
20代〜30代は主に舞台俳優として活動し、41歳のときに映画「おこげ」(中島丈博監督)で映画デビューした中原丈雄さん。180cmの長身に端正なルックス、ダンディーな魅力で話題を集め、大河ドラマ「炎立つ」(NHK)、「絶対零度〜未解決事件特命捜査〜」(フジテレビ系)、映画「おしゃべりな写真館」(藤嘉行監督)などに出演。特技の絵画では個展も開催し、ART BOX大賞展ギャラリー賞を受賞。プライベートバンド「TAKEO.UT☆MEN」でライブも行うなど幅広いジャンルで活躍。7月11日(金)に主演映画「囁きの河」(大木一史監督)の公開が控えている中原丈雄さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■「俳優はいろんな美味しいものが食べられていいなあ」って(笑)

熊本県球磨郡で生まれ育った中原さんは、小さい頃から絵を描くことが得意で映画も好きだったという。
――小さい頃は、どんなお子さんだったんですか
「小学校の頃、先生に褒められるぐらい本を読んでいたんですよ。でも、読書と言っても、絵が好きだったので、本の挿し絵が好きでね。
学校で校長先生に朝礼のときに『中原くんは本当に図書館で毎日本を借り出すぐらいよく読んでいる』と言われたんだけど、実際は全然中身を読まないで絵ばかり見ていた。
だから、『どんな本ですか?』って内容を聞かれても全然覚えてないというか、基本知らないという感じでしたね。
運動はやらなくてね、ラジオを聴いたり、ボーッとしているようなことの方が多かったですね」
――将来は画家に…と思ったりしていたのですか
「全然。小さい頃から俳優になりたくてしょうがなかった。小学校のときから映画を見て思うんですよね。映画には食べるシーンが何度も出てくるじゃないですか。そのたびに、腹が減っているものだから、『いいなあ。俳優はいろんな美味しいものが食べられて』って(笑)。その頃は、役者が食べられない仕事だなんて思わないですからね」
――ご両親は俳優になりたいということは?
「いやいや、もう全然。おやじは熊本の大学を出て、地元で何か仕事をしてくれ…みたいな感じで。仕事もたいしてあるわけでもないんですけどね。でも、おやじはそういう堅実な思いを持っていたんですよね。
だから、おやじには俳優になるなんてことは、一言も言ってなかったです。高校2年のときにひとりで下宿するようになったんですけど、そのときに母親には『大学受験を受けて東京に行って、俳優の勉強がしたいな』というようなことはチラッと言いました」
――お母さまには何て言われました?
「母親はまさか本気だとは思ってなかったみたいですけど、意外とちゃんと聞いてくれましたよ。ただ、おやじには言わないでくれと言っていました」
1969年、駒澤大学に進学して上京することに。
「駒澤に入ったんですけど、妹が三つ下でちょうど高校に入ったばかりで、その三つ下が双子の弟で中学に入ったばかり。弟と妹に金がかかるだろうなあと思いながらも、大学の授業料を使い込んじゃったものだから駒澤を辞めるきっかけに。
もともと大学に4年生まで行くという気力はなかったですね。とにかく東京に出る手段という感じだったので、大学はどこでも良かったんですけど、親友が曹洞宗のお寺の息子で『駒澤大学は曹洞宗の学校だからそこに行く』というので僕も行くことにしたんです。
でも、彼が1年で辞めて武蔵野美術大学に入ってフランスに行ったので、僕も1年で辞めました。2年生になるときの授業料を使い込んじゃったから2年になれなくて。絶対に今のうちに何かしなきゃいけないと思ったので、俳優の道に入っていくことにしました」
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■水森亜土さんの劇団に所属し、絵の手伝いもすることに■水森亜土さんの劇団に所属し、絵の手伝いもすることに

大学を1年で中退し、試験を受けて音楽事務所に入った中原さんは、その事務所と近しい関係だった水森亜土さん主宰の「劇団未来劇場」に所属することになったという。
「僕は2、3年目ぐらいからアルバイトをしないで(水森亜土さんの)絵の手伝いをやっていました。『お前は絵を描けるんだから、絵の手伝いをやってくれ。給料を払うから』って。音楽事務所でいくらもらっていたか聞かれたので3万円と言ったら5万円くれると言われて。
とにかくいつもその劇団にいられるというのは良かったですね。劇団にいれば食事も食べさせてもらえたし。ただ、やっぱりお金はなかったですよね。子どももいるし、家庭があったから。
僕は21歳で結婚したんです。食えないものですから食べさせてもらっていたというか。その当時、僕は3万円しかもらってなかったけど、カミさんはもう少しもらっていたんです。決して贅沢はできないし、2人で食べるのがやっとでしたけどね」
――アルバイトもされていたのですか?
