社会

2025年3月8日 11:00

「女のくせに」理不尽な暴力に立ち向かったあの日 沖縄・琉球大 初の女性学長の原点

2025年3月8日 11:00

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創立75年の琉球大学で、この4月、新たな一歩が刻まれる。

初の女性学長として就任する、那覇市出身の喜納育江さん(57)。これまで数々の偏見を乗り越えてきた。
中でも、喜納さんが今でも強烈に記憶していることがある。学生時代に受けた心身への理不尽な衝撃と、母から与えられた思いも寄らぬ「試練」だ。
だが、これが学問に情熱を抱く原点となった。

喜納さんはどのように学長選考に臨んだのか。今までどんな道を歩んできたのか。学長としてどういう未来を描くのか。思いを聞いた。

喜納育江(きな・いくえ)
1967年生まれ。那覇市出身。90年に琉球大学 法文学部 文学科英文学専攻 を卒業後に渡米。米国ペンシルベニア州立インディアナ大学大学院にて英米文学博士号を取得。96年に琉球大学法文学部講師に就任した後、同大学法文学部教授、ジェンダー協働推進室長、附属図書館長などを経て、23年4月から副理事・副学長を務める。専門は米文学、ジェンダー研究。

■思いを背負った学長選考 就任決定後に涙する人やハグする人も

まさか自分が学長になるとは夢にも思わなかった。始まりは、学長選考の約1年半前のことだった。

喜納育江 琉球大学新学長(以下同)
いまの西田睦学長が、私の世代の人たちに次の学長にはどんな人がいいか質問したとき、私の同僚が、「いずれ喜納さんかな」と言ったそうです。学長は「なんで“いずれ”なの?」と言ったらしいんです。

当時の喜納さんは50代半ば。学長になるには早いと同僚は思ったようだ。しかしその後、同僚から食事の席で「(学長選考に)喜納さんを立てるのはどうか」との話になった。喜納さんは箸が止まり、すぐに「むりむり」と否定した。

食事の帰り道に考えこんだ喜納さん。同僚の言葉を思い出していた。

(創立以来)74年間、候補者にすら女性が挙がっていないというのは由々しき事態ではないか。
落ちても良いじゃないですか。落選しても良いから、女性もいるんだという感じで出ていただけたらありがたい。

全国の国立大学の学長86人中、女性学長は4人(4.7%)。公立の15人(14.9%)、私立の91人(15.1%)を大きく下回っている(文部科学省「令和6年度学校基本調査」)。国内で女性が大学の経営や意思決定に参画する道は、依然として狭い現実がある。

女性研究者として、自分の次の世代で学長になるような女性が出てくるにはどうしたら良いかということばかり考えていた。自分が候補になれば、次世代の人たちにも希望を与えられるかもしれない。そう思った喜納さんは、学長候補になることを決めた。

それにあたり30人の推薦人が必要だった。同僚を中心に支援するグループができ、作戦を練った。

一緒に琉球大学の将来を「こうあったら良いよね」と描きながら、クラブ活動みたいに、すごく楽しく活動しました。その人たちがいたので、今ここに立てているのだと思います。
思いを背負って立候補するのだという気持ちがありました。選ばれたと聞いた時、人生で初めてうれし泣きしました。映画を見て泣いたり、悔しくて泣いたりというのはありましたが、ほっとしてうれし泣きしたのは人生で初めてです。

学長に決まった後の周囲の反応もうれしかった。

特に女性たちが私の手を取って「頑張ってくださいね」と、涙を流す人やハグする人もいて。 学外の反応も一緒で。「沖縄の人がなってくれてうれしい」「女性がなってくれてうれしい」という反応がすごく多かったので、びっくりしました。

■「女のくせに」頬で受け止めた理不尽 母は「抗議しなさい」

喜納さんは1986年に琉球大学に入学し、英文学を専攻。学ぶことが好きで研究者の道を進んだ。学びの面白さを教えてくれたのは家族だ。

家族について笑顔で話す喜納さん
祖母は私に平仮名を教えてくれましたし、母は高校中退程度の教育でしたが、国語辞典の引き方を教えてくれました。軍作業員で電気関係の仕事をしていた父は、ブロークンイングリッシュでしたけども軍の中でコミュニケーションの機会がありました。それで父親からは英語やタイプライターの使い方を習いました。学校で教えないことをよく家族から学んでいたという記憶があります。

しかし、楽しい家庭内教育だけではなかった。戦争で9歳の頃に疎開し、疎開先で飢えや寒さ、ホームシックによる寂しさで苦しんだ経験を持つ母は、喜納さんが自力で生きていけるよう、「試練」を与えることがあった。

