「人が温かいから」被災地に戻るシングルマザー 「国の支援は私たちに届いていない」
[2024/02/08 16:00]
1月27日に再開した能登空港。
羽田空港からの第1便にシングルマザーの角野麻子さんは子ども2人と乗っていた。
年末から埼玉県にある実家に帰省していたため、能登半島地震が発生してから初めて戻ってきた。
能登半島の先端・珠洲市にある自宅までたどり着けるのか?自宅は大丈夫か?
最初の心配は「車」が動くのかどうか。帰省するときに車を能登空港の駐車場にとめたため、置きっぱなしになっている。車のバッテリーは上がっていないか、エンジンはちゃんとかかるのか?
(テレビ朝日社会部 岩崎文生)
被災地へ帰ることを決意させた「人とのつながり」
角野(すみの)さんは石川県に住んで10年。能登町の小学校で臨時的任用講師として教壇に立っている。
去年8月、祖母の土地があった隣の珠洲市に家を建てた。
7歳の息子は家から見える距離にある小学校に通い、4歳の娘は仕事をする間、保育所に預けている。
珠洲市では今も断水が続いている。
帰省中、親からはせめて断水が解消するまでは埼玉県の実家にとどまるように促されていた。それでも、珠洲市に戻ることを決めた。
能登空港から車でおよそ1時間。珠洲市へ向かう途中、いたるところで家屋が倒壊していた。年末から変わり果ててしまった光景。周辺の古くからの住宅は軒並み倒壊していたが、角野さんの住宅は残っていた。
「使用可能」と書かれた緑の紙が貼られていた。
中は大丈夫だろうか?
玄関ドアのカギを開けて中に入る。
家具や子どものおもちゃなどが散乱し部屋の中はめちゃくちゃになっていたが、何とか住める状態だった。
「去年ここに引っ越してきて、お隣さんにもすごくお世話になって…いつも声をかけてくれて」
子育てをするうえで、人の温かさに救われていたのだという。
勤務する小学校や子どもたちのことを放っておけないという思いもあった。
水は出ないが、ここで寝泊まりをするつもりだと言った。
引っ越してきた角野さんを気遣ってくれたお隣さんの家は全壊し瓦礫となっていた。
地震の後、ずっと埼玉で心配していたが、安全な場所にいる自分から連絡をすることがためらわれたのだという。
角野さんがそう気遣ったお隣さんは、その後、金沢の家族の家に身を寄せていることがわかった。
仕事と子育ての両立に必要な支援
被災地ではいま、保育士不足が深刻だという。
角野さんが娘を預けている保育所では、保育士も被災しているため人数が足りておらず、地震の前のようなサービスを提供できていない。保育の時間が2時間ほど短くなっているほか、昼にはいったん迎えにいき、自宅で昼食を食べさせたあと、再び保育所に送っている。
息子の学童保育も以前のように復旧しておらず、角野さんは働く時間よりも長い時間を子供の送り迎えに費やさざるを得ない状況だ。
ひとり親世帯にとって切実な問題なのだと訴える。
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「本当は不安で仕方がない」輪島市で被災したシングルマザー「本当は不安で仕方がない」輪島市で被災したシングルマザー
同じくシングルマザーの松本百合さん(仮名)は輪島市で被災した。
地震発生時は、新年の挨拶で訪れていた知人の家にいたがその家が倒壊した。
死を覚悟したという。
わずかな瓦礫の隙間からなんとか自力で外にはい出ることができた。
子ども3人は別の場所にいて無事だった。
輪島市内の4LDKの借家は床がずれるなどの被害はあったが、生活はできる状態だったので、避難所には行かなかった。
今は3人の子どもと父親、地震で家を失った妹夫婦とその子どもの8人で暮らしている。
中学1年の娘は集団避難で家族と離れ白山市に避難したが、3日後には戻ってきた。
LINEでやり取りをしていたが、突然「もう帰りたい」とメッセージが送られてきた。
松本さんは娘が「めまぐるしく変わる環境に気持ちが追い付かなかったのかもしれない」と考え「帰っておいで」と返信して避難先に迎えに行ったのだった。
心のバランスを崩しているのは子どもだけではない。
地震で家を失った妹夫婦は漁師をしていたが、港と船が地震の被害を受けたため漁ができない。
港で荷揚げの仕事をしていた百合さんも職を失った。
今は父親の年金が唯一の収入源だ。
「復興割で助かる人もいるかもしれないが私の周りにはいない。2万円でも直接給付されれば生きていく足しになる」
周囲も同じ悩みや不安を抱えていることがわかり、私たちの取材に対し、窮状を訴えることを決めたという。
子ども3人を抱えてこれからどうやって暮らしていくのか。
人前では笑って話していても、ふと、心のバランスを崩しそうになる瞬間があるのだという。
別れ際、百合さんはそう言って笑った。