「最初はやっていました。絵が好きだから荻窪の画材店で働く方が自分のためになると思って、劇団で働くまではアルバイトをやっていました。僕はあまり力がないものですから力仕事は苦手で(笑)。腕力がないんですよ、本当に」
――劇団で絵の腕前も発揮できることに?
「そうですね。絵の勉強は出来ました。同じ絵という中での色の勉強とかもさせてもらいましたけど、それより何よりやっぱり演出家の近くにいつもいられるということがうれしかったですよね。でも、なかなか初舞台が踏めないんですよ。
劇団員と研究生、全部で40人ぐらいいたんですけど、どんどん新しい子が入ってきて初舞台を踏んでいるのに、僕は27ぐらいまでずっと舞台監督だったんですよ。
演出家が僕のことをあまりに怒るものだから、誰も僕のそばに寄ってこないんですよね。『中原さんのところに行くと怒られる』って寄って来ないから、いつもひとりなんです。
このままだといつまでたっても僕は舞台に立てないなと思ったので、あるとき研究生を集めて、『劇団の稽古場を使ってない時間に僕たちで芝居をやらないか』って言ったんですよ。舞台に立てない連中もいるから、『それはいいですね』ということになって。
それで演出家に使ってないときに、1日でいいから使わせてくれとお願いして、7月7日に『七夕公演』を打つということで始めたんですけど、初めて人前で芝居をしたときには緊張しましたね。
研究生たちの中には既に舞台に立っているのもいるけど、僕は初めて。最初に笑うシーンから出てくるんだけど、笑えない。それが自分で情けなくてね。それから次の年も次の年もやったんですよ。
それで、アメリカの『毒薬と老嬢』という芝居をやったときに、罪を犯してアメリカ中を逃げ回っているうちにあまりにも罪を犯すものだから、そのたびに整形手術をして、整形外科の先生と一緒に罪を犯して顔がだんだんフランケンシュタインみたいに…というのをやったんです。
そうしたら(水森)亜土の旦那で演出家の里吉(しげみ)さんが『面白いね。悪いけどこれ俺が演出するから』って。それまでは先輩が演出していたんですけど、途中から演出家が変わって、本公演の演出家がやってくれることになったんだからうれしかったですね。その芝居もすごく面白くなっていって、その次の年の本公演で初めて役がついたんです。
そのときに準劇団員だったかな?それから何年かして30になるぐらいのときに、上がどんどん辞めていくんですね。それで下も辞めていって、僕を中心に劇団をやっていくということになったんです」
■舞台から映像の世界へ「劇団を辞めるのに3年かかりました」

舞台公演で主役を演じるようになった中原さんにドラマのプロデュ―サーからテレビドラマの出演オファーが。
「僕が主役をやった舞台を見てTBSのお昼のドラマのプロデューサーに『中原さん、テレビに興味ないですか?』って言われたんです。
でも、その当時は舞台俳優になろうと思っていたんですよ。はじめは映像の俳優も…と思っていたのに、自分が主役で舞台に立っていると、ここで頑張ろうみたいな気持ちもどこかにあるんですよ、食えないのにね(笑)。
『家族もいるし、どうしよう?』って思うんだけど、『ここでやっていれば何とかなるのかな?』みたいな。どうにもならないんだけど、そういう希望がないわけじゃない。
だから、『テレビはあまりやったことがないからいいです』ということを言ったら、主役の女優のオーディションの相手役をやってくれと言われてやることに。これはもしかしたら、テレビの主役の相手役のオファーでも来るのかなと思って。100人以上やったんですよ。
それで主役が決まって、僕の役も決まったんですけど、何ということはない。多勢の中のひとりで侍従みたいな。そのときにやっぱりなめていたんですよ、テレビを。
