『限界自治体』高齢化率50%超の珠洲市 子育て世代は戻るのか カギはインフラ復旧

[2024/02/07 17:00]

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能登半島の先端に位置する珠洲市。漁師町である蛸島町(たこじままち)の小学校では、地震後の始業式に登校した児童は4人。残りの28人は学校に登校することが叶わなかった。珠洲市はもともと高齢化率が50%を超える。市内は1カ月が経過しても道路が陥没し、断水が続き、崩れた家が点在する。市外に避難した子育て世代は「インフラの復旧が進まないと地元に戻れない」と本音を漏らす。

同様の話は東日本大震災でも多く聞いた。そして、原発事故後の福島県では、避難先の生活が長くなればなるほど、若い世代が帰還をためらってしまった。インフラの「復旧」の先に、若者が戻って生活を営む「復興」の未来が描けるのか。珠洲市蛸島町を取材した。

(テレビ朝日社会部 島田直樹)

小学校の理科室がシャワー室に

「先生方も一生懸命皆さんと一緒にこの困難を乗り切っていきたいと考えています。全力で頑張りましょう」

1月18日の朝、珠洲市立蛸島小学校の2階にある図書室。9日遅れの始業式で、河元智志校長は登校した児童に語りかけた。校長の目の前にいるのは2年生2人、3年生1人、4年生2人の計4人。

蛸島小学校の在校児童32人と教職員は全員無事だったものの、多くの児童は市外に避難していた。河元校長の挨拶はノートパソコン内蔵カメラを通じて、オンラインで避難先の10人の児童にも届けられた。

学校は避難所になった 2024年1月18 日

1日の地震で蛸島町は多くの家屋が壊れ、小学校には一時800人の避難者が集まった。体育館だけでなく、教室も避難者の生活スペースとなり、廊下にはトイレットペーパーなど支援物資が並ぶ。理科室には簡易シャワーが設置された。職員室が避難所の本部になった。

珠洲市立蛸島小学校の河元智志校長 2024年1月18日

教職員13人は校長室に集まることになり、避難者の生活を支えながら始業式の準備を進めた。まずは2階の図書室を教室として確保。衛星ブロードバンド通信「スターリンク」を使って市外に避難する児童とオンライン授業に向けた通信テストも行った。

河元校長は「子どもたちにつけなければならない力をしっかりつけていくことを保証しながら学校を運営していきたい」と困難な状況でも教育の機会を確保する重要性を語った。

高齢化率50%超…珠洲市は「限界自治体」

蛸島漁港 2024年1月29日

蛸島小学校のある蛸島町は珠洲市の中で漁獲量が最も多い蛸島漁港を抱える漁師町だ。漁港にはブリやイカ、カニが水揚げされるという。町はメインストリートの「奥能登絶景海道」を挟んで南と北で景色が変わる。南側は漁港があり東西に木造住宅が密集して並ぶ。

密集して立ち並ぶ住宅が多数倒壊した 珠洲市蛸島町 2024年1月18日

一方、北側には小学校や野球場があり田畑が広がっている。被害がより大きく見えたのは南側の木造住宅が密集したエリアだ。一部は去年5月の地震で被害を受け、今回の激しい揺れに襲われた。ある家は地震から17日たっても火災報知器がずっと鳴り響いていた。町から人の姿が消えていた。

町から人の気配がしなくなったのは、珠洲市が二次避難をするよう呼び掛けたことも要因として考えられる。そもそも珠洲市は65歳以上の高齢者が51.1%(2022年)。高齢者が過半数の集落は「限界集落」と呼ばれるが、珠洲市は市全体で高齢者が過半数を占める「限界自治体」だ。

珠洲市蛸島町 2024年1月29日

2011年は約1万7000人の市民のうち、高齢者の割合は39.6%だった。この11年間で人口は4000人も減り、高齢化率は12ポイントも上昇した中で、珠洲市を能登半島地震が襲った。5533棟の住宅が被害を受け、災害関連死を含む101人が亡くなった(2月2日時点)。これ以上の高齢化率上昇を防ぐためには、二次避難者のいち早い帰還が必要だ。

