東京でシステムエンジニアだった私が輪島に移住した理由

避難先のアパートでインタビューに応じる橋本三奈子さん=2024年2月9日、金沢市

今年1月25日、石川県の地元紙、北國新聞の1面にこんな見出しの記事が掲載された。

「輪島朝市 金石で復活」
「5月の連休目指す」

能登半島地震による大規模な火災で壊滅的な被害を受けた輪島朝市の店主たちが、110キロ離れた金沢市の金石(かないわ)港で「出張」輪島朝市を開催するという内容だ。被災からまだ1カ月足らず。復興の第一歩の象徴として他メディアでも大々的に報道された。

「出張輪島朝市」は、5月の連休を待たずに第一回目が3月23日に開かれた。約30店舗が並び、雨の中、約1万人以上が訪れ、大盛況だった。

「輪島朝市が本当に全国の皆さんから愛されていたんだなということを、改めて認識しました」

そう話すのは、実行委の一人で、朝市通りで食堂「のと×能登(のとのと)」を切り盛りしていた橋本三奈子さん(62)。
東京都西東京市出身の元SE(システムエンジニア)で、2016年に輪島市に移住してきた。

出張輪島朝市の実現は、この人抜きでは語れない。
始まりは、1月6日に橋本さんが無料通話アプリ「LINE」で送った、1通のメッセージだ。

橋本さんと輪島朝市の店主たちとのLINEのやりとり=本人提供

(輪島が)『観光客』相手の商売ができるようになるのは、ずっと先。
建築業の人がいっぱい来る。大衆食堂が必要。その食堂を作りたいと思ってます
魚さばける人、料理できる人、みんなでやろう!

発災直後で、安否が確認できた組合員たちとのやりとりの中での発信だった。橋本さんのお店も、「朝市通り」にあったため全焼してしまったが、元日は、東京の実家で家族と過ごしていた。

焼け落ちた朝市周辺の映像をテレビやインターネットでみて、朝市仲間が少しでも前向きになれることをしよう、東京からできることをしよう・・・と思っていたなかでのアイディアだった。「食堂計画」は実現しなかったが、職を失った店主たちの希望まで失わせたくない。「復興に向けて何かしたい」という思いは日に日に大きくなり、結果、金沢市での「出張輪島朝市」に向けて突き進むことになったのだった。

私が避難先の金沢市内のアパートに取材に訪れた2月上旬は、ちょうど翌月の準備に取り掛かっていた真っ最中。約1時間半のインタビュー中に4度も電話が鳴り、そのたびに PCの画面を開きながら丁寧に答えていた。みな、輪島朝市の関係者からで、「出張」企画についての問い合わせを一手に担っているからだと橋本さんは苦笑いした。

8年前まで、自身が朝市の中心メンバーになるとは、夢にも思わなかった。

大学を卒業した1984年、富士通(東京都港区)に入社。システムエンジニアとして東京で四半世紀勤め、部長職にもなった“バリキャリ”。2人の娘を育てながらということもあり、家で時間をかけて料理をするようなことはしていなかった。

2006年、父親がガンで亡くなったことを機に、初めて食の大切さに目覚めた。「体を壊すのも良くするのも、食べ物次第だと40代を超えて気づいた」

朝市通りの食堂「のと×能登」で出していた真フグの唐揚げ=輪島ビジネスラボ提供

最初に目をつけたのが、能登半島沖から北へ50kmに浮かぶ小さな島、舳倉島(へぐらじま)で取れる塩だった。

きっかけは、東京で能登の塩をプロモーションしていた人から輪島産の海塩をもらったことだった。橋本さんの母親がその塩で水炊きを作ったところ、娘たちが汁を一滴も残さなかったという。塩が人体に与える影響を調べていくうちに、「塩の奥深さにハマっていった」。

「ITはやる人がいっぱいいるけど、塩の魅力に気づいている人はいない」。2009年、47歳で一念発起して会社をやめ、起業を決めた。
「塩は儲からない」「安定した会社をやめて起業なんて」と周りに言われたが、大学生や高校生になった娘たちは「お母さん好きなことやっていいよ」と背中を押してくれたという。

自身が手掛ける「わじまの海塩」を手にする橋本三奈子さん=2024年4月、本人提供

退職金をはたき、翌年には輪島市内に製塩所を設立。東京と輪島市を往復しながら、輪島市出身の製塩士・中道肇さんに協力を得て作った塩を「わじまの海塩」と名付け販売した。

東京では異業種交流会に行っては、名刺代わりに塩を配ったり、料理研究家を訪ねたり。少しずつ評判を集め、人気が口コミで広がった。自身の塩と輪島の魚の魅力を伝えたいと、週末だけ東京郊外でカフェを借り、輪島朝市で仕入れた魚を使った定食を提供。そのうち、「自分でも飲食店をやってみたい」という思いが強くなった。輪島市内で、食堂になりそうな場所を探し始めると、河井町にちょうど良い物件が見つかった。もともと輪島塗の塗師(ぬし)が使っていた工房で、なんと「朝市通り」のど真ん中に位置していた。