『俺はこれだけ長い脚本で舞台の主役をやっているのに、テレビだとセリフが一言しかない』と思っていい加減な気持ちで行ったら、稽古のときにみんなが同じような一言をすごい練習しているんですよ。それにびっくりしちゃって、ショックで…。
『ああ、俺はこのままだと、あの劇団でしか通用しないな。劇団でもそのうちダメになるかもしれない』って。それで、もう1回考え直そうと思って、映像の世界を目指すことにしたんです。それが30歳ぐらいの時でしたね。
それから(劇団を)辞めるのに3年かかりました。なかなか辞めさせてくれなかったんですよ。『10年間お前を育てたのに』って言われて。『別に育てていない。俺が一生懸命頑張っていたけど、お前は俺に灰皿を投げつけたりしていたじゃねえかよ!』って(笑)。
でも最後は主役を何度もやらせてくれましたしね。それで、『分かった。お前がそんなに言うんだったら旅に出す。苦しかったら戻ってこい。お前のところを空けておくから』って言われて。うれしさもありましたけど、戻ってくるとまた大変だなと思いながら出て行きました。でも、それからの10年間というのは、劇団のときよりずっと大変でしたね」
――「中原丈雄」という芸名は、シャンソン歌手の石井好子さんが名付け親だそうですね
「そうです。水森亜土と石井さんが仲が良くて、公演のたびに来てくれて、いろんな差し入れをしてくれていたんですよね。
それでホームパーティに何回も誘っていただいていたのですが、着ていく服もないからずっと断っていたんです。劇団を辞めると決めて最後の頃、内輪で小さいパーティーをやるから普段着で来て…と言われて。
これを断ったらもう多分ないなと思って、たいした服じゃないですけど一張羅を着て、持って行くものもないから石井さんの似顔絵を描いて持って行ったんです。そうしたら、石井さんがとても喜んでくれて。
劇団を辞めた後、どうするのか聞かれたのでまだ何も決まってないと言ったら『あなたが一番知っている映像の世界で力がある人がいらしたら、その人を私の家に連れていらっしゃい。私がその人と中原さんと一緒にご飯を食べて、私からも説得するよ』って言ってくれたんですよ。
たまたま僕が芝居で主役をやっているときに、渡辺えり(当時の芸名は渡辺えり子)がやっていた『劇団2〇〇(にじゅうまる)』の藤堂貴也くんという役者が客演で出ていたんですよね。
それで、中島丈博さんが見に来てくれたので紹介してくれて。
石井(好子)さんの家で石井さんが料理を作って、その場で丈博さんに、『中原さんが劇団を辞めてどこか事務所に入りたいと思っているんですけど知りませんか?』って聞いて紹介してもらって事務所に入ったんですけど、(事務所としては)僕は別にいてもいなくてもいいような存在で。時々は仕事が入るんですけど、そこに10年いました。長かったですね。
それで、ここにいたら僕はおそらく劇団にいたときと同じように、ここで終わってしまうと感じたんですよね。仕事はときどきあるんだけど、その頃は石井さんに展覧会をやらせてもらったりしていましたね。
1回目は、石井さんが持っているフランス料理のお店に自分の作品を3カ月間置いてやらせてもらって。石井さんとケンカ別れするのも(2回目の)展覧会がきっかけなんですけど、やっぱり自分のお客さんと食事に来るお客さんが、ごっちゃになっちゃうということがあって。これは申し訳ないなと思って石井さんに『先生、2回目にやるときは申し訳ないけど自分で会場を探してやります』って言ったら、石井さんが猛烈に怒って半分喧嘩みたいになってしまいました」
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■ゲイのカップル役で映画デビュー■ゲイのカップル役で映画デビュー

