歌舞伎俳優・十代目岩井半四郎さんの次女として生まれ、高校3年生のときに「白鳥の歌なんか聞えない」(NHK)で俳優デビューした仁科亜季子さん。大河ドラマ「勝海舟」(NHK)、映画「悪魔の手毬唄」(市川崑監督)などに出演。将来を期待される若手俳優として注目を集めるが、小さい頃からの「お嫁さんになりたい」という夢を実現。1979年、松方弘樹さんと結婚して引退。長男と長女にも恵まれる。(この記事は全3話の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)
■抗がん剤の副作用で脱毛、子どもたちは…
1982年に長男、1984年に長女が誕生し、子育てというのは天職だと思っていると話すほど充実した日々を送っていた仁科さん。しかし、1991年に子宮頸がんを発病。半年あまりの入院生活を送ることに…。
「38歳のときに子宮頚がんと診断されました。周りでそういう重い病気の人は家族も含め、友だちも知人もいませんでしたから、まさか自分がそんな病気になるとは思ってなくて。その当時は『がんイコール死』みたいなイメージがありましたし…。
子どもにとってまだまだ、母親が必要な時期じゃないですか。だから、本当に先生につかみかからんばかりの勢いで、『とにかく10年、何とか生かせて下さい』って言いました。『首から下はどうなってもいいです。目が見えて耳が聞こえて話ができて指示が与えられればいいから、何とかしてください』って。
長かったら6カ月間入院生活になると言われたんですよ。今はそんなに長期入院にならないみたいですけど、その当時は長期入院と言われて。
5月にがんが見つかったので、『6月に入院して6カ月というと夏服になるわよね、夏休みになるわよね、2学期になるわよね、冬になるわよね…』って。それを思うと自分の病気のことよりも、家に残していく子どもたちのことばかりが気になっていました。
家中に、どこに何が入っているかとうシールを貼って、学校のことを全部ノートに書いて、留守をお願いする方たちに頼んで入院しました」
――入院中はお子さんたちとは頻繁に会うことができたのですか
「はい。京大病院で娘の学校が近かったので、ほぼ毎日学校帰りに来て病室で宿題をしていました。息子もしょっちゅう運転手さんが連れてきてくれていました」
――治療は順調にいったのですか
「最初に抗がん剤をやったんです。鼠径部(そけいぶ)から管を通して患部に直接抗がん剤を流すという、当時としては最新の治療法をしていただいたのですが、1回目は効かなくて。でも、血圧がものすごく上がるわ、心臓がバクバクするわで大変でした。
すごく原始的なんですけど、もう何十年も前のことですから、重たい氷のヘルメットを頭にかぶるんですよ。先生に『これ何ですか?』って聞いたら、毛根を収縮させておいて、将来100パーセント抜けるであろう髪の毛を少しでも軽減させるために…と言うんです。
でも、顎というか、歯が割れるんじゃないかというぐらい痛くて。お腹(なか)の中に抗がん剤が入れられるとき、まるで煮えたぎったお湯をバーッと振りかけられるみたいにお腹の中が熱くなるんですよ。
血圧は上がるし、心臓はバクバクするし…先生は、モニターを見ていて、麻酔科の先生が入れていくんですけど、麻酔科の先生が『ちょっとやめましょうか』と言ったら、主治医が『全部やって』って言うんですよ。鬼だと思いましたね。
でも、1回目はあまり効かなくて、髪の毛が抜けなかったんです。それで、1カ月後にもう1回、抗がん剤をもっと強力にブレンドし直して2回目をやって。1回目もそうですけど、白血球がガーッと下がってしまって、面会謝絶になり、子どもたちも来られなくなって、自分もマスクして白衣を来て…というのがあって。
しばらくして白血球がちょっと上昇しだしたら脱毛が始まりました。ちょっと触っただけでガバーッと抜けて、3日でほぼ全部なくなりましたね。
シャワーを浴びていいですと言われたんですけど、シャワーの水だけでも抜けるんです。
だからシャワーを浴びるのに割り箸を持って入っていました。排水溝の髪の毛をとらないと詰まって溢れちゃうので、そのときはシャワーのお湯と一緒に泣いていました」
――いずれ生えてくるとわかっていてもショックですよね
「ショックでした。朝起きると枕に髪の毛がいっぱい付いていてガムテープで取っていました」
――お子さんたちはいかがでした?
「白血球が上がってきたので面会に来ましたけど、どんな反応するかなって思っていたんですね。でも、子どもってそういうところは強いというか。母親の窮地を敏感に察するというか。
髪の毛が抜けてツルツルの頭を撫でて、『一休さんみたい』とか『ツルツル。お月さまみたい』って言っていました。何かホッとしましたね。後にも先にも子どもたちに頭を撫でてもらったのは、そのときだけですけど、励みにはなりました。頑張ろうって思いましたね。
それで10月の頭に退院しました。そのときはカツラで。手術の後、放射線フルコースの治療をしていただきました」
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■離婚後、俳優業再開直前に胃がんが発覚■離婚後、俳優業再開直前に胃がんが発覚
1998年に離婚。俳優業を再開するための健康診断で2度目のがんが発覚したという。
「45歳で離婚して、46歳で仕事をするにあたって、からだのメンテナンスをしておいた方がいいかなと思って検査をしたら胃がんが見つかって。
もともと粘膜下腫瘍という良性の腫瘍があったんです。それが悪性化していて、最初はその腫瘍だけ取る予定だったんですけど、結局、胃の3分の1と脾臓を取ることになったので、結果的に約1年間仕事を始めるのが遅くなってしまいました。
粘膜下腫瘍というのは、子宮筋腫みたいなもので99パーセントは良性ですと言われていて。普通は良性らしいので、それだけ切除する予定だったんですけど、その取ったものを手術中に病理検査したら細胞分裂が激しくて悪性なものに変わっていて。これはダメだというので、胃の3分の1と脾臓を取ったんですね。
だから、私はその腫瘍だけ取る予定で手術室に入ったのに、目が覚めたら『胃の3分の1と脾臓もついでに取っておきました』と言われたんです」
――ご自身では2度目の大きな手術になったわけですが、いかがでした
「そこまでは最初のがんから8年経っていて、前のがんの転移ではなく、単発のがんだったので、またかと思いましたけど、『取ってしまえばいいかな』みたいな感じでしたね」
――2度目の手術の影響は何かありましたか
「はい。通過障害で食べ物が食べられなくなってしまっていて。その上お腹が空かなくなっちゃったんですよ。それで、気が付くと貧血っぽくなっていて、血糖値がガーッと下がって、震えて来る。要するに低血糖なんですよね」
――そういう状態はどのぐらい続いたのですか?
