊が、当時オランダの植民地だったスマトラ島の都市・パレンバンに奇襲した空挺作戦だ。

白い雲が浮かぶ青空をパラシュートで降りてくる日本兵や、降下を終えて戦闘に入る日本兵が描かれている。のどかな風景が広がる土地で、血なまぐさくて恐ろしい戦闘が繰り広げられる。キャンバスに広がるギャップのある光景は、現実のものでないような雰囲気を漂わせているようにも見える。

戦争の美化で生まれた“神話”

4章のタイトルは「神話の生成」。ここで取り上げられている作品に、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》がある。

雪が積もる孤島で、兵士らが敵味方入り乱れて戦い、屍が折り重なっている。戦意高揚の絵というよりも、鎮魂の絵のようにも感じる。

《アッツ島玉砕》(1943年)油彩・キャンバス、193.5×259.5cm 藤田嗣治作、東京国立近代美術館(無期限貸与)?Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208
《アッツ島玉砕》(1943年)油彩・キャンバス、193.5×259.5cm 藤田嗣治作、東京国立近代美術館(無期限貸与)(C)Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208

アッツ島は、アメリカ・アラスカ州のアリューシャン列島の西端にある。7〜8月を除いたほとんどの時期は、霧や雪に覆われている。1942年6月に日本軍が占領したが、1943年5月に米兵約1万1千人が戦闘を仕掛けて奪還。当時島にいた日本兵約2600人が亡くなったとされている。

絵画のそばには、1943年5月31日付の朝日新聞朝刊1面のコピーが展示されている。鈴木さんは展示の意図についてこう話す。

「アッツ島で守備隊が全滅した時に、当時の新聞報道がそれをどのように伝えたかというと、初めて『玉砕』という言葉を使いました。“全滅”を“玉砕”と言い換えることによって、犠牲になった兵士たちの戦いを美化していくわけです。“玉砕”という言葉の浸透と並行して、藤田はこの作品を構想し、極めて短期間のうちに完成させました。それを展覧会で発表する直前に、作品の絵柄が新聞で紹介されています。新聞報道と美術が連動して、アッツ島の戦闘を神話化していったのです。このようなメディアの働きが、作品とその前段に位置する新聞記事を比較することで見えてきます」
《アッツ島玉砕》の一部 銃剣を振りかざす兵士もいれば、倒れて動かない兵士もいる?Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208
《アッツ島玉砕》の一部 銃剣を振りかざす兵士もいれば、倒れて動かない兵士もいる(C)Foundation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 C5208

1面の見出しには、こんな言葉が並ぶ。

「アッツ島に皇軍の神髄を発揮」
「山崎部隊長ら全将兵 壮絶・夜襲を敢行玉砕」

藤田が《アッツ島玉砕》を発表したのは、戦闘から約3か月後の1943年8月31日。現地には行かず、想像力を働かせて描いたという。初めて発表された場は展覧会ではなく、朝日新聞の紙面だった。翌9月1日から東京・上野で開かれた「決戦美術展覧会」に出品されたという。

「当時メディアのなかで先行するのは“言葉”でした。新聞、ラジオ報道における言葉が先行して、その文脈を視覚的な表現が追いかけていくという流れになっていた。そのような状況のなかで個々の美術作品がどのように解釈されうるのかを、現代の視点から俯瞰的に考察することが重要です」

戦時中、朝日新聞社などの新聞社は、国内に残る人々に戦地の様子を伝え戦意高揚を図るために、全国各地で戦争画を展示する展覧会を開いていた。《アッツ島玉砕》が展示された会場では絵を拝む来場客もいたという。

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総力戦体制にのみ込まれる日常

では、国内で兵士らの帰りを待つ人々を描いた作品はあるのか。次の5章は「日常生活の中の戦争」というタイトルが掲げられている。この章の狙いについて、鈴木さんはこう話す。

「総力戦においては、女性や子どもたちを含めて、国内の全ての資源が動員されました。したがって“前線”と“銃後”を分かつ境界は、実はそれほど明確ではないのです。この章では、総力戦体制のなかにすべての日常が呑み込まれてしまうような戦時のリアリティを体験していただきたいです」

この展示室で最初に紹介されているのが、《大東亜戦皇国婦女皆働之図》だ。

《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》(1944年)油彩・キャンバス、186.0×300.0cm 女流美術家奉公隊作、筥崎宮蔵(通常は非公開)
《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》(1944年)油彩・キャンバス、186.0×300.0cm 女流美術家奉公隊作、筥崎宮蔵(通常は非公開)

展示室では、福岡・筥崎宮が所蔵していて一般には公開されていない「春夏の図」と、東京・靖国神社遊就館が所蔵する「秋冬の図」が並んで展示されている。どちらの作品もいろんな仕事をする女性たちがたくさん描かれている。

《大東亜戦皇国婦女皆働之図 秋冬の部》(1944年)油彩・キャンバス、187.1×299.7cm 女流美術家奉公隊作、靖国神社遊就館蔵(写真提供:靖国神社)
《大東亜戦皇国婦女皆働之図 秋冬の部》(1944年)油彩・キャンバス、187.1×299.7cm 女流美術家奉公隊作、靖国神社遊就館蔵(写真提供:靖国神社)
「特徴的なのは、複数の女流美術家による共同制作であることです。20を超える労働場面をパッチワーク的につなぎあわせて、横幅3メートルの大画面を構成しています。総動員体制において、女性の労働の機会は拡大しました。この絵は、労働に従事する喜びの表情も含めて、戦争へと参加する女性たちの姿を伝えます」
《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》の一部 田畑や兵器工場など、様々な場所で働く女性たちが描かれている
《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》の一部 田畑や兵器工場など、様々な場所で働く女性たちが描かれている

