「平和の句」詠めるその日まで…ウクライナの俳人 戦禍の日常を17音節に込め世界へ
[2023/12/02 18:00]
<真つ青な空がミサイル落としけり>
「戦争について俳句を書くことになるとは思ってもいませんでした」
そう語るのはウクライナの若き俳人、ウラジスラバ・シモノバさん(24)。ロシアの侵攻が続くウクライナで、避難生活を強いられながら俳句を詠み続けている。
日々、ウクライナから届く目を覆いたくなるような情報を原稿にしたり放送したりしていた私は、この夏、同年代の彼女が日本で句集を出版すると知り、「彼女の口から話を聞きたい」と強く思った。遠く離れたウクライナから届く作品には、どのような思いが込められているのか、オンラインで話を聞いた。
まるで俳句を詠んでいるようだ。
インタビュー中、通訳を介しても伝わってくる情熱的でありながらも簡潔な表現に私は圧倒された。
(外報部 中崎佑香)
※ 記事内のシモノバさんの俳句は、ロシア語で詠んできたものを日本語に翻訳した句集『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』に収められたものです
■俳句との出会い
<まづ祝へ梅をこころの冬籠り 芭蕉(阿羅野)>
「5・7・5の非常に短い句の中に、いかに多くの意味を詰め込むことができるのだろうと驚きました」
約10年前、持病の治療のために入院していた病院で、松尾芭蕉や与謝蕪村の俳句が収められた本を偶然手に取り、その世界に魅了された。情景の一部を描き、ほのめかすことで、人生や感情を素直に表現できる。病状が悪化し”光”を失っていたシモノバさんにとって俳句は、「神様からの贈り物」だったと語る。
暗い病室のベッドの上で、初めて詠んだ俳句は今でも覚えているという。
孤独や寂しさが自然と形にできた瞬間だった。
<冬の風唸る窓の灯消えてより>
夜が更けて、隣の病棟が暗くなっていく。風の音がより一層心を締め付けた。
当時14歳だったシモノバさんにとって俳句は、それまで表現できずにいた心の内を形にする大切な道具になった。
俳句を詠みたいと思う瞬間は、「強い感情に触れた時」だと表現するシモノバさん。
それは、綺麗な景色を写真に残したいと思う感覚と似ているという。
<屋根の上歩いてみたき月夜かな>
<そこここに草の香立てて犬走る>
<届かざる窓いっぱいの桜かな>
月が綺麗な夜、季節の移ろいを感じた日、美しいと思ったものを俳句に刻み続けた。
2018年の第7回日露俳句コンテスト(ロシア語部門・学生)ではJAL財団賞を受賞するなど作品は高く評価され、いつまでも「美しい世界を詠める」と思っていた。
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■「戦争」が始まった日に見たもの■「戦争」が始まった日に見たもの
2022年2月24日。当時、ロシアとの国境に近いハルキウに住んでいたシモノバさんの暮らしは一変した。今でもこの日の記憶は鮮明に残っているという。
朝5時に爆発音で目が覚め、ネットニュースを見て現実を知った。
「数時間後に起きることさえ分からず、しばらくは現実を信じられませんでした」
夜になると、家の灯も街灯もすべて消え、経験したことのない暗闇に包まれた。空からの敵の攻撃を難しくするため、街で「灯火管制」が始まったのだ。ふと窓の外を見ると、空には満天の星が輝いていた。この時のことをシモノバさんは次のように残している。
<冬の星あふれて灯火管制下>
長い一日の終わり。それは、これから続く長い戦いの日々を実感させるものでもあった。
「辛いとき、私たちの相手になるのは星だけです」
明日を迎えることはできるのだろうか、そう思うと涙がこぼれた。
■地下壕での生活…そして俳句の変化
翌25日、空襲警報や爆発音が鳴り響くなか、両親と愛犬のチワワとともに地下壕に避難した。約3カ月間の地下での生活が始まった。
300人以上が身を寄せ合い、はじめは十分な食料や横になる場所すらなかった。日常が戦争に飲み込まれ、故郷の街並みもそこに住む人々の夢も、すべてが壊されていくなかで、シモノバさんは俳句を詠み続けた。
<地下壕に開く日本の句集かな>
「戦争をきっかけに、言葉が出なくなる作家や詩人も多くいます。私は、俳句を通して戦争の記憶や感情を自分なりに受け止め、この惨状を伝えていこうと思いました」
<地下壕に紙飛行機や子らの春>
ある日、地下壕では子どもたちが無邪気に紙飛行機を飛ばして遊んでいた。一見すると微笑ましい光景だが、その上空ではロシア軍の戦闘機が飛んでいた。シモノバさんの耳に、子どもたちの笑い声と爆撃音が響いた。
「人生が変わるということは、俳句も変わるということです」