1992年、41歳のときに映画「おこげ」に出演することに。この作品は、男性恐怖症の女性(清水美砂)がゲイのカップル、剛(村田雄浩)&寺崎(中原丈雄)と出会い、彼らの愛すべき姿に惹かれていく様を描いたもの。中原さんは妻(根岸季衣)がいながら剛と愛し合う中年サラリーマン・寺崎役を演じた。
「劇団を辞めてしばらくして(中島)丈博さんから読んでもらいたい本があると連絡があって居酒屋でビールを飲みながら渡されたのが『おこげ』の台本だったんです。
それで寺崎栃彦役だと言われて。『相手役と女の子はもう決まっているんだけど、この役がなかなか決まらないんだ』って。いろんな人に当たったらしいんですけどね。
でも、こういう役はやったことがないし、少し時間をもらって、その当時のマネジャーに相談したら『映画というのは、どんな題材でも自分のプロフィルになるし、やった方がいいんじゃないの』って言われて。
次の日、丈博さんに電話して『やらせてください』と言ったら、『わかりました。僕の方からプロデューサーに推薦します』ということで、それから1週間ぐらいで決まったのかな。
それで、村田雄浩と清水(美砂)さんと撮影になったら、僕に対しての演出が細かいんですよ。(大船の)松竹で撮っていたんですけど、撮影が終わってスタッフルームの前を通ると、でかい声で中原がどうのこうのって言っているのが聞こえるんですよね。
『いやだなあ、俺のことを言っている』と思っていたんですけど、10日ぐらいしたらプロデューサーから電話がかかってきて、『ちょっと話がある』と言われたんですよ。それで事務所に電話して『多分降ろされると思うから、ちょっと一緒に行ってくれない?俺もういいよ。いろいろ言われてできないよ』って言って行ったんですよ。
そうしたら、中島さんが頭を丸坊主にしているんですね。スタッフみんなも神妙な顔をして。それで『ファーストシーンの海の中から脚立を立てて撮った映像が、波で揺られて使い物にならないから、もう1回撮り直さなきゃいけない。つきましては中原さん、撮り直すからもう1回気を入れてやり直してくれませんか』って言うんですよ。
僕の降板の話じゃなかったんだって(笑)。ただ、僕もちょっといけなかったな…と思って、中島さんに『性根を入れ直してやるからよろしくお願いします』と言いました。それからは良かったですね。ダメ出しもそんなになくて。
淀川(長治)さんが朝日新聞に『あの髭の男がとてもいい』みたいなことを書いてくれて、丈博さんはびっくりするし、山田太一さんに『中原さんいいですね。どこから連れてきたんですか?』みたいな話をされて、丈博さんに『そんなに中原さん良かったのか?』っていうことを言われてね(笑)。後で褒めてくれましたけど、そういういきさつがありましたね」
「おこげ」で注目を集めた中原さんは、大河ドラマ「炎立つ」、「絶対零度〜特殊犯罪潜入捜査〜」(フジテレビ系)、「ドラマ10 美女と男子」(NHK)など多くの作品に出演。2013年には「ばななとグローブとジンベエザメ」(矢城潤一監督)で映画初主演を果たす。次回は「炎立つ」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※中原丈雄プロフィル
1951年10月19日生まれ。熊本県球磨郡出身。「劇団未来劇場」に所属し、数多くの舞台に出演。1992年、「おこげ」で映画デビュー。絵画を描く特技を活かし、挿絵や装丁も手掛ける。個展も開きART BOX大賞展ギャラリー賞を受賞。大河ドラマ「真田丸」(NHK)、「白い巨塔」(フジテレビ系)、連続テレビ小説「なつぞら」、映画「ファミリア」(成島出監督)、「中原丈雄の味わいの刻」(テレビ熊本)などに出演。映画「ばななとグローブとジンベエザメ」、映画「おしゃべりな写真館」に主演。主演映画「囁きの河」の公開が7月11日(金)に控えている。