「こんな場所が見つかるなんて。これは本格的にやるしかないなと」。迷いはなかった。
娘と夫を東京に残し、輪島に一人、移り住んだ。

「のと×能登」オープン直前に看板作りをする橋本三奈子さん=石川県提供

2016年11月、食堂「のと×能登」をオープン。干物定食を中心に、客が朝市で買った生魚を刺身にしたり、カニを茹でたり。ご飯セット300円、魚のあら汁付きで500円などと親しみやすい価格で人気を呼んだ。

食堂で提供する食材は、朝市で仕入れた。
「毎朝、朝市をうろうろしては、『きょうはこののどぐろが良いね』とか『きょうはこのアジ買います』みたいな感じで買っていた」

橋本三奈子さんが切り盛りしていた食堂「のと×能登」=石川県輪島市、輪島ビジネスラボ提供

東京から朝市の世界に飛び込んできた橋本さんに対し、地元からは親切に接してくれる一方、厳しい見方もされていたという。「輪島のひとは飲食店に厳しいので、最初はけっこう厳しい目で見ていたそうです。当時は夢中だったので気が付かなかったけど、『あそこは何カ月で出ていくだろう』みたいな賭けをされていたって後から聞きました」と笑う。

それでも、橋本さんはおばちゃんたちとの会話が大好きだったし、何より都会では感じられなかった息遣いが朝市では感じられた。

橋本三奈子さんが切り盛りしていた食堂「のと×能登」。1階部分が食堂と厨房で、2階は住まいだった=石川県輪島市、輪島ビジネスラボ提供

「2階が自宅だったので、仕事もプライベートも居場所は朝市だった。朝、おはようって店の入り口を開けると、そこにはもういろんな人が歩いている。芸能人も来るし、外国のお客さんもいる。農家のおばあちゃんから漁師の人、海女さん、漆の職人さん、その漆の商売をする塗師屋(ぬしや)さん。いろんな業種の人たちが集まっている。こんなところは東京にもないですよね。丸の内だったらサラリーマンだけですし。小さなコミュニティーですけど、一歩出ると、大きな世界が広がっている。面白い場所でした」

「お店の中にいてもおばちゃんたちの声が聞こえるので、『買うてってー』とか、おばちゃんたちが売っている声を聞きながら食堂の仕事をするのが楽しみでした」

朝市通りの食堂「のと×能登」で出していた刺身料理=輪島ビジネスラボ提供

橋本さんが朝市の人との絆が強くなったと感じたのは、コロナ禍だったという。 当時、飲食店や事業主に対して支払われる給付金や補助金は、すべてオンライン申請だった。高齢者が多い朝市の組合員たちはパソコンやスマホが使えない人も多く、ほぼ諦めモードだったという。橋本さんはITのプロだ。一人一人、入力や申請をかわってあげた。「すごく喜んでくれて。お客さんがいない時にうちの店にコーヒーを飲みに来てくれたり、仕事以外のこともおしゃべりしたりすることが増えて。あの時、私のことを本当に受け入れてもらえたなあ、と感じた」と振り返る。

輪島朝市に露店を出す仲間と橋本三奈子さん(中央)=2022年11月、橋本さん提供

震災発生時、東京にいた橋本さんは、3週間近く輪島市には行けなかった。 「本当はすぐにでもトラック借りて物資運んで輪島に入りたかったんですけど、状況を知れば知るほどそんな道路状況ではない。たまたまPCも電気もインターネットも使える環境にいて、命が助かったというのは何かお役目があるんだろうと思った」

朝早くから深夜2~3時まで、SNSやメディア、役所が発信する情報を逐一整理しては「ここでガソリンスタンド空いているよ」「何時からどこそこで給水が始まるよ」「だれだれさんは今避難所にいますよ」などと仲間達に送っていた。当初は朝市組合員だけに向けて発信していたが、知人が知人を呼ぶ形で300人ほどのグループチャットに発展。被災地にいなかったことで、冷静な情報発信ができていたのかもしれないという。

冒頭で書いた「食堂計画」から始まった「出張輪島朝市」企画も、発起人の一人として橋本さんが組合の顧問弁護士に掛け合ったことでスピーディーな実現に結びついた。

出張輪島朝市は、5月4日に再び金沢・金石港で開かれる。その後も石川県内の小松市や白山市、福井県でも開催が決まっている。

いつかは輪島市でまた戻りたい、と橋本さんは考えている。
だが、しばらくは「出張」を続けていきたいと思う。

「今まではお客様を待っているだけだったのが、外(出張)に出るようになって、自分たちの魅力を伝える重要性に気づいたと思う。何を売りにすればいいか、ブランド作りについても勉強できている。集客力を蓄え、各地を出張しながらさらに知名度を上げて、輪島に戻った時に、お客さんから『このお店のこの商品が欲しい』と思って来ていただけるような商品づくりや、自分たちの商品の魅力を高めるという努力をしていきたい」

「そうしていかないと、生き残っていけないと思うから」
挑戦は、続く。

(取材:今村優莉)