いつしかシモノバさんの詠む俳句のテーマは「花や木」などの美しい世界から、「戦争」へと変わっていた。
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■外国語で詠む世界一短い文学「HAIKU」■外国語で詠む世界一短い文学「HAIKU」
シモノバさんがこれまでに詠んだ句は700句を超える。生まれ育ったウクライナ北東部のハルキウではロシア語を話す人が多く、俳句もすべてロシア語で詠んでいた。
しかし、今や敵対する国の言語となり、シモノバさんはロシア語を話すことをやめた。俳句もすべてウクライナ語に訳し直すことにした。
「ロシア語とウクライナ語は似ていますが、単語が違うため韻律(リズム)を整えなおす必要があります」
俳句はアルファベットで「HAIKU」とも表され、世界一短い文学として近年、海外でも広く親しまれている。日本語で詠まれる俳句が5・7・5の17音なのに対し、HAIKUは5・7・5のリズムが「音節」で作られる。シモノバさん自身が英訳した前出の俳句「地下壕に紙飛行機や子らの春」でも、この法則が当てはまる。
(英訳)
Children are playing
Flying their paper airplanes
In the bomb shelter.
Chil/dren/are/play/ing(5)
Fly/ing/their/pa/per/air/planes(7)
In/the/bomb/shel/ter.(5)
また、必ずしも季語を含む必要はなく、5・7・5に近い形で韻を踏んでいれば良いとする人も多い。しかし、シモノバさんはできるだけ「伝統を崩さないように努めている」という。
「5・7・5の限られた韻律で表現するからこそ、メディアの報道では感じることのできない繊細なニュアンスを届けられるのではないかと思います」
<いくたびも腕なき袖に触るる兵>
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■初めての句集を日本で刊行■初めての句集を日本で刊行
ロシアの侵攻が始まって約半年が経ったある日、シモノバさんのもとに句集刊行の話が届いた。夢だった初めての句集制作。しかも出版されるのは俳句の故郷、日本だ。書き溜めた700の句を厳選する作業から始まった。
シモノバさんと交流があった俳人の黛まどかさんが句集を監修することになった。
「具象的で、小さな機微をすくい取る繊細さを持ち、深いところで物事を捉えています」
黛さんは、シモノバさんの「戦禍の日常が切り取られた」俳句に心を打たれたという。
「俳句には匂いがあったり、温度があったりします。それが一層、戦争のむごさを浮き彫りにしていました」
句集の刊行は戦争の実態を世の中に知らしめる「一俳人の命懸けの行為」だと、10人以上の俳人や翻訳者を交え、約1年にわたって打ち合わせを重ねた。シモノバさんとやり取りしたメールの数は100本を超えるという。
シモノバさんの本意を損なわないよう、ウクライナの状況をよく知るウクライナ人やロシア語を母語とするロシア人もチームに加わり、17音節で詠まれたHAIKUは、「日本人の心に響く」17音の俳句へと翻訳された。
そして8月、これまでの俳句50句が収められた句集『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』(集英社インターナショナル)が完成。日本の人々へと届けられた。「ウクライナの惨状を世界に伝えたい」と語っていたシモノバさんにとって、大きな一歩となった。
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■この先の夢…そして「平和の句」詠める世界へ■この先の夢…そして「平和の句」詠める世界へ
「作品を読んでもらえると思うと心が震えます。俳句には言霊が存在します」
次の夢はウクライナで句集を出すことだというシモノバさん。俳句との出会いがシモノバさんを救ったように、自身の詠む句でウクライナの人々に「俳句という扉」を開き、困難の中でも「美しさ」や「希望」を見出し続けたいと話す。
シモノバさんがハルキウを離れ、親戚が住む別の街で生活を始めてから1年以上。故郷に戻れる日がいつになるのかは分からない。
「自分の家に帰り、仕事に就き、普通の平穏な暮らしを取り戻したいです。その日まで私はペンという武器を手に戦い続けます」
<鳥戻る戦地となりし故郷に>
シモノバさんはきょうもペンを握り、「誰もが平和の句を詠める世界」を願う。
きょうも「平和」からはかけ離れたニュースと向き合う私の心には、シモノバさんの俳句と『平和』への思いが刻まれている。