大学在学中のある日、車の免許を取得して間もない喜納さんは、自身の車に友人を乗せて運転していた。前方に荷台に材木をたくさん積んだトラックがいたため、少し距離をとっていた。後ろから来た車から男性運転手が降りてきて、窓をたたくので「何だろう」と思って窓を開けると、すごく怒っている。

「お前が(トラックとの間を)詰めないから後ろが進めない。もっと前に行け」と男性は言った。喜納さんが説明し終える前に、男性は手の甲で喜納さんの頬を強くたたいたという。

一瞬の出来事で、意味が分からなかった。その時、男性が言った。「女のくせに」。

(材木を積んだトラックがあるから)「行けません」と言ったんですが、「ん」が言い終わるあたりで、手の甲でパーンと顔をたたかれたんです。結構男の人の手の甲ってかたくて大きいので痛かったです。

心身への二重の衝撃。母に話すと、「お父さんにもたたかれたことないのに、なんでこんな知らないおじさんにたたかれたの」と激怒し、電話の受話器を差し出した。「はい、電話しなさい。自分でちゃんと抗議しなさい」と。

その時初めて「自分は被害者だ」と泣けてきたという。泣きじゃくる喜納さんに対し、母は無情にも受話器を差し出す。結局、喜納さんは、運転していた男性の車が入っていった会社の代表番号を自分で調べて電話し、その日に起こったことを電話交換手の人に話した。「こういう人が作っている製品を私はこれから買いません」と言い、受話器を置いた。

当時は非常に試練だったんです。「私が自分で電話をかけるの」みたいな感じで。でもこの教育が良かったんじゃないですかね。親は私の人格をリスペクトしてくれていて、私の力を信じてくれていたのだと、今は思います。

この出来事をきっかけに、フェミニズムやジェンダー、家父長制など、女性に関わる内容の文献を読み始め、考え始めた。喜納さんの原点となった。

■「奥様ですか?」 未だに根強い“アンコンシャス・バイアス”

喜納さんには、変えていきたい景色がある。

学長就任決定後に、西田現学長とともに参加した、ある経済界のパーティーでの話だ。現学長から「次の学長になる喜納さんです」と紹介されていた時のこと。遠巻きに見ていた男性が近づき、喜納さんを見て「(西田学長の)奥様ですか?」と聞いてきた。

その方は悪気はないので、私は責める気は全くないのですが、なんとなくこれが「普通の人」の、通常の反応なんだなと思った。

講師として母校に着任した28年前、メディア関係者など学外の人らを呼んだ集まりで、「喜納さんは〇〇先生の所属ですか」と言われた時とかぶった。

当時は学部全体で100人くらい教員がいる中で、女性教員は5、6人しかいない時代だった。私はちゃんと採用されて研究室を構えているのに、誰かの所属や付随として見られているんだなと思った。28年経っても何も変わらないんだと。

アンコンシャス・バイアス(無意識の思い込み)を感じ、「この景色は変わらなければならない」と決意を新たにした。

■「いろんな人が担えるように」学長として描く未来

4月から学長に就任する喜納さん。海外に留学する学生のサポート体制の強化や、多様性を重視した環境づくり、授業料値上げに頼らない財源確保など、取り組みたいことはたくさんある。

学生には教えるだけでなくエールも送ってきた喜納さん
私は決して、小さい時から英語に触れていてネイティブのように話せる環境にいた人間ではなく、努力して英語を身に着けました。英語の授業の時、学生には「私でもできたから、あなたたちも絶対できる」と言っているんです。
英語を教えるときの感覚とすごく似ていて、「私にもできるから皆さんも大丈夫」というような姿勢を見せることで、男性や、ある一定の層で占められているポジションを、もっといろんな人が担えるようになるのではないかと思います。社会的にこれまで権力を持たない立場の人たちが「自分もやってみようかな」とか、「自分もできるんじゃないか」とか思ってくれると良いかなと。

十代で受けた理不尽な暴力は、今も忘れることができない。

だが、あの人生で初めての衝撃があるからこそ、他者の痛みを想像できるようになったとも振り返る。

私の周辺には仲間がいっぱいいますし、大学の人たちの力を信じているので、この人たちであれば荒波も一緒に乗り越えていけるのではないかと思っています。
インタビューを終えて
喜納さんの話からはどんな出来事も糧にしていくエネルギーを感じた。これから学長として歩む未来を見つめていきたいと思う。女性学長の誕生で、地域の次世代を担う若者だけではなく、今を生きる幅広い世代にとって、偏見のない多様な“景色”が当然のものになってほしい。

(聞き手:テレビ朝日デジタルニュース部 大見謝華奈子)

  • 自身が学長になるとは予想しなかった喜納さん
  • 家族について笑顔で話す喜納さん
  • 学生には教えるだけでなくエールも送ってきた喜納さん