1979年、法政大学在学中に4000人の中から「仮面ライダー(スカイライダー)」(TBS系)の主人公に抜擢され、185cmの長身に端正なルックスで注目を集めた村上弘明さん。「必殺仕事人」シリーズ(テレビ朝日系)、大河ドラマ「秀吉」(NHK)、「柳生十兵衛七番勝負」シリーズ(NHK)、映画「極道の妻たちII」(土橋亨監督)、映画「嘘喰い」(中田秀夫監督)などに出演。映画「陽が落ちる」(柿崎ゆうじ監督)が公開中の村上弘明さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■浪人生活で映画と出会い
岩手県陸前高田市の広田町で生まれ育った村上さんは、小さい頃は野球選手になりたいと思っていたという。
「僕の出身地は、岩手県陸前高田市の広田町という、太平洋に突き出た半島で、人の出入りがあまりない漁師町なんですよね。
それで、そこの人たちはほとんど漁師というか、養殖ワカメとかホタテ、カキを扱っていて、開港日にはアワビとかを獲りに必ず出かけていく。ほとんどの人がそうで、オヤジも自転車店とワカメ養殖業をやっていたので、僕は子どもの頃から野球と、親のワカメ狩りの手伝いをしていました。今思うと野生児というか、自然児、そういう感じでしたね」
――将来は野球選手になりたいと思っていたのですか?
「そう。プロ野球選手。僕は背が高くなってきたのが中学校の後半ぐらいなんですよね。
みんなぐんと背が伸びた時、僕は伸びなかったので一時期野球選手はダメだなと思っていたら、2年生ぐらいからぐんと伸びたから、やっぱりプロ野球選手になろうと思って。野球部で4番打っていましたからね。
僕が行っていた広田小学校、広田中学校と言ったら今でも強いでしょうけど、強かったんです。みんな小さい頃からワカメ狩りとか、親の仕事を手伝っているから腕っぷしが強いんですよ。ケンカも強くてね(笑)。
それで、まともに当たればホームランというか強い。あとは、ピッチャーでも速球を投げる。ただ、チームワークがなかなかね。そういうチームじゃないんですよ。とにかくみんな一発狙いにいって個人プレイヤー。先生が言っても全然聞かないしね(笑)。
高校は、片道1時間半かけて気仙沼高校行っていたんですよ。閉ざされた空間でしたからね、やっぱり田舎から出たいという思いはありました。
親には進学校だということで行かせてもらったんですけど、僕は野球をやるつもりで行ったんです。通学圏内で甲子園に出た高校は、そこしかなかったんですよ。気仙沼高校だったらひょっとしたら甲子園に行けるかもしれないと思って。
それで、野球部に入ろうと思ったらナイター設備があって、大会間近になってきたら、夜も練習すると。だから下宿してほしいと言われて。うちの親は、『下宿は絶対ダメだ。野球をやらせるために気仙沼高校にやったわけじゃない』って。
片道1時間半かかりますから、母親が大変なんですよ。弁当を作って持っていくので、始発の電車が6時15分で、それを逃すと次は8時10分で、2時間来ないんですよ。だから朝は大変でした。
そんなことまでしてやっているのに、野球やられちゃたまらない。野球をやらせに行かせたわけじゃないって。それで泣く泣く諦めて、高校時代はプラプラ気仙沼の街を友だちと徘徊していました」
――医学部志望だったそうですね。
「一応ね。毎朝早起きして電車通学して行くからには、ちゃんとした大学に入らないと親に申し訳が立たないでしょう…という暗黙の了解があってね。僕らの先輩でも、結構東北大学に入る人が多かったんです。あと東北大学に入れなくても国立大学には入るという感じ。
だから僕もそういう期待をされていたんですけど、高校のときは友だちと遊び呆けていましたからね(笑)。浪人して、とにかく親には医学部に入ると言って、仙台で下宿して浪人したんですけど、そこで映画と出会ってしまいまして(笑)。映画館がいっぱいあったんですよ。そこで予備校にも行かず洋画などを見まくっていました。
結局2浪目は家に呼び戻されて。田舎だから何もやることがないので、半年間一生懸命勉強して予備校の模擬試験を受けたら、東北大学医学部A。このまま行ったら受かるというお墨付きをもらったんです。
親もその模試の結果を見たら納得してくれて、あとの後半は予備校に行くからと言ったら仙台に出してくれたんですよ。それで、最初の1、2カ月は同じように勉強していたんですけど、道中名画座があって、面白そうなのがやっているなあ、見たいなあと思いながらね。
それで、中期の模擬試験があって、それも成績が良かったので、息抜きに1本いいかなと思って映画館に入ったら、やっぱり面白くてね。気がついてみたら、また通い始めるようになって。そうしたら後半はだんだん成績が落ちて来るわけですよ。AからB…という感じで。
その頃にはもう勉強のことなんてそっちのけで、映画が見たくて、見たくてしょうがない。明日はこういうのをやる、1週間後にはこういうのがある、これ見たいなあって。
これはやっぱり映画に関わる仕事に就けたらいいなって思うようになって」
