今年は戦後80年の節目です。戦前・戦中を通じて国民が熱狂したのが、100周年を迎える東京六大学野球の華・早稲田対慶応義塾の「早慶戦」でした。
戦争の激化で中断された伝統の一戦が復活したのは、終戦からわずか3カ月後のこと。
そこには焼け野原から立ち上がろうとする人々を、野球の力で勇気づけたいという両校関係者の執念がありました。
■死をも覚悟して「最後の早慶戦」
戦前、プロ野球以上の人気を誇った東京六大学野球。なかでも花形「早慶戦」は一大関心事とされ、選手たちはまるでアイドルのようでした。
しかし、太平洋戦争が激しさを増すと、リーグ戦は中止。学生たちも戦争に駆り出されることに。
彼らが戦地へ向かう直前に行われた、特別な試合があります。1943年10月16日に行われた「最後の早慶戦」は、のちに映画化もされました。
この試合を実際に見たのは、福澤諭吉のひ孫、三菱地所名誉顧問・福澤武さん(92)です。
「慶応幼稚舎の5年生だった。(選手たちが)直立不動で『明後日入営いたします』とあいさつしていた。今から考えてみると、どういう気持ちであそこであいさつしていたのかと思う」
福澤さんにはもう一つ、忘れられない光景があります。
海で戦って波に散り、山では草木とともに死ぬ…国に命を捧げることが求められた時代でした。
この5日後の1943年10月21日に、出陣学徒壮行会が行われます。選手たちはバットを銃に持ち替え、戦地へ。
「最後の早慶戦」に出場した選手のうち、5人が戦争で命を落としました。
1945年8月15日、迎えた終戦。焼け野原となった日本。モノもなく、生きることに必死な時代に人々を再び奮い立たせたもの。それは、野球でした。
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■復興への希望「復活の早慶戦」■復興への希望「復活の早慶戦」
学生野球の聖地・神宮球場もまた、戦前の姿を失っていました。
マッカーサー率いるGHQは、「ステートサイド・パーク」と名称を変更。日本人の使用を認めませんでした。
そこで立ち上がったのが、ライバル同士だった2人、早稲田大学野球部の相田暢一さんと慶応義塾大学野球部の水野次郎さんです。
「早慶が中心になって野球を始めれば、日本中に野球が復活するだろう」
2人は、神宮球場の使用許可を求め、GHQに直談判に行きます。
「二人で交渉に行ったんですよ。神宮はマッカーサー司令部の兵隊の遊び場として占領されている。私はそれを取り返す。そこで野球始めますよと」
ただ、球場以外にも問題が。物資不足で野球の道具すらありませんでした。
ここでキーマンとなったのが、早稲田大学の相田さんです。
野球部の後輩、亀田健さん(88)が当時の状況を教えてくれました。
守り抜いた道具は慶應にも提供され、野球部は再始動します。
終戦からわずか3カ月後、GHQから球場使用許可も降り、早慶戦の復活が決まります。
試合に向け再開した練習を目撃した人がいます。早稲田にある老舗すし店「八幡鮨」4代目・安井弘さん(91)です。
1945年11月18日、ついに開催された戦後初の早慶戦。
早稲田の先発・若原投手は軍靴を履いてプレー。集まったのは4万5000人の大観衆。スタンドに入り切らず、グラウンドにまで観客がはみ出ています。
「最後の早慶戦」出場者のうち、4名がこの試合に出場。試合は延長戦の末、慶應義塾大学が勝利しました。
選手も、観客も、この時間だけは野球がある喜びに満ちていました。
「希望になっていました。娯楽が何もない、戦争に負けて。復活させようという、気迫というか気概が素晴らしいなと思います。スポーツに明かりを求めたのかなあ。打ちひしがれたなかで、やっぱりスポーツって力が湧くんだろうな」
■“最後”と“復活” 戦禍の中の「早慶戦」
「戦後やっと再開された早慶戦を見守る、4万5000人の観衆、声援、姿。胸を打つものがありましたが、大越キャスターは六大学野球の経験者であり、先輩の姿どんなふうにご覧になりましたか?」
「ちょっと感動しましたよね。戦争が終わったらすぐに野球を再開できるようにということで、大量のバットとボールを寮に蓄えておくというその執念はすさまじいですし。それから、若い2人であのGHQに直談判に行って球場の使用許可を取る、その行動力もすごいですよね。そういう熱意に支えられて、野球は国民的スポーツとして今に続いているんだと思います」
東京六大学野球春季リーグの最終週。早稲田対慶応の1回戦は5月31日に行われます。
(「報道ステーション」2025年5月30日放送分より)






