
歌舞伎俳優・十代目岩井半四郎さんを父に持ち、姉・岩井友見さんも俳優として活動していた仁科亜季子さんは、高校3年生のときに「白鳥の歌なんか聞えない」(NHK)で俳優デビュー。「赤ひげ」(NHK)、大河ドラマ「勝海舟」(NHK)、映画「悪魔の手毬唄」(市川崑監督)などに出演。私生活では2度の結婚と離婚、約30年間で4度のがんを発症し克服。俳優としてだけでなく、自身のブランドを立ち上げてデザイナーとしても活動。2023年には長男・克基さんとともに障がい者就労支援施設のフランチャイズ店をオープンするなど幅広い分野で活躍。5月17日(土)に映画「真夏の果実」(いまおかしんじ監督)が公開される仁科亜季子さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■美術大学に進みたいと思っていたが…

歌舞伎俳優・十代目岩井半四郎さんの次女として誕生した仁科さんは、小さい頃から絵を描くのが好きで美大に進みたいと思っていたという。
「小学校時代に都の展覧会に入賞したことがあるんですけど、その程度です。でも、好きでしたね。中学に入って美術部に入ったので、その先生に憧れていたというのもありますね(笑)」
――お父さまが歌舞伎俳優・岩井半四郎さんですし、芸能関係に進むことは考えてなかったのですか
「今の歌舞伎役者さんと違って、歌舞伎は歌舞伎ばかりでしたから、自宅にそういう世界の方たちがいらっしゃることは滅多になかったですし、父は、舞台で朝家を出て行ったら、夜10時くらいまで帰ってこなかったですからね。
それにうちは踊り(岩井流)もやっていたので、お弟子さんたちがしょっちゅういらしていましたけど、芸能界の方たちではないし、ごく普通のうちでした」
――今は歌舞伎俳優の方のお子さんが俳優に…という方も多いですが、当時はあまりいなかったですね
「そうですね、当時は、歌舞伎役者自体があまり映像に関わりなかったですよね。でも、うちの父は、今で言うと発展的だったんだと思うんですよ。その当時、映画に出たりしていましたからね。
新しいもの好きだったんじゃないですか。野球チームを作ったり、プロダクションも作っちゃったりしていましたから、母がオロオロしていましたよ。
私は美術大学に行きたいなと思っていたんですけど、予備校に見学に行ったらみんなすごかったんですよ、うまくて。『この方が3浪もしているの?』とか『この方が今年ダメだったの?』という感じで。『もう絶対足元にも及ばないな』と思って。
諦めようかなと思っているときに、当時うちの姉(岩井友見)のマネジャーだった方が『ちょっとNHKに一緒に行かない?』と言ってくださって連れて行かれて。それで、いきなりオーディション。カメラテストみたいなことになって、銀河ドラマ『白鳥の歌なんか聞えない』(NHK)に抜擢してくださって」
――出演が決まったと聞いたときはどう思いました?
「ちょうど夏休み前だったし、社会勉強みたいなつもりでした。芸能界とはいえ、そういう映像とかはあまり関係なかったですけど、姉が仕事をやっていたので、高校時代に付き人みたいなことをやっていたんですね。姉が面白そうにやっているのも見ていましたし、ちょっと垣間見てみようかなぐらいの興味本位で入ってみましたという感じです」
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■撮影現場でのあだ名は「冷凍の金魚」■撮影現場でのあだ名は「冷凍の金魚」

学習院女子学院在学中にドラマ「白鳥の歌なんか聞えない」のヒロイン役でデビューすることになった仁科さん(当時の芸名は仁科明子)は端正な美貌と品の良さで“お嬢様女優”として話題に。
――お父さまは何かおっしゃっていました?
「父には、芸能人である前に人として、礼儀とか周りにご迷惑をかけないようにということと、とにかくご挨拶と時間に遅れないようにしなさいということだけでしたね」
――実際に撮影が始まっていかがでした?
「ちょうど夏休みだったので、撮影が始まる前にNHKの放送センターに通って演技の特訓があったんですよ。俳優小劇場の先生とか、2、3人先生がいらしていろいろ教えていただきました。本当に演技の“え”の字も知らないようなズブの素人でしたけど、それなりに周りの方たちも一生懸命気を使って盛り上げてくださって。
でも、当時のデビュー作を見た同級生が、『見ている方が、気が気じゃなかった』って言っていました。それで、ついたあだ名が『冷凍の金魚』。そう言われていました(笑)。
カチカチで口だけパクパクやっているからって。今でこそ音声は小さいマイクを付けたりしていますけど、昔はガンマイクという大きなマイクで音声を拾っていたんですよね。
私は一生懸命やっているのに音声部さんに『あこちゃん、聞こえないよ、それじゃ』って言われて。『口だけパクパクやっているけど、金魚じゃないんだから』って言われて。
でも、もう全身がカチカチで。普通トントンって肩を叩かれたら、自然に振り返るじゃないですか。でも私はカチカチになっているから棒みたいなんですよ。『それじゃダメ!冷凍の金魚だ』って言われていました(笑)」
――岩井半四郎さんのお嬢さんがデビューということで、マスコミにも大々的に取り上げられましたが、ご自身としていかがでした?
「いろいろ取り上げいただきましたけど、そんなに変化はなく普通にしていましたね。NHKに通うときはまだ学生でしたから、制服のまま行っていて。うちの学校はご挨拶が『ごきげんよう』って言うんですよね。
だから守衛さんのところを通るときも、先輩にお目にかかったときも『ごきげんよう』って言っていたんですよ。普通は『おはようございます』じゃないですか。それなのにリハーサル室に入るときもつい『ごきげんよう』と入って行ったら、皆さんに一斉に振り返られ、唖然とされてしまいました」
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■小さい頃からの夢だった“お嫁さん”に■小さい頃からの夢だった“お嫁さん”に

