日航機が墜落して520人が犠牲となった事故から12日で40年になります。事故直後の現場の様子を写した写真です。救助にあたった元自衛官が当時の状況について話しました。
遺族ら御巣鷹の尾根へ
12日午前7時ごろ、手には備えるための花を持ち、御巣鷹の尾根を登っていく関係者の姿がありました。
「40年間で遺族の方もお空に行かれた方も多くて、私はそばに息子や孫がいるから、まずその人たちにどういう形で伝えていくかと、私たちまだ頑張ってるよって頑張るからね、空で見ていてって思いで流しました」
40年前の12日、日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員520人が犠牲となりました。
元自衛隊員が降り立った現場
35年間、防衛省に保管されていた墜落事故当時の資料。そこには陸上自衛隊が撮影した捜索や救助の写真、140枚以上が残されていました。
「(Q.当時、おいくつぐらいですか)26歳ですね」
当時、陸上自衛隊の第一空挺(くうてい)団に所属し、墜落現場へ入った岡部俊哉さん。
岡部さんの部隊が到着した時、機体の残骸や周辺の木々から白い煙が立ち上っていました。
墜落現場は登山道もなく、落石も多い山岳地帯で、陸上から墜落場所へ向かうのは困難な状況でした。事故現場はまるで崖のようなきつい斜面で、わずかな足場に立つ捜索隊の姿が写っています。当然、ヘリが着陸できる場所はありません。
これは当時、陸上自衛隊が撮影した映像です。空中でヘリを停止し後方からロープを使って降りていました。
「すさまじいですね。地獄絵図というか、本当に今まで体験したことがないような悲惨な状態ですので、(ヘリから)降りて最初に踏んだのが…亡くなった方の耳だったんですね。その耳を踏んだこと自体がすごい最初に衝撃的でしたし、申し訳ございませんという思いで…」
危機迫った機内 緊迫の音声
「(爆発音)」
機長
「なんか爆発したぞ」
午後6時24分。爆発音をきっかけに123便に異変が起きます。この時、機内の気圧を保つため外気と機内を遮断する圧力隔壁が突然破損。客室の空気が尾翼内に流れ込んだことで、垂直尾翼が爆発しました。
機関士
「ハイドロプレッシャ(油圧)、オールロス」
副操縦士
「オールロスですか?」
機関士
「オールロス」
副操縦士
「オールロスね?」
機関士
「はい」
123便は残された翼の操縦に必要な油圧系統をすべて失い、操縦不可能な状態に陥いりました。
機長
「山にぶつかるぞ」
副操縦士
「はい」
機長
「ライトターン、マックパワー(最大出力)」
副操縦士
「マックパワー」
操縦のきかない機体は意図しない方角へ進み…。
機長
「がんばれ」
副操縦士
「はい」
機長
「あたま下げろ」
副操縦士
「はい」
機長
「がんばれ、がんばれ」
機体は横滑りのような横揺れと、急激な上昇と降下を続ける縦揺れを同時に起している状態でした。
機長
「あたま上げろ、あたま上げろ、パワー」
「(地上接近警報)」
「(衝撃音)」
爆発からおよそ32分後の午後6時56分。御巣鷹の尾根に123便が墜落しました。
奇跡の生存者 「がんばれ!」
自衛隊の到着後、真っ先に行われたのが、生存者の捜索です。
「人のご遺体が、それこそすごい状態になってバラバラになっているのに、ぬいぐるみがですね。いくつも落ちているんです。それもきれいな状態で。それがすごい印象的なんです。本当に悲惨な状態になったご遺体に対して対比的にものすごく何とも言えない思いでした」
そんななか、無線に「生存者発見」の連絡が入ります。
この墜落事故で4人の生存者が救助されました。
遺体搬送へ 手作業ヘリポート
「ヘリポートを作って最後の晩かな、14日の夜かもしれません。現場検証が終わったご遺体はヘリポートがないともうどうしようもないという状況になったので、とにかく慌ててヘリポートを作りなさいという命令を受けた」
生存者の捜索を終えると、今度は遺体の搬送をしなければなりません。1秒でも早く遺族の元へ帰れるよう、臨時のヘリポートを作ることが急務となりました。
写真にはスコップやツルハシを握る隊員の姿。隊員の手で土や岩を削り、平らな場所を作るところから始めました。
作業は夜中まで続き一度仮眠をとった後、早朝から作業を再開。午前7時ごろにヘリポートの運用を開始しました。
元自衛隊員「ストレス障害」に
事故から3日後、任務を終え帰還した岡部さんに、ある異変が起きました。
当時、凄惨(せいさん)な墜落現場に精神的な傷を残したという岡部さん。現在は震災などの災害派遣を経て、隊員のメンタルケアも変化していったと言います。
(「羽鳥慎一 モーニングショー」2025年8月12日放送分より)