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■地元で学校の先生になるはずが…■地元で学校の先生になるはずが…
映画に関わる仕事に就きたいとひそかに思っていた村上さんは、東京に出ることに。
「親には、(東京の)大学で教職を取って、田舎に戻って親の面倒を見ながら学校の先生をやるからと言って。結局3浪したんですけど、4年間東京に出してくれることになって。
それで大学に行って柔道部に入ったら(柔道部に)映画好きなやつがいて、一緒に『ぴあ』(エンタメ情報誌)を手に、東京のあらゆる名画座を回っていろいろ見まくっていました。その頃はどこに名画座があるのか全部把握していました。
(法政)大学が飯田橋にあったので、見たい映画をやっている劇場まで電車で何分乗って、駅から何分だから間に合うなとかね。大体その地図も全部わかっていたし、芸能界に入る前までの2年ちょっとの間、かなりの本数を見ました。
映画が見られる仕事をやりたいと思って。映画評論家になれたら一番いいなと、そのときは思っていましたね。
ずいぶんあとでおすぎさんの取材を受けたときに、『実は映画評論家になりたかったんですよ』って言ったら、『あなたね、映画評論家なんてそんなに簡単なもんじゃないのよ。
食べていけないのよ。見たい映画だけ見るんだったら、こんな楽しいことはないけど、
見たくないものも見なくちゃいけないんだからね』って言われて。それは苦痛だなあって(笑)。
でも、そういった意味では、浪人生活とか大学時代は、映画三昧で楽しかったですね。それが自分の映像に対する感覚というか、だから、俳優というのは全く考えてなかったですね」
――俳優になったきっかけは?
「柔道部の映画好きで一緒に見に行っている仲間が僕の写真を送ったらしくて、『もう頬づえはつかない』(東陽一監督)という映画のオーディションに行くことになったんですよ。
オーディションのシステムというか、どういう風にオーディションをやっているんだろうと思って、興味本位で行ったのであって、それに受かりたいとか、役者をやりたいという意識は全然なくてね。
だから、最後のひとりに受かったという連絡をもらったとき、その仲間に『すげえじゃん、村上。俺が送ったんだからな、写真』って言われましたよ(笑)。
それで決まったという連絡をもらったんですけど、『相手役の女優が決まらなくて、監督がもう1回オーディションをやろうかと言っているから、ちょっと制作発表は待ってくれ』って言われたんですよね。
そうしたらその友だちが、他のクラスの仲間に『村上は今度東監督の作品の主役だぞ』ってみんなに言いふらしたわけですよね。ところが、蓋を開けてみたら違って、別の俳優さんになっていて。
あれは、オーディションのときは男性と女性、両方とも新人を使うつもりだったんですよね。大学生の役ですから現役の大学生で行きたいと。それで、できればそんなに有名じゃない人を使いたいという目論見だったみたいですね。俳優でもそんなに名前が知られてない人を使いたいって。東(陽一)さんって、割とドキュメンタリー出身の人らしいんですよ」
――一度主役に決まったと言われたのにほかの人に…と知ったときは?
「そんなにやりたかったわけじゃないから、別に悔しいとかっていうのもなかったですね。オーディションを受けている人たちは書類審査で受かった人たちが、1次審査、2次審査でだんだんといなくなってくるじゃないですか。
もうみんな必死で、その落ち込みようがすごいわけですよ。だから、みんなすごいんだなと思って。そのときに、僕は来るべきじゃなかったんだなと思った。覚悟が違うわけですよ。やりたくて来たというわけじゃないから。
ただ、物見遊山というか、こう言ったら失礼だけど、興味があって観光に来たわけですから。何か非常に違和感あったでしょうね。
製作発表が終わってから、プロデューサーから『今回は申し訳なかった。東は村上くんでいいと言ったんだけどね。やっぱり既成の女優さんとは年齢的に釣り合いが取れないって言うのでこういう結果になったんだけど、また何かいい企画があったら声をかけるから』って言われて。
それで、『今、大学生だよね?これからどうするの?』って聞かれたから『大学に行って教職を取って、田舎に帰って学校の先生をやろうと思っています』と言ったら『学校の先生より役者の方が面白いよ。いい作品があったら俺が紹介するから、俳優面白いよ』って、俳優の道に引っ張ったのが、その人なんですよ(笑)。
2、3カ月したときにまた連絡があって、『新たに役者部門を作る事務所があって、何かあったら俺が後見人なるから』って言われてその事務所と契約したんです。大学に行っていいし、毎月お給料を払うのでアルバイト禁止ということで」
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■「仮面ライダー」のオーディションに■「仮面ライダー」のオーディションに
事務所と契約して数カ月後、大学に通っていた村上さんにオーディションの話が舞い込む。