「今でも慌ててパンとかラーメンとか、そういうのをズルズルッと飲むとなります。食道の働きがうまくいかなくなってしまったんです。それは食道を引っ張って繋げたので、そうなってしまうんですよね。だから、当時は食べられなくなって37kgを切っていました。
お寿司1個を1回で食べられなくて、三つか四つに切って少しずつ食べていました。おみかんも袋のまま食べると引っかかるんです。
食事中に目が白くなってきて黙っちゃうと、子どもたちが、『ほら、トイレに行ってらっしゃい』って言って、トイレに行って一度吐き出さないといけないんですよね。
気をつけないといけないんですけど、(病気以前の)記憶があるからついやっちゃうじゃないですか。そうすると詰まっちゃって息ができなくなる。そうなると背中を叩かれようが、水を飲もうとしても入っていかないので、いったん吐き出さないとダメなんです。だから今でも気をつけるようにしています」
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■闘病の経験を撮影現場で発揮■闘病の経験を撮影現場で発揮
2005年、映画「いつか読書する日」(緒方明監督)に出演。この作品は、ひとりの男性を30年以上に渡って思い続ける女性の恋を描いたもの。
主人公は、50歳の独身女性・大葉美奈子(田中裕子)。美奈子は高校時代に交際していた高梨槐多(岸部一徳)を30年以上ひそかに思い続けている。同じ町の市役所に勤める槐多も美奈子への思いは同じだったが封印し、末期がんで余命わずかな妻・容子(仁科亜季子)を自宅で看病している。ある日、美奈子は容子に呼び出され家に行くことに…。
――映画「いつか読書する日」では末期がんの役でしたね
「そうなんです。あの映画は、私がそんな大きながんをやっているとは知らないで監督がキャスティングなさったらしいんですね。それで、撮影のときにいろんな医療機器を付けられているじゃないですか。
それは全部知っている機器だったので、『監督、これは違います。こういう風に付けるんです』、『これはこうじゃないです』なんて言っていたら、『何でそんなに知っているの?』って聞かれて。
『がんの手術は2回もしているので、これは3回目です』って言ったら『ごめんね』って(笑)。あの役は助からなくて死ぬじゃないですか。監督は知らなかったので驚いていました」
――すごいですよね。自分が死んだ後、夫をどうするか、美奈子を呼び出して託す
「あれは監督に聞いたんです。『容子さん(役名)は天使?悪魔?』って聞いたら
『ごく普通の女です』って言われたんですよ。
でも、考えてみたら、容子はその昔、美奈子が夫・槐多の彼女だったということを知っている。その彼女に『夫を頼むね』というのは、自分が死んだ後も彼ら二人に自分の足跡、記憶を必ず残すということじゃないですか。それってちょっとゾゾーッときませんか?」
――そうですけど、ある意味天使っぽいかなと。奥さんに先立たれて残された男性は結構大変みたいなので
「そう。だから行動は、確かに。でも、『夫のことをお願いね』って、死んでまで旦那のことを思っているというのは、ちょっと残酷ですよね。イヤでも記憶として残りますからね、奥さんのことがね」
――結果的に槐多は命を落とすことになります
「そうですね。何か容子が連れて行ったみたいな感じですよね。そこまで考えていませんでしたけど。そこには収まりきれないんだという感じでしたね」
――田中裕子さん演じる主人公は、何十年もひとりでずっと槐多のことを思っていたわけじゃないですか。すごいことですよね。演じられていてどうでした?
「難しかったですよ。普通役者は、からだを動かすことで表現できることってあるじゃないですか。容子は、病気で寝たきりなのでボディーランゲージができない。結局、上半身、胸から上しか表現できないし、唯一立っていったのが手紙を入れるところですからね」
――ずっとベッドの上でしたものね
「そうなんです。それで、夫に対する思いだとか、自分の思いだとか、彼女(美奈子)を自分のもとに呼んで夫のことを頼む…というのは、はちょっと難しかったですね。美奈子に会いたい、呼んできてというのは、なかなかすごいことですよね」
同年、長女・仁科仁美さんの主演映画「ヒカリサス海、ボクノ船」(橋本直樹監督)で共演。ドラマ、映画にコンスタントに出演を続けていたが、2008年に小腸のがんが見つかり、2014年には大腸がんを発症。次回は4度のがんを克服、5月17日(土)に公開される映画「真夏の果実」(いまおかしんじ監督)も紹介。(津島令子)
ヘアメイク:Mio(SIGNO)