中国便り15号
ANN中国総局長 冨坂範明 2023年10月
午前8時、いつものように出勤の準備をしているときに、突然の知らせが、ソウルの同僚からもたらされた。
「韓国の連合ニュースが、李克強前首相の死亡を速報」
ハングルで送られてきた記事は、中国中央テレビのネット速報を引用した一行だけの速報記事。しかし、当の中国中央テレビの放送を始め、いつもは速報を一斉に送ってくる各中国メディアは、沈黙したままだ。
「まだ若いはずだし、誤報なのかな?」
一瞬脳裏をよぎったその思いは、しばらくして吹き飛ばされた。
およそ10分後、死亡を伝える動画が、中国中央テレビのアプリで、確認されたのだ。
■上海で突然の心臓発作 速報からわずか7時間前の死亡
アナウンサーが原稿を読み上げる動画は、30秒ほどの短いものだった。
「上海で休養をしていた前首相・李克強同志が10月26日、突然の心臓発作を起こし、全力の救助の甲斐もなく、翌27日午前0時10分に死亡した。享年68。正式な訃報は後ほど発表する」
驚いたことに、死亡時刻は日付が変わった後の午前0時10分、わずか7時間前だという。各メディアが速報を打てなかったのは、事前に予定稿が党サイドから、配信されていなかったからだろうか。
この3月まで政権ナンバー2の首相を務めていた李克強氏の突然の死去というショッキングなニュースは、瞬く間にSNSを席巻していく。
拡散されたのは、生前最後の公開映像とされる、8月末に甘粛省の敦煌を訪れた時の動画だ。「こんにちは」という声に手を振って応える李克強氏は、健康そうに見える。わずか2カ月後に、突然の心臓発作で死亡するとは、誰が予想できただろうか?
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■就任当時「リコノミクス」で見せた存在感も…■就任当時「リコノミクス」で見せた存在感も…
李克強氏は、習近平氏が1期目の国家主席に就任した2013年の3月に、ナンバー2の首相に就任した。
私は2013年の7月から、1回目の中国赴任を経験しているが、当時の李克強氏は、今とは比べ物にならないくらい存在感があった。前の国家主席、胡錦涛氏に連なる「共産主義青年団」のエリートで、習近平政権発足当初は、「習李体制」と称されていたくらいだ。
改革開放路線をすすめ、貿易や投資を促す政策は、当時の日本の安倍総理の経済政策「アベノミクス」にひっかけて、「リコノミクス」と呼ばれ、その一挙手一投足が注目されていた。
出身は北京大学という最高学府で、同大出身者によると、「彼ほどの秀才はいなかった」という評判もあるという。ただ、父親は安徽省の地方官僚とされ、習近平氏のような共産党エリートの子息ではなかったため、中国の市民は親しみやすさを感じていたのだろう。当時取材した一般の人からは多く、「李克強首相はよくやっている」という声を聞いたが、批判を聞いたことはほとんどなかった。
しかし、その後習近平氏が党の「核心」となり、権力集中を進めていく中で、自らとは違う派閥の「共産主義青年団」出身の李克強氏は、次第に冷遇されていくように見えた。そして、去年の党大会で、年上の習近平国家主席が3選を果たしたのとは対照的に、李克強氏は最高指導部から外れ、完全に引退することとなる。奇しくもその党大会では、同じ「共産主義青年団」出身の胡錦涛前主席が会場から退場させられ、その際に李克強氏の肩をたたいて去っていったのが印象的だった。
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■正式な訃報は「習近平体制への支持」を強調■正式な訃報は「習近平体制への支持」を強調
李克強氏が死亡した27日、国家主席として10年間苦楽を共にしてきた習近平氏は、何を思ったのだろう。確認できる動静では、その日は共産党指導部の会議である「政治局会議」を開催したほか、「中華民族」についての集団学習会を行っている。
集団学習会の映像に映っている習近平氏は、いつもの無表情で、その心中を慮ることはできない。会議が始まる前に黙とうなどをしたという報道も確認できない。
当日の午後7時のニュース項目で、李克強氏の死去のニュースは、トップニュースではなく、3項目目で扱われた。12分にわたる報道だったが、動画も肉声もなく、使われたのは白黒の写真1枚。読み上げられた正式な訃報は、李克強氏の生涯を「輝かしい一生だった」と讃えながらも、その業績は「習近平同志を核心とする党中央の指導のもと」に成し遂げられたものだとされ、3月に首相を退任した後も「習近平同志を核心とする党中央の指導」を断固として支持したと強調された。10年前に「習李体制」と並び称された片鱗は、そこにはなかった。
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■故郷・安徽省で広がる追悼 北京では制限の動き■故郷・安徽省で広がる追悼 北京では制限の動き
翌28日から週末となったこともあり、故郷の安徽省では、追悼の動きが広がった。李克強氏が幼少を過ごしたとされる建物の前には、数万人ともいえる人が献花に訪れ、花束は人の背丈を超えるほどとなった。
一方、同じく李克強氏が長い時間を過ごした北京では、表立った追悼活動は起きていない。むしろ、街角には私服警官の姿が増え、追悼活動を起こさせないよう、監視しているように見える。学生たちに集会を禁じる動きも確認されている。天安門広場に近い地下鉄駅では、一部の出口が閉鎖された。1989年に、胡耀邦氏の追悼活動から、天安門事件につながった流れを、警戒しているのかもしれない。SNS上でも、追悼についてのコメントや書き込みは、一部が制限されている。
今回の突然の出来事が、今後の中国の歩みに、どのような影響を与えるのかは、現時点では想像もつかない。ただし、人々の心の中に、強い印象を与えたことは確かだろう。
李克強氏が首相を退任するにあたって、後輩に送った言葉は、「人が何をしているのか、天は見ている」というものだった。天に上った李克強氏は、この後何を見ることになるのだろうか。