スタッフ志望のはずが、映画「優駿 ORACION」(杉田成道監督)で主演デビューすることになり、多くの映画賞を受賞して注目を集めた緒形直人さん。父・緒形拳さんに「10年続いたら褒めてやる」と言われ、10年死ぬ気でやり続けて褒めてもらいたいと思ったという。俳優として生きていく決意を固めた緒形さんは、25歳で大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」(NHK)に主演。父子2代で大河ドラマの主役を務めたことも話題に。 (※この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧いただけます)
■「優駿 ORACION」の監督、キャストと再び北海道で
「優駿〜」で第12回日本アカデミー賞新人俳優賞を始め、多くの映画賞を受賞した緒形さんだが、一度も「優駿〜」を冷静には見られなかったという。
「あれは、監督がすごく芝居が上手な人で、『こうやってやるんだよ』ってやってくれて、そのモノマネをしたら何とかうまくいったという感じで。僕はもうどうしていいかわからない。見られたものじゃないですよ。あんなでっかいスクリーンに自分の顔が出てくるわけだから圧倒されちゃって。結局冷静には見てないですね、1回も。
ただ、うちのオヤジが見て、『うん、ポテンヒットだったな』って言われたのが一番うれしかったかな。『ヒットだけどポテンだぞ。ポテンだけど、でもヒットだよ』って言ったんですよ。アウトじゃないんだなって。
ここから自分は戦って、きちっと一つ一つの役をモノにしていって、この人に『今回はヒットだったな』って言われるようになりたいって、その時に思いました。だから、そこで、面白い一言をくれたオヤジも、さすがだなって思いますよ、いつも。
それからすぐに銀河テレビ小説に出たり、フジテレビの連続ドラマに出たり、『北の国から’89帰郷』(フジテレビ系)に出たりしたので、そこでまた同世代の俳優たちと交わって、『こいつらは、やっぱりすげえ』と思うわけですよ、毎回。『何とかこいつらと互角に芝居がしたい、早く一緒のスタートラインに立ちたい』っていう風に思って。
そういう時にオヤジが気晴らしに美術館に行くって言うから付いて行ったんですよ。真鶴にある『真鶴町立中川一政美術館』に付いて行ったら、中川一政先生の『我は木偶(でく)なり使われて踊るなり』っていう有名な言葉が掲載されていた画集があったんです。それは映画『オルゴール』(黒土三男監督)でもセリフに使われたり、実際に掛け軸が出てきたりしましたけど、『確かに僕はこれだな』って。
『木偶で何もできないけど、土台の上で踊る。踊るんだよ、踊らなくちゃいけない。そうじゃないと、こいつらにはなかなか太刀打ちできない』っていう風に思って。その画集をそこで買ってきて、そのページを1枚破って額に入れて自分の部屋に飾って、毎日それを見てから現場に向かっていました」
――「北の国から’89帰郷」は「優駿〜」と同じ杉田成道監督ですね
「はい。『優駿〜』の撮影に入る何カ月も前に、『北の国から ’87初恋』の台本を渡されて、『これの純(吉岡秀隆)みたいな芝居をしてほしい』って言われたんです。
『セリフはセリフであって、セリフにはならないでくれ』って言われたんですけど、意味がよくわからなくて『もう1回いいですか?』って聞いたんですよ。そうしたら、『確かにセリフなんだけど、セリフになるな。セリフで言うな。お前の心でこの言葉が出てこなくちゃダメなんだよ』って言われて。
それで、『優駿〜』の撮影が始まって吉岡(秀隆)くんを見た時に、『すげえな、この人。天才なんじゃないかな』って。この仕事を続けていく中で、『オヤジを喜ばせたい、オヤジに褒められたい』というのもあったけど、吉岡くんみたいな芝居ができるようになりたいって思いました。
いつかはなれるんだろうかっていう中で、その後、『北の国から’89帰郷』に誘われたら、そこに吉岡くんがいて。彼のことは『優駿〜』でも見ているわけですよ。『三つも年下だけど、すげえなあ、この子』って。
それで、『北の国から〜』のメンバーに入って、これまた『優駿〜』の時と同じように、何回やっても杉田さんのOKが出ないのに、(恋人役の)蛍(中嶋朋子)も何回も一緒にやってくれて。