男性が戦線に送られて国内に残る男性が減り、「お国のために」というような全体主義のなかで、女性たちが活躍する。現代とは異なる女性の社会進出のありようが見て取れる。

企画展では、1945年の終戦までにとどまらず、1950年代から1970年代に描かれた作品・資料も展示。日本社会で「戦争の記憶」がどう語り継がれていったかも解説している。鈴木さんは展示の背景についてこう語る。

「戦争と美術の関係、その先にある戦争と記憶の問題を考えていくうえでは、1945年以降の日本社会の歩みがとても重要です。自分たちの過去の戦争体験をどのように記憶し、どのように次の世代へ伝えていくのか。戦争美術に関しても、戦後それがどのように社会に受け止められ、意味づけられてきたのか。このような経緯を辿るために、1930年代から1970年代までという時代区分を設定しました」

なぜ戦争画を描いたのか

それにしても、戦時中を生きた画家たちはなぜ、戦争を絵画に残そうと思ったのだろうか。ヒントとなる言葉が、過去の記録に残されている。

終戦直後、1945年12月6日付の朝日新聞では、アメリカで展覧会を開くという名目の下、GHQによる戦争記録画の収集に協力していた藤田嗣治のコメントがある。

「戦争記録画を描いたものに対してとやかくいわれていますが、私たちは美術的価値を最も失いたくないと真剣に描いたもので、それが世界の檜舞台に出るのはうれしいことです。戦争画を描いた作家はたしかに勉強しました。同じ戦争画を描いたフランスのドラクロアと並べて見てさらに勉強しなければならないと考えています」
アサヒグラフ1945年10月16日号掲載 ネコを抱く画家の藤田嗣治氏(提供:朝日新聞社)
アサヒグラフ1945年10月16日号掲載 ネコを抱く画家の藤田嗣治氏(提供:朝日新聞社)

もちろん、戦争画を描いた画家たちにとって、戦争画を描いた理由はそれぞれ異なるだろう。ただ、戦中までの日本では、合戦を描いた日本画はあっても、戦争を描いた西洋画はほぼなかった。藤田は「新しいジャンルの絵画を開拓する」という自負があり、「世界で日本の戦争画の価値も認められるように」という理想も抱いていたのではないだろうか。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の展示室「4章|神話の生成」
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の4章「神話の生成」

しかし、戦時中に軍の依頼を受けて作戦記録画を描いていた背景から、藤田は戦後に批判を受ける。朝日新聞の寄稿欄で画家・宮田重雄からこのように糾弾されることもあった。

「まさか戦争犯罪者も美術家まで及ぶまいが、作家的良心あらばしばらくは筆を折って謹慎すべき時」「美術家全体の面汚し」

批判の矢面に立った藤田はその後、1949年にアメリカへ渡り、フランスに移住。フランス国籍を得て日本国籍は抹消し、1968年に81歳で亡くなるまで、二度と日本に戻ることはなかった。

1949年3月10日撮影 ニューヨークなどの美術学校から教授として招かれ、羽田空港からパン・アメリカン機でアメリカへ出発する藤田嗣治(提供:朝日新聞社)
1949年3月10日撮影 ニューヨークなどの美術学校から教授として招かれ、羽田空港からパン・アメリカン機でアメリカへ出発する藤田嗣治(提供:朝日新聞社)

戦争記録画は1970年に「無期限貸与」という形でアメリカから返却された。しかし、作品群をまとめて見たり、タブー視することなく語り合ったりできるようになってきたのは、近年になってからだ。

戦後80年に至るまで、被害や加害など重層的に折り重なった“戦争の記憶”に、私たちはどれだけ向き合ってきただろうか。戦争への「反省」を口にしながらも、戦争の本質を顧みることは本当にできていただろうか。今も世界では争いが絶えない。自国第一主義や排外主義も広まっている。そのなかで私たちは、自分と異なる意見を持つ人がいたとしても、攻撃することなく対立をあおらずにいられるだろうか。

《神兵パレンバンに降下す》の一部 雲が浮かぶ青空から、白いパラシュートで兵士らが降下し、戦闘を始める
《神兵パレンバンに降下す》の一部 雲が浮かぶ青空から、白いパラシュートで兵士らが降下し、戦闘を始める

企画展について解説してくれた鈴木さんはこう語る。

「あらゆるメディアが戦時の武器とみなされて戦時体制に組み込まれていった。そのなかで、美術をはじめとする個々の表現が果たした役割を事実に基づいて検証することが重要です」

いまはインターネットを介し、誰もが情報の発信者となっている。そしてマスメディアの役割・意義も厳しく問われる時代となっている。時にはフェイクや誤情報も広がり、何が正しいのか、何が誤りなのか、一見してわからず混乱や分断が生まれることもある。

「これまで戦争美術は『芸術なのか、プロパガンダなのか』という二項対立で語られる傾向が強かった。これは問いの立て方が違っています。戦時中は様々な芸術がプロパガンダとして機能した時代。芸術でありかつプロパガンダである過去の表現を検証することは、複雑なメディア環境に囲まれた現代社会を考えるうえで様々な示唆を与えてくれるのではないでしょうか」
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