「白鳥の歌なんか聞えない」で俳優デビューを飾った仁科さんは、「愛よ、いそげ」(TBS系)、「赤ひげ」(NHK)などに出演。エランドール新人賞を受賞する。
「『赤ひげ』の半ばぐらいまで事務所に入ってなかったんですね。なので、『赤ひげ』のスタッフの方たちから、『ほかの仕事も入ってきてスケジュール調整が困るから、どこか事務所に入ってくれない?』と言われたのでご紹介いただいて、前の事務所に入りました」
――いろいろなお仕事をされる中で俳優としてやっていくという意識は?
「もちろんいただいたお仕事は一生懸命やらせていただきました。けれど何が何でもこの世界で…という感じではなかったですし、小さい頃からの夢は“お嫁さん”だったので生涯のお仕事としては考えていなかったかもしれませんね」
“お嬢様女優”として人気を集めた仁科さんだが、1977年、俳優・松方弘樹さんと熱愛が発覚し、1979年に結婚。芸能界を引退し、1982年に長男、1984年に長女が誕生する。
――小さい頃から夢だったお嫁さんになったわけですが、迷いはなかったですか
「それはなかったです。子どもができたときもめちゃくちゃうれしかったですね。ただただ可愛かったです。本当にこねくり回して育てちゃって、こねすぎちゃったかなって(笑)。
息子は、本当はシャイなくせにワルぶってカッコつけるんですよね」
――結婚生活はいかがでした?
「大変でした。若かったからできたんだと思います。子育ても。里帰りもしたことないですしね。2番目が生まれるときに1週間だけ息子を実家に預かってもらいましたけど、それ以外は手元から放したことがなかったです。だから、何事においても一直線という感じでした」
――松方さんは面倒見の良い方だったので、お弟子さんやお客さんも多かったのでは?
「そう。よく大勢連れて帰ってくるんですよ。だから、業務用の大きい冷凍冷蔵庫を4台使っていました。お店でもないのに(笑)。うちの分は普通の家庭用の冷蔵庫。でも、『今から10人』とか、『今から20人』って電話がかかって来て、一番多いときは80人連れて帰って来たこともありました」
――よくからだが持ちましたよね。お子さんも2人いて
「そうですよね。朝6時からのロケとかだと、だいたい4時半ぐらいからお弁当を作るんです。元の旦那さまだけじゃなくて、お弟子さん、運転手さんと付き人の4人分。昔はランチジャーという大きいお弁当入れがあったじゃないですか。下におかずが入ってポットみたいな大きいのを四つ作って、プラスお吸い物が好きだったので、お吸い物も作っていました」
――お料理はもともと得意だったのですか
「いいえ、うちでは母がやってくれていました。うちもお弟子さんたちがいっぱいいたので。本当に家庭料理みたいなものばかりでしたけど、私も別に習ったこともないですし。高校卒業するまではそうだったし、卒業してからすぐ仕事をさせていただいていたので、料理学校にも行ったことないですけど、見様見真似でやるようになって。あとは、お店にお食事に行ったときに、どうやって作るのか教えていただいたりしていました」
――ご結婚されたときに俳優業を引退されましたが、未練というか、お芝居をやりたいという思いはなかったですか
「未練は全然なかったです。忙しくてそれどころじゃないというのもありましたし、子どもも生まれてうれしかったですし。私は、子育てというのは天職だと思っています」
長男と長女が誕生し、子育てにも忙しい毎日を送っていた仁科さんだが、1991年に子宮頸がんを発病。半年あまりの入院生活を送ることに。次回は闘病生活、離婚、2度目のがん発病、俳優業復帰を紹介。(津島令子)
※仁科亜季子プロフィル
1953年4月3日生まれ。東京都出身。1972年、「白鳥の歌なんか聞えない」でデビュー。約6年間「赤ひげ」、映画「はつ恋」(小谷承靖監督)、映画「悪魔の手毬唄」などに出演。1979年、結婚を機に芸能活動を休止。離婚、2度目のがんを克服して、2000年、本格的に俳優業を再開。映画「いつか読書する日」(緒方明監督)、映画「RAILWAYS愛を伝えられない大人たち」(蔵方政俊監督)、映画「僕らはみーんな生きている」(金子智明監督)、「刑事ゆがみ」(フジテレビ系)などに出演。自身の経験をもとに、がん治療に関する講演活動も行っている。5月17日(土)に映画「真夏の果実」の公開が控えている。
ヘアメイク:Mio(SIGNO)