『北の国から〜』の世界観に入れた喜びと、ここでちゃんと自分らしく和久井勇次という役ができるのかというプレッシャー。でも、知っているメンツはいるし、そこまでド・アウェイじゃないし…。ド・アウェイで現場に入ってくる人は大変ですよね」
――緒形さんが出演された時点で「北の国から」シリーズは、7,8年放送されていたので、空気感もできあがっていたでしょうね
「そう。だから、正直やっぱり怖かったですね、あの現場は。『優駿〜』が終わってから何本かやってはいましたけど、『ここに来るんだな』という感じで。
でも、田中邦衛さんも『優駿〜』で知っているし、『おー、よく来たな』みたいな感じで迎えてくれるんですけど、やっぱり芝居はできないわけで…。何べんもやってもらって何とか形になって…という感じかな。何十回も蛍に付き合ってもらって、何とかやった印象ですね」
――「北の国から〜」はそのあともスペシャルがありました。勇次さんと別れた蛍ちゃんがまさかの不倫という驚きの展開でしたね
「そうですね。そこに行くまでに、プロデュ―サーは、純と蛍と僕とレイちゃん(横山めぐみ)の4人の話をやりたいと企画していたみたいですけど、倉本(聰)先生が、普通のラブストーリーなんかつまらないから、もっとはちゃめちゃにしたいということで進んでいったんだと思います」
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■青年座の先輩・西田敏行さんは「俳優の神様」■青年座の先輩・西田敏行さんは「俳優の神様」
1990年、緒形さんは大河ドラマ「翔ぶが如く」に出演。西田敏行さん演じる西郷隆盛の弟・西郷従道役を演じた。
――「翔ぶが如く」では劇団(青年座)の先輩で、一時期事務所も同じだった西田敏行さんと共演されました
「はい。西田さんとは何作もご一緒させていただきました。何をやってもすごいし、俳優をやるために生まれてきたような人ですから天職を全うされて…。あの方には何をやっても絶対に追いつけないという感じで、いつも見ていました。『天才』としか言いようがないです」
――西田さんのことで一番印象に残っていることは何ですか
「全部ですね。『翔ぶが如く』を撮っている時に、僕は『予備校ブギ』(TBS系)と『東京湾ブルース』(テレビ朝日系)という二つのドラマの主役をやっていて、ほんのちょっとだけスケジュールが重なっていたんですよ。
3本が重なっていた時には、もう頭の中がおかしくなりそうになっていたんです。そこに『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のテレフォンショッキングに出ることになったりして…。
本当に頭がグチャグチャになっていた時に『翔ぶが如く』で西田(敏行)さんとの2人のシーンがあって。その時に僕はセリフが全然頭に入らなくて、自分が何をやっているのか、わけがわからなくなっちゃったんです。
とにかく頭の中がグチャグチャの状況で、西田さんと2人のシーンで僕が2回ぐらいNGを出したんです。『ごめんなさい西田さん、ごめんなさい。もう1回やらせてください』ってお願いしてやった時に、西田さんはもう全てわかっている方なんですよね。
僕がどうやったって、どうとでも返してくれるんです。あの人は、その時からもう僕の中では『俳優の神様』ですよ。果たして自分は、この先いつか西田さんのようにできるようになるんだろうかって、その時にも思いましたね。全てが敵わない。
この人の近くにいて、この人の作品を見続けていたら何かヒントになるんじゃないかなって思って、あとを追いかけていった感じがありますね。この人の近くにいたら何かプラスになるものがきっとあるんじゃないかなって」
――本当に唯一無二の存在でしたね
「そうですね。喜劇も2枚目風も、バシッとやるところがまたチャーミングでステキで…。本当にすごい人です」
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■父子二代で大河ドラマに主演!20年以上悪夢が…■父子二代で大河ドラマに主演!20年以上悪夢が…
1992年、大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」に主演。父子二代で大河ドラマの主役を務めたことも話題に。
――20代半ばで大河ドラマに主演されましたが、聞いた時はいかがでした?