避難長引くと帰還できない “負のスパイラル” 福島では…

蛸島漁港 2024年1月10日

2011年に発生した東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故。阿武隈高地の中腹に位置する福島県飯舘村は事故により全村避難となった。国勢調査によると、2010年に6200人だった村民は、2017年の避難指示解除まで実質ゼロとなった。

避難指示解除後に段階的に戻ってきた村民らは1300人以上。震災前に30%だった高齢化率は、2020年には57.5%で「限界自治体」になった。

石川・珠洲市蛸島町 2024年2月1日

飯舘村をはじめとする旧避難指示区域に住んでいた人たちからは、

「震災後に新たな仕事ができて生活基盤ができた」
「子どもが進級して避難先の学校に馴染んでいる」

などの理由で帰還できないという声を何度も聞いてきた。そして、高齢者ばかりの「限界自治体」には食料品店や病院などは簡単に戻ってこない。村の「復興」が担保されないと地元に愛着を持つ高齢者すらも「住めない」と判断する。まさに“負のスパイラル”だ。

蛸島町でも大きな被害を受けて二次避難を余儀なくされ、多くの若い世代が市外に出たという。住民の女性は

「若い人はほとんどいない。教師か、看護師か、市の職員ぐらいしか残っていない」

と地震後の町の様子を話す。

若い世代は町に戻ってこられるのだろうか。将来を占うカギとなるのが蛸島小学校の登校児童数だ。市外に避難した8割強の児童がいつまでもオンラインで授業を受けることも難しい。親たちは避難先で新たな仕事を見つけるかもしれない。家が無事であっても市外に避難している蛸島小学校の保護者は

「戻りたいが、水道と学校の環境が改善しなければ戻れない」

と話しているという。

石川・珠洲市蛸島町 2024年2月1日

蛸島町が飯舘村のように長期間帰還できない地域だとは思わない。しかし、能登半島という地形を考えると災害廃棄物の搬出も簡単にはいかず、インフラ復旧工事がいつになるのかも不透明だ。高齢化率が高い地域だからこそ、若い世代が戻ってきやすいよう「復旧」しなければ、人が再び集まる「復興」の未来は描けない。

「避難した子も正解、残る子も正解」

避難した児童もオンラインで授業に参加した 2024年1月18日

地震から1カ月。蛸島小学校には29日に2人の児童が戻ってきた。始業式ではオンラインを含めて14人だった参加者が、最近では18人に増えた。一部の教室や職員室も使えるようになった。

河元校長は2人の児童が戻ってきたことを嬉しそうに語りつつ、

「避難先に行った子も正解、地元に残る子も正解。『戻ってこい』とは言えない。いま蛸島に登校する子、オンラインでつながっている子をしっかりとサポートしていきたい」

と話した。

蛸島小学校の校歌の3番はこう綴られている。

「舟よ群れ行け 日本海 にぎわう港 蛸島に
   歌声あがる 春秋を 帆つなに仰ぐ 大漁旗
    希望にみちた 子どもらだ みな日本を 背負う子だ」

蛸島町の未来を背負う子どもたちが少しずつではあるが戻ってきている。

  • 登校した児童は4人だった 珠洲市立蛸島小学校 2024年2月20日
  • 学校は避難所になった 2024年2月20日
  • 河元校長
  • 蛸島漁港 2024年1月29日
  • 密集して立ち並ぶ住宅が多数倒壊した 珠洲市蛸島町 2024年1月20日
  • 珠洲市蛸島町 2024年1月29日
  • 蛸島漁港 2024年1月10日
  • 珠洲市蛸島町 2024年1月29日
  • 避難した児童もオンラインで授業に参加した 2024年1月20日

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