戦後79年。フィリピンに「無国籍」の残留日本人2世がいます。多くが80歳以上で、今も日本国籍の回復を待ちます。World Media Festivals 2024受賞作品。
■日系人とフィリピン戦
フィリピン南部のミンダナオ島に位置する、ダバオ。
かつて、この通りの角にあったのは、大繁盛していたという日本旅館。そして、近代的なデパートだった「オオサカバザール」。
フィリピンには戦前、多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わっていました。
その数は最盛期には3万人にものぼりました。現地のフィリピン人と結婚し家族を持った人も多くいました。
日本人の父とフィリピン人の母のもとに生まれた寺岡カルロスさん。
寺岡カルロスさん(92)
「これが父親です」
「みんな(日本人・アメリカ人・フィリピン人)仲良くやってました。日本人の棟梁さんがたくさん来て瞬く間に家を建てていました」
ところが、幸せな暮らしは突如一変しました。日米の開戦とともに、アメリカの統治下にあったフィリピンに日本軍が侵攻。
しかし、アメリカ軍の圧倒的な兵力に戦況は徐々に悪化してゆきます。さらにフィリピン人の一部は「抗日ゲリラ」となって日本兵を襲いました。現地の邦人もフィリピン人からの憎悪の対象に。危険は迫っていました。
父親を病気で亡くし、2人の兄が日本軍に徴用されていた当時14歳の寺岡さんは、母親と2人の妹、そして弟を連れ、ジャングルに逃げ込みました。
「日本人として残ると殺されますから。軍の行く方向にジャングルへ僕らも一緒に行きました。僕らは雑草を食べていました。それで命だけを繋いでいたんです」
けたたましい轟音に、空を見上げると、敵の爆撃機が。
「突然一発、ぼーんという音がして、まっすぐ命中です。僕らがいるところに集中して落ちてきました。そこで母を亡くしました。弟と妹も。心臓に破片が突き抜け、うつぶせになって倒れました」
その後も、生き残った妹と逃避行を続けた寺岡さん。アメリカ軍の捕虜になったのは、「終戦」からひと月後のことでした。
そして、日本軍に協力した2人の兄の衝撃的な死を、知ることになります。
「長男はスパイの容疑で日本軍に銃殺されました。煙草を友達からもらってアメリカ煙草を吸っていたから。次男はマニラから帰る途中、フィリピンゲリラに捕まって首を切られました」
アメリカ軍の攻撃を受け、日本軍からはスパイと疑われ、フィリピン社会から敵とされ、母、妹、弟、2人の兄、寺岡さんは3カ国に、家族を殺されたのです。
戦争は終わりました。けれども、日本人移民の子供たち、「残留2世」の新たな苦難が待ち受けていました。
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■「あなたにも私にも日本人の血が流れています」■「あなたにも私にも日本人の血が流れています」
小さな離島で暮らす、ウエハラ・パムフィラさん。そして、妹のトヨコさん、トミコさんです。
開戦時、首都・マニラにいたウエハラさん一家。父は日本人の子どもだと分かれば娘たちがゲリラに殺されると考え、「ウエハラ」を名乗ることを禁じました。
ウエハラ・パムフィラさん(85)
「覚えているのは、日本兵が『戦争が始まったから』と言って、私の父をトラックに乗せて連れて行ったことです」
父は、戻ってきませんでした。戦後も激しい反日感情が続くなか、小学校までしか行くことができず貧困にあえぎました。
「10代の頃、農作業をさせられ、私たちは森の茂みに隠れ泣きました。島にいる私たちの目の前に、父が姿を見せることを祈りました」
さらに、もうひとつの大きな壁が立ちはだかります。「国籍」という問題です。当時のフィリピンでは、子どもは父親の国籍に属すると法律で定められていました。そればかりか、父の祖国、日本との関係も断ち切られ、結果、フィリピン人でも日本人でもない、「無国籍」として戦後を生きることになってしまったのでした。
「私たちが過ごしてきた幼少期を、きっとあなたは想像もできないでしょう。とても辛い日々でした。もし父がいてくれたら…こんな経験はしなかった」
「自分たちが日本人であることを認めて欲しい」ウエハラさん姉妹は、そう願い続けています。
「“日本人になりたい”んじゃない。私たちは“日本人”なんです。私たちは感謝しています。あなた方、日本が私たちを探しにきてくれた。日本人の子どもとして生まれたことに後悔などありません」
フィリピン人の母とともに、あるいは、孤児となって残された子どもたち。7500を超える島々が点在するフィリピンで、身を潜めながら生きる彼らの実態は、長きにわたり知られることはありませんでした。
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■「無国籍二世」を救え■「無国籍二世」を救え
無国籍の残留2世の日本国籍を回復する支援を行っているNPO法人・フィリピン日系人リーガルサポートセンター。
訪れた先はモリネ・リディアさん。9年に渡り、調査を続けています。
モリネ・リディアさん(80)
「(Q.お父さんの名前は?)カマタモリネ
「(Q.出身は?)オキナワ」
当時、まだ幼く、日本語を話せないモリネさん。彼女もまた、日本人であることを隠し生きてきました。
「周りに『パマト』(=釣りの重り)とからかわれた。父の名が『カマタ』だから。親戚は、私に名字を名乗らせませんでした。もし日本人の子どもだということが知られたら殺されるから」
フィリピン人の母から聞いた記憶を頼りに、戦時中、亡くなったという父のことを必死に伝えようとします。