「僕はこのプロデューサーは、頭がおかしいんじゃないかと思いました。20歳でデビューして、25であの役だったんですよ。話が来たのは24になってすぐ。僕がスタッフ志望だということをどこかの記事で知らないのかなって。
(青年座の)社長さんから『来年の10月スタートで信長できる?』って電話が来たんですけど、その前の『翔ぶが如く』の撮影は10カ月間やっていたので、どれぐらいの期間やるのか聞いたら13カ月間だと言われて。
『何の役?』って聞いたら『信長です』って言うんですよ。『タイトルが信長で僕は何の役?』って聞いたら『だから信長です』って。それで、『何を言っているの?今まで牧場の青年とか大学生とかをやっていた僕が信長のわけないじゃん』って言ったけど『信長なんです!』って言うから、『ちょっとまだ頭の整理ができないから、1回電話を切るわ』って言って。
何日ぐらい考えたのかな?『何で俺なの?』って。歴史の勉強もあまりしてなかったし、信長のことだって名前は知っているけど、1年間演じられるほど細かくは知らない。もちろん家康も秀吉も知らない。『ホトトギスを殺しちゃえ、ぐらいしか知らない人が何をやるの?』って。
でも、脚本家の田向(正健)先生が、『信長をやるにあたって、信長に関しての勉強は一切しないでくれ。今までの知識も全部捨ててくれ』って言うんですよ。捨ててくれも何も、知らないからそれはいいんだけど、『台本だけを頼りにやってくれ』と言われたので、台本だけを頼りにして。
重光(亨彦)さんというチーフディレクターには、その前に『荒木又右衛門〜決戦・鍵屋の辻〜』(NHK)という正月時代劇でお世話になっていて、田向さんはその時の脚本家なんですよ。
その同じ人たちがその3年後にこの話を僕に持ってくるんだから、これは嘘じゃないなって。それで、『何も知らなくていい、ここからでいいんだ』って言うんだから、『すごいなあ、こんな冒険するの、あなたたちは?』と(笑)」
――大河ドラマですものね
「そう。それで、『どうしよう?』って…ない頭でずっと考えて。でも、僕は1回どん底に突き落とされて、そこから這い上がるぐらいのことをやらなかったら、やっぱり10年持たねえなって。ヒデ(吉岡秀隆)みたいにはなれないなって思って。それまで一緒になってきた錚々たる俳優たちの顔が浮かんだんですよ。
その前の『翔ぶが如く』でもいろんな俳優たちを見てきました。もちろん青年座の先輩でもある西田敏行さん、天才的なあの人の(西郷)隆盛像を見てきて。鹿賀丈史さん、内藤剛志さんやらすごい人たちがいっぱい出ていたので、『僕はどうしたらあの人たちになれるんだ?』って思った時に、これも試練なんだなって。
しかも、自分なんか納得させるものが何もない。断った方が簡単だし、断っても多分誰も何も言わなかったと思う。でも、僕の中では『断るのもどうかな?』っていうのがあったんですよね。やり終わってから『これは断ってもおかしくなかったな。これは他の人がやっていたらもっといい話になったかもしれない』って思ったりしましたよ。
当時は『プレッシャー』という言葉はまだあまり使われてなかったんですけど、『何なんだろう?この重みは』って。毎日鎧を背負って現場に行く感じがするぐらい、ものすごく大変な現場でした」
「あの時の演出部のセカンド、サードの人たちとは、それから何年か後に仕事をして、『本当にすごかったですね、緒形さん。もう本当に信長に見えましたよ。当時どういう心境だったんですか?』って言われたんですけど、『俺は本当に大変だったんだよ。もう1回やれって言われたら多分できないし、あれから何年大河の主役の夢を見てきたことか』って。
それこそ悪夢ですよ。今でこそ見なくなったけど、信長が終わって20何年かは、大河の撮影現場で、そこに主役としているんだけど、台本ももらわずにみんなの中に立たされて、『やべえ!』って汗をかいて起きるんですよ。それぐらいの思いをしました」
――20代半ばで大河の主演という大役を見事にやりきって
「本当にあれをやりきって、やりきれた自分を褒めるだけが精一杯。実は途中でちょっと逃げようかなって思ったことも何度かあるんですよ。もうできないんじゃないかって。そんな大変な役をやりきっただけでも、自分で自分を褒めました」
――最終回の「本能寺の変」の鬼気迫る感じが印象に残っています
「そうですか。ようやくこれで終われるんだ、ようやくこの日を迎えられたっていう思いだったのかな。撮影が終わった後、すぐに会見があって、『明日も現場に来る感じがします』みたいなことを言ったんだけど、嘘を言っているんですよ、もう明らかに(笑)。
そんなこと全然思ってない。『やった!終わった!もう寝るぞ』みたいな感じでしたね。よく10円ハゲもできなかったなって思うぐらい大変でしたから(笑)」
――そうこうしているうちにデビューから10年経つわけですが、10年続けたら褒めてやると言っていたお父さまは?
「20歳で始めて30になった時にオヤジに言いました。きっと忘れているから、『10年経ったよ』って。そうしたら『よくやったな。よくできたな』って褒めてくれました。それで、 お祝いにカバンを買ってもらいました。
それはものすごくよく覚えています。オヤジに褒められたことなんてなかったから、初めて褒められて本当にうれしかった。ちゃんと10年間、よく続けてこられたなっていうことですよね。途中で挫折せずに、信長も最後まで何とかやれて良かったなって、その時に思いましたね」
今年でデビューして37年。実力派俳優として広く知られ、数多くのテレビ、映画に出演。映画「サクラサク」(田中光敏監督)、金曜時代劇「スキッと一心太助」(NHK)など主演作品も多い。次回後編では映画「64―ロクヨンー前編・後編」(瀬々敬久監督)、「アンチヒーロー」(TBS系)の撮影エピソード、最新作の映画「シンペイ〜歌こそすべて」(神山征二郎監督)も紹介。(津島令子)
ヘアメイク:井村曜子(eclat)
スタイリスト:大石裕介