「『仮面ライダーのオーディションに行ってくれ』って言われたんですよ。『もう頬づえはつかない』ならまだしも、『仮面ライダー』は見たことがなかったし、子ども番組じゃないですか。ちょっと違うかなあって。
そういうのをやろうと思って俳優になったわけじゃないと言ったら、そのときの女性マネジャーに怒られちゃいましたね。『何言ってんの。素人が生意気ってんじゃねえ。大丈夫だよ、落ちるから。今までやってきた人たちはみんな脂ぎった人たちだから、村上くんは全然タイプ違う。落ちるから大丈夫』って言われて、自己表現の場だからということで連れていかれて。
そのオーディションの条件が三つあって、年齢27歳以下、身長175cm以上、あとバイクの自動二輪の免許を持っていることだったんです。そのとき僕は21歳だし、身長185センチだから二つはクリアしていたけどバイクの免許はなかった。
『これダメじゃないですか?』ってマネジャーに言ったら、『そこに行くまでに落ちるから大丈夫だ』って言われていたんですよ。それが残ってバイクでグランド1周すると言われたからマネジャーにできないと言ったら『大丈夫、男の子なんだから何とかできる』って。いい加減なマネジャーだよね(笑)」
――よくバイクに乗れましたね
「でも、エンジンはかかるけど切り替えができないわけですよ。20人残っていて、僕以外はみんな免許を持っているから運転できる。僕だけできない。でも、後ろの方だったので、前の人とか周りの人のやり方を見様見真似で。
一応走り出したんだけど、最初ローで走ってセカンドトップ、直線コースでトップスピードで走ってほしいって言うんだけど切り替えができないから、何度ふかしても音が出るわ、においはするわ、煙が出るわ…で、スピードが全然出ない。
最後第4コーナーがあって、もうパニクっているからダメだと思って。どこを押さえても止まらないからバイクを放り投げて降りたんですよ。そうしたら、バイクがグルグルグルグル回転しながら審査員席の方に向かって行って…これはダメだなって。そんな人は誰もいないんだから、明らかにダメじゃないですか。そうしたら受かって」
――村上さんは銀座のホステスさんたちに一番人気で決まったという説もありましたね
「そうそう。僕もずっとそうだと思っていたんだけど、実は違ったんですよ。仮面ライダーの映画版に出演していた俳優さんに聞いた話なんだけど、その人は(原作の)石森章太郎さんによく一緒に飲みに行こうって誘われていたらしくて。
銀座のクラブに行ったときに最終オーディションに残った5人の写真を石森さんが出して『誰がいいかな?誰がタイプ?』って聞いたら、みんなが僕の写真を指したって。
それで、その人が『みんなが村上くんの写真を指差していたから、多分あれで決まったんだと思う』って言うから『そうなんだ。ホステスさんたちが選んでくれたんだ』って。
次の日だったかな?マネジャーから連絡があって、『村上くんに決まったらしい。どうする?』って。『どうするっていうか、落ちるって言っていたじゃないですか』って言ったら『でも、いいんじゃない。やった方がいいと思うよ。4000人以上の応募者の中から選ばれて、みんな村上くんでいこうって言っているわけだから、断ったら失礼だよ』って言うんですよ。
だから、『わかりました。大学は行けるんですよね。教職取るつもりなんで』って言ったら『何言っているの。行けるわけないじゃない。休学よ』って。それで1年間休学して、仮面ライダー。
あとでプロデューサーに聞いたんですよ、バイクの運転もひどかったのに、何で僕に決まったのかって。そうしたら、『バイク自体はスタントマンもやるからいいんだけれども、画になるかどうか、それを見たかった』って。
それで、何十年後かに、『僕はホステスさんたちに決められたって本当ですか?』って聞いたら、『違うよ。ホステスさんじゃない。毎日放送、テレビ局が押してきたんだよ。だから俺も村上さんでいいなと思って乗ったんだ』って。何十年ぶりかで本当のことがわかりました(笑)」
「仮面ライダー(スカイライダー)」の1年間の撮影を終えた村上さんは、大学に復学。大学に通いながら、「御宿かわせみ」(NHK)、「うわさの淑女」(TBS系)などに出演。そして1983年、ターニングポイントとなる舞台「タンジー」に主演し、プロレスラー役に挑戦する。次回は舞台「タンジー」の裏話、「必殺仕事人」シリーズ、映画「極道の妻たちII」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※村上弘明プロフィル
1956年12月22日生まれ。岩手県出身。「仮面ライダー(スカイライダー)」で俳優デビュー。「必殺仕事人」シリーズ、映画「極道の妻たちII」、「白い巨塔」(テレビ朝日系)、大河ドラマ「炎立つ」(NHK)、「八丁堀の七人」(テレビ朝日系)、「柳生十兵衛七番勝負」シリーズ(NHK)、映画「万能鑑定士Q−モナ・リザの瞳−」(佐藤信介監督)、「Pachinko」シーズン2(Apple TV+)などに出演。映画「陽が落ちる」が全国公開中。
ヘアメイク:宮本由樹
スタイリスト:村上都