「お父さんは顔の一部しか見えないくらいヒゲが濃かった」と母は話していた。父は漁師で船を持っていた」
舗装された道がほとんどないこの島では、船が貴重な移動手段です。4人きょうだいのうち、すでに2人は他界。5歳上の姉、モリネ・エスペランサさん(85)は対岸に暮らしています。
父親の名前「モリネ・カマタ」。出身地は「オキナワ」。そして、「漁師をしていた」。その証言をもとに調査を進めると、戦前、沖縄の「盛根蒲太」という男性がフィリピンに渡ったパスポート記録が見つかりました。
さらにフィリピンの町役場に、母親の婚姻記録が。夫の欄には「カマト・マリノ」、日本人。
カマタ・モリネと似ています。聞きとり違いの可能性があります。同一人物だと証明できれば父親の特定につながり、国籍回復に一歩近づきます。しかし、それでもまだ“別の”証拠が必要だといいます。
リーガルサポートセンター
猪俣典弘さん
「あとは父子関係を証明するものを彼らが準備しなくてはいけない。これがまだ時間がかかる。サポートしなくてはいけない」
「(Q.どうして日本人になりたいんですか?)父が日本人だから。日本人の血が私にも流れているから」
2人は、「盛根蒲太」の娘として生まれてきたことを、証明しなければなりません。
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■戦火で書類も焼失…■戦火で書類も焼失…
この日、ダバオで年に一度の日系人会の総会が催されました。踊りに、歌に。2世から4世まで、会場はあふれんばかりの熱気。無国籍の2世も6人が参加しました。
今回の取材に先駆け私たちは日本人移住者の、戦前の写真のカラー化を専門家に依頼。出来上がったものを見てもらいました。
「日本刀を差している人は偉い将校なんですか?」
「もし兵士たちがワイアレス小学校の守備隊ならば祖父はこの中にいるはず」
異国の地に根付き、懸命に生きた同胞の姿が確かにそこに。
日本国籍を回復するための申請は、弁護士が行います。
集めた証拠を日本の家庭裁判所に提出し、その判断を待ちます。証拠資料をもとに家庭裁判所が判断調査開始から20年。これまで304人の国籍を回復することができました。
しかし多くは、戦火で書類が焼失するなど、証拠をそろえるのが困難な状況です。
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■データベースに情報…弟も■データベースに情報…弟も
父親との親子関係を証明できる資料がないモリネさん姉妹。それならば日本国内で親類を探し出すことができないか。新たな調査が始まりました。
降り立ったのは沖縄。パスポートの記録が見つかった「盛根蒲太」という男性は、モリネ・リディアさん、エスペランサさん姉妹の証言と同じ沖縄県出身でした。
まず向かったのは、本籍地に書かれていた場所。
「この辺ですかね、地図的に」
本籍地に書かれていた場所は…荒れ地になっていました。
手掛かりを探す中、県立図書館に、沖縄の移民に関する資料がデータベース化されていることが分かりました。
「モリネ・カマタ」で検索してみると、最初の渡航から5年後、再びフィリピンに渡っていました。目的は「漁業のため再渡航」。「父親は漁師だった」という姉妹の証言と一致します。
さらに盛根さんには弟がいることが判明。その弟もフィリピンに渡っていました。
「弟の家族が生存していて、大伯父にあたる蒲太さんがフィリピンに渡り、家族を持っていた証言が得られれば、大きな国籍回復の証拠になる。親族の証言によって」
その後、盛根蒲太さんの弟の孫が那覇市内に住んでいることが分かり、連絡を取ることができました。
「祖父は確かにフィリピンに渡っていた。大伯父の蒲太については、フィリピンにわたり戦死したという話を聞いている。リディアさんたちの映像を次の世代の親類にも見せてあげたい」
日本国籍の回復に向け、大きな前進です。
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■「捨てられた日本人なんです」■「捨てられた日本人なんです」
終戦から78年。彼らに残された時間はそう多くありません。日本の裁判所への申立て中、亡くなった人も4年前、1069人と把握していた「無国籍」の人数は、最新の調べで、493人にまで減っています。
穏やかな日々から突然、戦火に巻き込まれ、家族5人をアメリカ軍、フィリピンゲリラ、そして日本軍に殺された寺岡カルロスさん(92)。
長年、先頭に立ち、無国籍のままフィリピンで暮らす2世たちの一括での救済を求める活動を続けてきました。
「戦争があったからこそ巻き込まれて大変な目にあった。それを日本政府は助けてくれなかった。捨てられた日本人なんですよ。忘れられてしまった。棄民です。ほとんどの人が90歳を超えています。国籍を何とかして日本人と認めてもらえれば、この人たちは全部助かる」
父親は沖縄出身 カナシロ・コシエ
ダバオで理髪師日本軍に徴用され「すぐ戻る」と出掛け戻らず、幼い私を「マサコ、マサコ」と呼んでいた
父親の名字は「スマダ」
ダバオの日本軍駐屯地で米軍の攻撃により死亡背は低くとても色白だった母は、父をキャプテン・スマダと呼んでいた
小さな離島で姉妹3人、日本国籍の回復を願うウエハラさん姉妹。妹・トミコさんが案内してくれたのは母が眠る場所。
「お母さんは私たちを残して早く旅立った。だけど感謝しています。あなたが私たちを隠し、守ってくれたおかげで、今、『日本』から来た人たちが私たちを見つけてくれたのだから」